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【3:薄氷の距離──初めての言葉、すれ違う想い】

 午餐会が始まってからしばらく経った頃。


 王宮の庭園には、一段と多くの人々が集まってきていた。貴族の子息・令嬢たちは美しい装飾のテーブルを囲み、軽食や飲み物を味わいながらも周囲の様子をうかがっている。華やかな笑い声が飛び交い、ときおり噴水の音が静かに響く。雲ひとつない青空はまさに社交の舞台にふさわしいのだが、エリーゼ・ハウフマンにとっては息苦しいだけだった。


 彼女は一つのテーブルに腰を下ろしたまま、なかなか立ち上がれないでいる。すでに殿下──フィリップ・フォン・クラウゼルは噴水周辺を回りながら、貴族や重臣と挨拶を交わしていた。黒髪をなびかせた厳かな姿は、一目で周囲を圧倒する存在感を放っている。


 その姿を横目で捉えるたびに、エリーゼの胸は痛む。あの冷たい雰囲気が昔から苦手なうえに、未来視では彼に首を斬られるヴィジョンを見てしまったのだから、尚更近づく勇気が出ない。けれど──。


(このまま逃げるように過ごして、何も話さずに終わったら、私はいつ運命を変えられるの……?)


 幾度もそんな問いが頭を巡り、最終的には「せめてご挨拶だけはしなければ」と決意に似た思いを抱く。しかし、実際に立ち上がろうとすると足がすくむのだ。もし周りの視線のなか堂々とフィリップ王子へ近づけば、“悪役令嬢”が何をしようとしているのか、と周囲が騒ぎ立てるかもしれない。そこにシャルロッテなどが絡んでくれば、さらにややこしくなるだろう。


 一方、噴水のほうではピンクのドレスを身にまとった伯爵令嬢シャルロッテが、楽しげに貴族子息たちと談笑していた。その目はときおり、殿下がどのような動きをしているか、さらにはエリーゼの様子をチェックするように鋭く光る。


 シャルロッテは華やかな笑みを湛えつつ、耳を澄ませて周囲の話に耳を傾ける。


「殿下は近頃、どことなく浮足立っておられるという噂を聞きましたけれど……本当かしら」


「さあ。でも“冷酷王子”と呼ばれる殿下が浮つくなんて信じがたいですわ。もしそうなら、その原因は何か、皆気になってますもの」


 彼らの言葉を綴るように飲み込みながら、シャルロッテは心の中で(やはり殿下が何か普段と違う行動をしている? もしそれがエリーゼに関係するなら、放っておけないわね)と思案する。


 ──自分が殿下の心を掴みたいと思う以上、エリーゼがそこに割り込む可能性があれば、排除したいと考えるのも自然だろう。シャルロッテはそっと噴水脇のテーブルを離れ、ちらりとエリーゼのほうへ視線を投げる。すると、エリーゼは相変わらず椅子にしがみついたようにじっとしている。


(あの子……何を怖がってるのかしら? いくら悪評があっても、ここまで目立たないなんて逆に不自然ね。まさか本当に殿下へ取り入ろうと虎視眈々と狙っているんじゃないでしょうね)


 やがてシャルロッテは、取り巻きの令嬢に小声で指示を出し、エリーゼの動きに注意するよう仕向ける。取り巻きは「かしこまりました」と微笑みつつ、再び群れの中へ散っていく。


 彼女としては、“あの悪役令嬢”が殿下に近づくのを阻止するか、あるいは何か粗相を犯すのを待って、それを見逃さないようにしたい──そんな思惑がにじんでいる。



                  ◆



 フィリップ王子は、近衛騎士を数名引き連れて庭を回っていた。何人かの貴族から小声で話しかけられるが、最小限の返事しかせず、興味がなさそうに見える。今の彼の目的はただ一つ──エリーゼを見つけ、機会があれば話をすること。


 (あそこにいる……椅子に腰を下ろしているのがエリーゼか。ずいぶん元気がなさそうだが……)


 視界に捉えても、すぐに近寄れない。彼自身、王子として軽々しく一人の令嬢のもとへ歩み寄れば、周囲が過剰に反応するのが分かっている。ましてや彼は“冷酷王子”として常に厳しい注目を浴びているのだ。


 騎士長が「殿下、あちらで伯爵閣下がご挨拶をお待ちかと」と声をかける。フィリップは軽く顎を引いて応じるが、ほんの一瞬、エリーゼに向けて何か手立てを打てないか考えを巡らせた。


(彼女に直接話しかけても、驚かせるだけか? それとも短い時間でもいいから挨拶を……)


 周囲の多くの視線が、自分とエリーゼを同時に観察しているのを感じ取る。万が一、ここで彼が彼女を特別扱いすれば、さまざまな噂が爆発的に拡散するかもしれないし、エリーゼがさらに追い詰められる恐れもある。


 一方で、彼女が本当に危険に晒される存在(あるいは陰謀に巻き込まれてしまう)のであれば、今こそ何かきっかけを作らなくては悪夢通りの破滅が待つだけ……。


 (くそ……どう動けばいい……)


 フィリップは表情を崩さずに焦燥感を抱えていた。



                  ◆



 ずっと椅子に座っていたエリーゼもついに我慢の限界に達していた。どんなに大人しくしていても、周囲の視線は冷たいままだし、殿下が近づいてくる気配は一向にない。何より、このまま“悪役令嬢”という噂に押しつぶされるだけでは運命を回避できないのではと感じる。


 (もしここで私から殿下にご挨拶へ行けば、注目を浴びるだろう。でも、何もしないまま終わりたくない……)


 思い切って席を立ち上がると、周囲の視線が一斉にこちらを捉えるのが肌で分かる。心臓が急に跳ね上がったが、エリーゼは頑張って落ち着きを装い、ドレスの裾をさりげなく直して歩き出す。


(まずは噴水のあたりまで行こう……。殿下がまだそちらにいれば、軽くでも言葉を交わすチャンスがあるかもしれない)


 足元が少し震えているのを感じながら、一歩、また一歩と踏み出す。視線の先には、騎士らしき人物たちの姿が見え、その中に漆黒の髪を持つ背の高い影も混じっていた。


 同時に、その行動を見つけたシャルロッテの取り巻きが、ちらっと目を丸くして何か囁き合っているのが分かる。「あの悪役令嬢が殿下のほうへ?」という含みが見て取れた。



                  ◆


 フィリップは伯爵や子爵らしき人々に通り一遍の挨拶を交わしたあと、再び近衛騎士と話し込んでいた。その後ろ姿を眺めながら、エリーゼは少し距離を詰めてみる。心臓が破裂しそうな鼓動を叩いているが、呼吸を抑えて前進。


 あと数メートル──と思ったその瞬間、フィリップがふいにくるりと振り返った。


 「……っ!」


 まさに視線が合う。彼の瞳が淡い光を宿し、いつも“冷酷”と言われるのとは違う揺らぎのようなものが見える気がした。エリーゼの体が一瞬固まる。


 黙ったままの数秒。まるで世界が一瞬止まったかのような錯覚をエリーゼは覚える。


 (殿下……今、私に気づいたの……? 話しかけていいの? どうすれば……)


 しかし、そこから先が出てこない。心の声は奔流のように騒ぐのに、唇が動かない。むしろ周囲の視線と殿下のまなざしが交錯してしまい、思考が真っ白になる。


 フィリップも同じく戸惑っていた。こんな形で突然エリーゼと目が合うとは思っていなかったのだ。しかも、近くには騎士や貴族がいるため、彼女だけに話しかけるのは目立ちすぎる。


 (どうする……一言でも挨拶すればいいのか? でも周りが見ている……いや、それでも……)


 意を決して、口を開きかけるが、直前に伯爵家の者が「殿下、お時間は大丈夫でしょうか?」と声をかけてきてしまい、フィリップは反射的にそちらへ視線を向けてしまう。


 その数秒の隙に、エリーゼの意識は再度強い不安に襲われてしまった。軽い眩暈を覚え、ドレスの裾をぎゅっと掴む。あまりに多くの人がそこにいて、王子を取り巻く空気が厚い壁のように感じるのだ。


(だめ……やっぱり、こんな状況で殿下に話しかけるなんて……私には無理……)


 呼吸が苦しくなり、足がすくんでしまう。そんな彼女の様子を、一部の令嬢が不審げに見ている。



                   ◆



 結局、一言も発せずに二人の視線はすれ違った。フィリップは伯爵家の者に短い言葉を返しながらも、内心で焦りを募らせる。エリーゼも同じようにチャンスをつかめず、噴水の脇で足を止めたまま動けない。


 すぐそばに、シャルロッテの取り巻きらしき令嬢がじっとこちらを見ているのに気づき、いたたまれなくなったエリーゼはもう席に戻ることすら憚られる気がして、噴水からさらに奥へ歩き出す。


 (何やってるんだろう、私……結局、殿下と話せなかった。それどころか目が合っただけで動揺して逃げ出して……)


 心に自己嫌悪が渦巻く。未来を変えるために行動しようとしたはずなのに、この一瞬の対面でさえ台無しになってしまった。


 結局、エリーゼは庭園の隅のほうへ移動することで、その場から離脱する形となる。周囲からは「あの悪役令嬢は何しに歩き回ってるのかしら」などと好奇の声が上がるが、もう意識していられないほど息が乱れていた。


 ここまで強いストレスを感じるとは思わなかった。彼女の頭の中には、処刑のヴィジョンと、殿下の無表情が交錯している。


(私、どうすればいいの……本当に、どうしたらあの未来を回避できるの……)


 一方でフィリップも、エリーゼが視界から消えていったのを横目で確認すると、ほんの一瞬言いようのない後悔が胸に襲いかかる。(目が合ったとき、何か言葉をかければよかったのか?)


 実際には周囲に人が多く、口を開けば目立つのは確実。それが彼女を追い詰める恐れもある。しかし、何もしないままでは悪夢の未来に近づくだけかもしれない。


 騎士長や伯爵家の人物が相次いで挨拶を求めてくる。フィリップはやむなく対応を続けるが、その最中も頭の片隅で「エリーゼは大丈夫か」と気を揉んでいた。



(……あとで落ち着いたときにでも、もう一度話しかけてみるしかない。もしタイミングを逃せば、午餐会が終わってしまうし……)


 冷酷を貫くような鋭い目つきの裏には、どうにか“彼女を救う”ルートを探そうとする強い思いが潜んでいる。誰にも知られることなく、そのまま時間が過ぎれば、二人の運命は再び絡まぬまま別の方向へ流れてしまうかもしれない。


 ──それを避けたい、とフィリップは切に願うが、あくまでも王子としての立場から不用意な行動は取れない。もどかしさが募るばかりだ。


 刹那の視線を交わしたエリーゼとフィリップだったが、互いに言葉をかけることもなくすれ違いに終わってしまう。


 シャルロッテや他の貴族令嬢はそんな二人の動きを見守りつつ、さらに何が起こるか興味を持っているようだ。噂に彩られた“悪役令嬢”と、“冷酷王子”のほんの一瞬の交差──多くの視線とさまざまな思惑が背後で交錯している。


 エリーゼは庭園の隅で胸を押さえ、かすかに息を整えながら「今度こそ……次こそ殿下と話さなきゃ」と再度決意を固める。一方フィリップは騎士たちに囲まれながら、(落ち着け、まだ機会はある)と己を律する。


 花々が煌めく中庭。音楽が始まり、さらに多くの来場者が噴水付近へ集まっていく。そのにぎわいのなか、二人の運命の糸は決して解かれぬまま、ぎりぎりとした緊張感だけを残して張り詰め続ける。


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