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【4:噴水そばのトラブル──交錯する想いと涙の影】

 午餐会が始まってから、さらに人が増え、庭園の中央付近は多くの貴族たちでごった返していた。涼やかな噴水のまわりでは、高貴なドレスの裾が揺れ、銀の食器が光を反射し、小さな楽団が優美な調べを奏でる。


 しかし、その華やかな光景とは裏腹に、エリーゼ・ハウフマンの胸には不安が一層募っていた。先ほど、ほんの一瞬だけフィリップ殿下と視線が交わったが、何も言葉を交わさずにすれ違ってしまったからだ。あれだけ決意していた「挨拶の機会」すら、全くうまく掴めないとは──彼女は意気消沈して、噴水から離れた場所へと逃げるように退いていた。


 庭園の隅、あまり人目に触れない植え込みの近くで、エリーゼは落ち着かない呼吸を整えようとしていた。少しずつ足が震え、視界がにじむ。王族の前に出ることがこれほどまでに恐怖をもたらすのは、やはり占いで視た“自分が処刑される未来”が頭から離れないからだ。


 (どうして……どうして私は、あのまま殿下に話しかけられなかったんだろう。みっともなく逃げ出して……またシャルロッテに笑われるわね)


 そんな自己嫌悪を噛み締めていると、ふと視界の端で人影が動くのに気づいた。


 淡いピンクのドレスの裾がちらりと揺れ、取り巻きの令嬢たちを伴ったシャルロッテがゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。


 彼女は明らかに“後を追いかけてきた”とわかる振る舞いで、エリーゼの姿を確認すると、花壇をまわって笑顔を浮かべながら接近してきた。


「まあ、エリーゼ様。こんな端のほうでどうなさったの? せっかくの午餐会ですのに、人の輪に混ざらずお独りでいらっしゃるなんて……」


 上品な声色とは裏腹に、その瞳にはどこか勝ち誇ったような光が宿っている。エリーゼは苦手な相手だとわかっているが、逃げ道がなく、やむなく背筋を伸ばして顔を向けるしかない。


「……シャルロッテ様。ごきげんよう。私は、少し息苦しく感じて……人が多いから……」


 エリーゼは言葉を濁す。実際、冷汗が流れるほど息苦しいのは事実だが、それをシャルロッテに悟られれば、また“悪役令嬢が怖がっている”と噂されかねない。


「そう、息苦しいのね。確かに、あちらは賑やかだから……。でも殿下はさっきあなたのほうをちらりと見たように思ったけれど?」


 シャルロッテは取り巻きと視線を交わしてクスクス笑い、「エリーゼ様は何かご挨拶しようと動かれたのかしら? 殿下が気づいてくださらなかったとか……そういう感じ?」と囁く。


 その言い草は、まるで「あなたが殿下に近寄ってスルーされたのね?」と揶揄するかのようだ。エリーゼは唇を噛み、冷静を保とうとする。


「いえ……殿下はお忙しいご様子でしたし、私から声をかけるのは失礼かと思って」


「まあ、それもそうね。殿下に無礼を働けば、ただでさえ“悪役令嬢”と呼ばれるあなたの立場が、もっと危うくなるものね」


 まるで針を刺すような言葉。周囲の取り巻き令嬢たちは何やら面白そうに笑いをこぼし、その視線がエリーゼをさらに追いつめていく。


(ここで言い返したらシャルロッテの思う壺だわ。それに、今逆上すれば本当に“悪役令嬢”扱いが加速してしまう……)


 シャルロッテが振り向き、取り巻きに「さあ、あちらに戻りましょうか。殿下がいらしてるのに、こんな端のほうで浪費していられないわ」と言い始めたとき、何かの気配を感じ取ったエリーゼが足をずらすように後ずさる。


 しかし、その拍子に隣のテーブルに置かれていたグラスが衣の裾に引っかかり、カタリと音を立てる──。思わずエリーゼは「わ……っ!」と短い悲鳴を上げ、慌ててグラスを押さえ込むが、バランスを崩して危うく落としそうになる。


 近くにいた取り巻き令嬢が「きゃっ、あぶない!」と声を上げる。シャルロッテも驚いた表情を浮かべるが、それは一瞬のことで、すぐにクスリと苦笑した。


「まあまあ、やっぱり悪役令嬢らしく、いろいろやってくれるのね。……大丈夫?」


 その問いかけは表面上は優しげだが、侮蔑の色が滲んでいる。「あなた、またドジを踏んで殿下の目に留まりたいの?」という意図まで含んでいるかのようだ。


 エリーゼは胸がギュッと締め付けられ、なんとかグラスを立て直しながら震える声で「ごめんなさい……ちょっと、裾が引っかかって……」と述べる。


 赤面と苦しさで頭が混乱し、周囲に見られているのを感じてさらに恥ずかしい。嫌な汗が背中を伝う。


 しかし、そんな小さなアクシデントに気づいた存在がもう一人いた。少し離れた場所にいたフィリップが、エリーゼの方でグラスが落ちかける動きがあったのを視界の端で捕捉したのだ。


 すぐさま護衛の騎士らしき者が「殿下、こちらです」と引き留めようとするが、フィリップは制止を振り切るように静かにそちらへ向かう。


 周囲の貴族たちが「殿下……?」と怪訝そうに目を丸くするなか、彼は冷酷な面差しを保ったままシャルロッテとエリーゼの位置へ足を進める。


 一瞬、その場に何とも言えない緊張感が走る。


 シャルロッテが「殿下……!」と慌てて振り向き、取り巻き令嬢たちが一斉に頭を下げる。その表情には“まさか殿下がこんなところへ?”という驚きが混じっていたが、フィリップはそちらには目もくれない。


 無言のまま、エリーゼの方へ少し距離を縮めると、軽く視線を落として彼女の無事を確かめるように見つめる。


 (あ……殿下……!?)


 エリーゼはその漆黒の瞳に射すくめられた気分になり、咄嗟に声が出ない。先ほどまで震えていたグラスを何とかテーブルに戻したが、心臓がバクバクと鳴り止まない。


「……怪我はないのか?」


 低く抑えられたフィリップの声が、冷たく見える表情に似合わず、ほんの少し優しげに響いたように感じた。シャルロッテたちは息を呑む。周りの貴族も遠巻きに「殿下がエリーゼに声を……」とざわめく空気が流れる。


 エリーゼは、そんな周囲の視線のなか、恐る恐る殿下を仰ぎ見て小さく頷く。


「は、はい……だいじょうぶ……です……すみません」


 つい謝罪の言葉が先に出てしまう。恐縮しながらも、その声が震えているのを自覚して恥ずかしくなる。


 緊張に包まれた沈黙が数秒続く。シャルロッテは取り巻きと共に、まるで呆然としたように立ち尽くしている。


 フィリップはエリーゼをひと通り見渡し、特に衣や手に怪我やこぼれた液体の跡がないことを確認すると、淡々とした口調を続ける。


「そうか。ならよかった。……もし何かあれば、近衛兵に声をかけるといい。……転びでもしたら、怪我をするからな」


 まるで心配しているともとれる言葉だが、その声色はどこか硬く、周囲に冷えた空気が漂う。それでもエリーゼの鼓動はますます激しくなる──王子に直接言葉をかけられたのは、初めての経験だ。


「……ありがとうございます、殿下……」


 それだけ言うと、エリーゼはもうまともに声が出ない。喉の奥がこわばり、殿下からのまっすぐな視線が逃げ場を与えてくれない。


 だがフィリップも、ここからさらに踏み込んで話をすることは難しい。なにせ周囲には多くの視線が注がれている。もしここでプライベートな会話を続ければ、余計な詮索や噂が広がるのは必至。


 そして、王族である彼は冷酷王子としての仮面を維持し、むやみに感情を露わにすることなどできないのだ。


 「失礼する」


 短くそれだけ言い残し、フィリップは来たときと同じようにくるりと踵を返して去っていく。後を追おうにも、エリーゼには足がすくんで動けなかった。


 代わりにシャルロッテたちは心中穏やかでない様子が見て取れる。「殿下がわざわざ声をかけた……?」と取り巻きが動揺しているのを、シャルロッテは一瞥しながら強がりの笑みを浮かべる。


 「殿下は優しいのね。あの悪役令嬢にさえ心配の言葉をかけるなんて……」


 嫌味まじりの呟きに、エリーゼは返す言葉をなくしてうつむく。


 こうしてほんの数十秒の短いやりとり。殿下は去り、エリーゼはその場に立ち尽くす。


 けれど、彼女の心には確かな衝撃が残されていた。表情こそ冷たかったが、あの言葉はどう受け取ればいいのか──「もし何かあれば、近衛兵に声をかけろ」。それは、彼女を遠ざける態度なのか、それとも暗に“守る意志がある”という合図なのか……。


 ともあれ、初めてフィリップ王子から直接言葉をかけられたのだ。殺意むき出しではなく、わずかに心配してくれたようにも感じる──その微かな温もりが、エリーゼの胸をちくりと切なく刺激する。


(殿下は……本当に冷酷な方とは思えない。あんなふうに声をかけてくれるなんて……。でも私がどう応えればいいのか分からなくて……)


 隣ではシャルロッテが不機嫌そうに「何よ……一体あの子、どんな手を使ったの? 殿下が声をかけるなんて……」と取り巻きに小声で文句を言っているのが聞こえるが、エリーゼは耳を貸さずに胸を抑える。


 視線を落としてみても、身体はまだ強張りが抜けないが、なぜか少しだけ肩の力が抜けたような気もしていた。あの処刑の未来が、もしかしたら回避できるかもしれない──そんな小さな希望が、心の奥で灯ったのだ。


 こうして、エリーゼとフィリップは初めての言葉を交わした。


ほんの一瞬、ほんの短いやりとり──だが、そこには冷酷王子の仮面の下に隠された“保護の意志”があり、そして悪役令嬢と呼ばれるエリーゼの胸に芽生えた“迷いながらの安堵”があった。


 周囲の視線は相変わらず冷ややかだし、シャルロッテの敵意も未だ健在。けれど、二人の関係は確かにゼロから一へと一歩を刻んだ。



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