【3:午餐会準備──王宮の庭園と揺れる心】
門を抜けて中庭へ進むと、そこにはすでに多くの貴族や使用人らが集まり、庭園のレイアウトやテーブルの配置、簡素な飾り付けなどを確認し合っていた。日差しはやわらかなものの、白々とした朝の空気に慌ただしい人声が重なり、一種の活気が漂っている。
エリーゼは警護の兵士に招かれ、控え目に庭園の石畳を踏みしめながら歩き出した。いつもなら散策するだけでも楽しめる優美な場所だが、いまの彼女には物珍しさや歓喜といった感情がわいてこない。胸にはただ、緊張と不安が渦巻いていた。
王宮の中庭は、バラや季節の花が色とりどりに咲く大規模な庭園となっており、中央の噴水からは柔らかな水音が響いている。石造りのアーチや青々とした芝生が幾何学模様に区画され、まるで絵画のように美しい。
しかし、午餐会の準備であちこちにテーブルが並べられ、花の生け込みやテーブルクロスの色合いをあれこれ確認している使用人が忙しなく走り回っている状態だ。照明や幔幕の設置状況をチェックする係もいて、落ち着いた“優雅な庭園”というよりは“軽い混乱状態”に近い。
エリーゼは担当の宮廷係官に挨拶しつつ、自分の席や、参加予定の貴族たちの案内動線などを説明される。
「お嬢様、こちらが午餐会でのテーブル配置になります。そう離れていない場所に、殿下のお席が設けられます。お嬢様は伯爵令嬢のシャルロッテ様らと同じ列に……」
その言葉を聞いた瞬間、エリーゼは内心ドキリとする。すでに頭の片隅には「シャルロッテも出席するのね」と嫌な予感が走るし、「殿下のお席が近い」ことにも鼓動が跳ね上がってしまう。
心中の揺れをなんとか顔に出さぬよう、エリーゼは軽く微笑んで係官に礼を言う。
「ありがとうございます。失礼のないようにいたしますね」
「ええ、よろしくお願いいたします。なにぶん、殿下もお越しになるため、念入りに準備しないといけません。お嬢様もお気をつけてご参加ください」
係官は淡々と話しているだけのつもりだろうが、“殿下”という単語が出るたび、エリーゼの胸は苦しくなる。
◆
あちこち移動しながら、テーブルクロスの色や椅子の並べ方などをひととおり確認し終えたエリーゼは、ふと視線の先に見覚えのある姿を認めてしまった。
ピンク色のドレスに身を包んだ伯爵令嬢──シャルロッテである。彼女は取り巻きの令嬢二人を従え、噴水のそばで何かを話し込んでいた。
(まあ、来ているわよね……)
エリーゼは本能的に足を止める。“悪役令嬢”の噂の出所のひとつが彼女であることを、エリーゼは知っている。あの軽妙な笑みで近づいて来られると、ろくなことがない。
できることなら今は会いたくないのが本音だが、今日は午餐会でお互いに話をする機会もあるかもしれない。
案の定、シャルロッテはエリーゼの姿に気がついたようだ。取り巻きたちがヒソヒソ声で何か言い合ったかと思うと、シャルロッテは微笑しながらこちらへ近づいてくる。
「まあ、エリーゼ様もいらしてたのね。やっぱり、さすがは侯爵家のお嬢様──勤務熱心だわ」
その口調はあくまで上品で、皮肉を表立って表すわけではないが、エリーゼにはその裏にある意図がうっすら伝わる。「勤務熱心」という言葉もどこか引っかかる。
「ごきげんよう、シャルロッテ様。今日はお忙しそうね」
何とか大人の微笑を作り、エリーゼは返礼する。シャルロッテは柔らかな笑みで応じつつ、その目に薄い揶揄の色を宿していた。
「ええ、本当に忙しくて。こういう時流ですから、何からなにまで使用人に任せず、貴族の女性も主体性が求められるでしょう? だから私、殿下の席から見える景色をもっと豪華にしたいと言ったのよ。だけど係の者は“それは派手過ぎるのではないか”なんて言うものだから、困っているわ」
言外に“殿下を喜ばせるのは私の役目”とでも言いたげな響きを含む。
エリーゼは(やっぱり、殿下の取り巻きを狙っているのね)と苦い思いを噛み締める。だが、ここで下手に切り返せば口論になりかねない。
「まあ、そうなの。それぞれ思うところがあるでしょうから、係の方々も大変ね」
そっけなく返事を返し、話を切り上げようとする。しかしシャルロッテはスッと一歩寄ってきて、小声で耳打ちするように囁いた。
「あなたも今日、殿下との席が近いそうじゃない? “悪役令嬢”という噂を吹き飛ばすチャンスかもしれないわね。頑張ってちょうだい」
トゲのある笑顔が頬に浮かぶ。取り巻きたちがクスクスと笑って見ている。
エリーゼは「別に、吹き飛ばすほどでも……」と視線を落とすしかない。今はここでシャルロッテに不快感をぶつけたら、それこそ“悪役”の振る舞いになる。
(本当に、どうして私をこうからかうのかしら……私が殿下に取り入っていると思われている? そんな気などないのに……)
「それでは、わたくしはあちらで担当の者と話があるから、これで失礼するわ。あなたもあまり頑張りすぎないようにね、エリーゼ様」
シャルロッテは意味深な笑みを残し、優雅に振り返って歩き去る。取り巻きたちが「ほほほ……」という嘲笑めいたささやきを続けながら後に続く。
残されたエリーゼは、わずかに手を握り締め、悔しさと不安が入り交じる感情に襲われる。
どっちが悪役なのか、分ったもんじゃない。
◆
その後、係官に案内されながら、エリーゼは自分が座るテーブル位置を改めて確認する。どうやら噂どおり、フィリップ殿下のテーブルとの距離はそこまで離れていないらしい。
「ここからだと、殿下のお席がよく見えそう」
思わず口の中でつぶやき、はっとなる。別に覗き見したいわけではないが、自分にとってはまさに“生死を分ける相手”なのだ。殿下の一挙手一投足が気になって仕方がない。
そうかといって今のまま避ければ、さらに怪しまれ、シャルロッテのような令嬢たちに噂を触れ回られるかもしれないし……。
「……やっぱり、落ち着いて振る舞うしかないのよ。何があっても動じないようにしなきゃ」
エリーゼは自分へ言い聞かせるように目を閉じ、ゆっくり息を吸い込む。遠くで花を生け替える使用人たちが忙しなく動いており、赤や黄色の花が目に鮮やかだ。次第に少しだけ心が落ち着いてくる気がした。
(大丈夫。今はまだ殿下が姿を現すとも限らない。もし殿下に会っても、丁寧にご挨拶すればいいわ)
そんな思いと裏腹に、胸の奥の鼓動はやや激しく弾む。もしここで殿下がふいに現れたりしたら、どうする? ──想像するだけで息苦しい。
実は、フィリップ王子がこの午餐会の準備の様子を見に顔を出すことは、珍しいことではなかった。彼は冷酷な顔をしながらも、生来の生真面目な性格から、王族の務めとして公式行事や催しの準備確認をすることがある。
エリーゼがその可能性を意識せずにはいられないのも無理はない。しかし現時点で殿下の姿は見当たらないようだ。係官や兵士に尋ねても「殿下は今朝は別件の公務があるはずです」と言うばかり。
ほっとした半面、わずかな物足りなさが胸に走るのをエリーゼは否定できない。どこかで会っておかねばならない──そんな覚悟を固めて来たのに、拍子抜けする感じがあったのかもしれない。
(いや、物足りないなんて……私、どれだけ狂ってるの。あの人は私を殺す未来に繋がる存在なのに……)
自分の思考に戸惑うが、だからこそ、これが名前のつけられない想いの始まりとも言えるかもしれない。エリーゼはまだ自覚できず、苦笑するしかない。