【1:王宮の午餐会開幕──噂と視線が交錯する庭園】
鐘がなった。正午を知らせる鐘だ。
午餐会のはじまりである。
王宮の広大な庭園には、色とりどりのドレスを身にまとった貴族令嬢や、瀟洒な装いの若い貴公子たちがぞろぞろと集まりはじめていた。噴水の涼やかな水音が響き、風に揺れる花の香りがほのかに漂う。
まさしく、優雅な午餐会の一幕を彩る舞台──けれども、その光景を見つめるエリーゼ・ハウフマンの心は決して晴れやかではなかった。
ここ宮廷には、多くの貴族が自然と集まってきており、あちこちで笑い声や挨拶が飛び交っている。
庭園中央には、噴水を取り囲むように丸テーブルがいくつも配置され、青空の下には白いパラソルがそこここに立っている。明るい日差しを受けて、テーブルクロスの刺繍が輝きを放ち、ワイングラスや銀製の食器がきらめいていた。
(ここが今日の舞台──そして、フィリップ殿下がいらっしゃる場所……)
エリーゼの胸は小さくどきりと痛み、自然と息を呑んだ。
午前中から来場していた人々は、概ね貴族の子弟が多く、自由に来場しては、庭園を散策したり、会話を楽しんだり、あるいは準備を手伝ったりとしていた。
王家の方々が一定の時間になって挨拶を述べる“簡単な儀式”があるため、その時間までには、貴族の主とその婦人が集まってくる。
エリーゼが歩みを進めると、既に何組かのグループが視線をこちらへ向けているのを感じる。「無愛想なのはどうにかならないのかしらね」「悪役令嬢ってのも不思議じゃないわね」「ハウフマン家の令嬢か……なるほど」と、囁く声がわずかに耳に届いたような気がする。
(やっぱり……今日も噂に飲まれるのかしら。落ち着かなきゃ……)
スカートの裾を軽く整え、エリーゼは表情を崩さないように意識した。下手にびくびくしている姿を見せれば見せるほど、“悪役令嬢”のレッテルを強化してしまうかもしれない。そのことを彼女は十二分に理解している。
「エリーゼ・ハウフマン様、こちらがお席でございますね」
王宮の係官がエリーゼを案内し、彼女のテーブル周辺を示す。そこには既に数名の令嬢が並んでいたが、気を遣ったのか、彼女たちはあまりエリーゼに近寄ろうとしない。
どこかぎこちなく空気が漂うなか、エリーゼは静かに椅子へ腰かける。まだ“本番”と言えるほど人が全員集まってはいないが、それでもすぐ隣のテーブルに並ぶ貴族たちがエリーゼをチラリと見るのを感じ取る。
(大丈夫……大丈夫……。こうして席にいるだけなら、大きな失態を犯す心配は少ないはず)
そんなエリーゼの視線の端に、鮮やかなピンクのドレスをまとったシャルロッテが映り込んだ。彼女は取り巻きの令嬢たちとにこやかな笑顔で喋りながら、噴水近くで足を止める。そこには伯爵家や子爵家の若い貴公子たちも集まり、シャルロッテはまさに華の中心に立っているように見えた。
柔らかな笑みと上品な仕草──けれども、その目はどこか探るように辺りを見回し、やがてエリーゼを捉えてふっと意味深な笑みを洩らす。
(また何か言われるかも。嫌だけど、ここで避け続けるのもかえって目立つ……)
エリーゼは心中でそう思いながら、余計な火種を起こさぬよう、視線をそっと外した。
「皆さま、殿下はもうすぐお見えになるのでしょうか? 待ち遠しいですわ」
シャルロッテの朗らかな声が響き、一部の貴族が笑顔で返す。
「午前中のご公務があるらしく、いつもより少し遅れるかもしれないとか……」
「そうなの。まあ、殿下はお忙しい方ですものね」
その会話を聞きながら、エリーゼはハンカチをきゅっと握る。今ここにフィリップはいない──だからこそ少しは安心するが、同時にいつ現れるかと考えるだけで心臓が高鳴る。
周囲を見渡せば、男爵家や子爵家の子息たちがにこやかに挨拶を交わし、伯爵や侯爵クラスの大人たちも少数ではあるが顔をのぞかせている。中には「殿下が来られるのであれば、ご挨拶しなくては」と目を光らせる者も多い。
(殿下が会場に入られたら、どんな雰囲気になるのだろう……。みんなその瞬間を待ちわびているのかもしれない)
ただ一人、エリーゼにとっては「会いたくない。しかし、自分から話をしなくてはならないかもしれない相手」。煮え切らない思いのまま、彼女は椅子に腰を落ち着けたまま軽いジュースを口にする。その味がほとんど分からないほど緊張していた。
エリーゼが佇んでいるテーブルは、比較的日陰に近い位置で、そこまで華やかな場所ではない。しかし、近くの席の人々が「悪役令嬢」「あの噂の侯爵令嬢ね」などと囁くのが聞こえてくるたび、胃がきしむような痛みを感じる。
声が聞こえる度に、そちらを向きたい衝動に駆られるが、そんなことをしても揉め事が増えるだけだ。結局、じっと耐えるしかないのが“悪役令嬢”のつらい立場。
(ああ、やっぱり。私が黙っているだけで、陰口を叩かれるのは変わらないのね……)
せめて、いまフィリップがここにいなければ「直接怒りを買うことはない」と安堵すべきか、あるいは「話すタイミングがうまく見つからず、すれ違いのまま終わってしまうかも」と焦るべきか──どちらが正解かも分からない。
シャルロッテのグループから、ちらりと一人の取り巻き令嬢がエリーゼに歩み寄ってきた。エリーゼが見覚えある姿──以前から、シャルロッテとつるんでいて、エリーゼを噂のネタにする輩の一人だ。
彼女はにこやかに小さく頭を下げ、「ごきげんよう、エリーゼ様。今日は落ち着いた装いなのですね」と言う。
エリーゼは「そうね、あまり華美にすると私らしくないし……」と答えるが、その声に震えが混じるのを自覚してしまう。
「まあ……確かに、殿下の近くにいるなら派手なドレスでも着こなせばいいものを、遠慮がちとは意外ですわ。さっきシャルロッテ様も“エリーゼ様の悪役らしさが足りない”って、冗談めかしておっしゃってましたよ」
まるで挑発のような言葉が返ってきて、エリーゼは苦い思いに苛まれる。それでも強く言い返すと余計に“悪役令嬢”の印象を固めてしまうだろうから、軽く微笑んで受け流す。
「そう……そうなの。まあ、私には派手さは似合わないわ。ありがとう、伝えてくれて」
取り巻き令嬢は「ふふ、そうですか。では失礼しますわ」と愛想笑いを浮かべ、シャルロッテのもとへ戻っていく。その背中を眺めながら、エリーゼは中身のない会話と裏のささやかな悪意に疲れを感じる。
(これで殿下が現れたら、私がどう動くかを見ようとする人が、さらに増えるのね……)
噴水の水音が耳に心地よいはずなのに、エリーゼには雑音としか感じられない。空は晴天で、爽やかな風が吹き抜けているのに、彼女はまるで嵐の前ぶれを感じているかのようだ。
あちこちで挨拶が交わされ、まもなく“王族がいらっしゃる合図”を知らせる楽の音が入るという。そうなれば、一気に場が引き締まり、多くの貴族令嬢がフィリップの姿を探すだろう。
エリーゼは既に椅子に腰を下ろしたまま、ジュースをちびちびと口にしているが、手元が震えて溢しそうになり、慌ててグラスをテーブルに置いた。
(これ以上の醜態はさらしたくない。……落ち着いて、あくまで普通に挨拶すればいいわ。そう、それだけ……)
周囲がそわそわと落ち着かなくなるのを感じる。遠くから「殿下はもうすぐお越しになるとか」という声が聞こえ、シャルロッテの取り巻きがにわかに盛り上がっていた。
いよいよ──。
エリーゼは自分の胸に手を当て、深く息を吐く。彼女が視た未来が現実になるのか、それとも何とか打ち破れるのか……。いつ呼吸を止めてもおかしくないほどの緊張と不安に、心が押し潰されそうだが、この場から逃げるわけにはいかない。
──こうして、午餐会の本番が大きく動き出そうとしている。殿下の足音がここへ近づいてくる予感がすぐそばまで漂い、エリーゼの胸は凍りつく。
そして、彼女を狙ういくつもの視線──シャルロッテ、取り巻き、噂好きな令嬢や貴公子たち。そのすべてをエリーゼは静かに受け止めねばならない。
処刑される未来か。それとも、想いの糸がここで初めて繋がり始めるのか。