吾輩は猫になる
吾輩は猫である。本当に? でも、実際猫であるのだからしょうがない。どこで生まれたのか、どうにも思い出せぬ。なにやら薄暗い四畳半の部屋でカチカチパソコンを弄くっていたことだけは記憶している。あれ、そしたら猫じゃなくて人間だったのかしら。摩訶不思議なこともあるものだ。そうだったとしても、今は猫なのだから猫の人生、猫生を享受しようではないか。
さて、ここはどこだろう。辺りを見渡すと、ふかふかのソファの上で丸くなっていることに気づく。さしずめ人間が暮らす家のリビングといったとこだろう。心地よい布張りのソファからは一歩も離れたくない気持ちになる。……ううん、人間のときの微かな記憶がちらついていけない。目的があったはずだ。そう、なにか壮大な物語が、あったのかもしれない。考えていてもしょうがない。名残惜しさの残るソファから飛び降り、リビングを出た。
さて、と。目の前に立ちはだかる最初の難関、玄関。ドアノブを握って開ければいいだけのたった一枚の板切れ。それはこの姿になる前の私なら難なく乗り越えられていた問題であった。それが今となっては障害となっている。飛び上がってドアノブを掴んでみるものの、滑ってうまく回せない。レバー方式になっているのは温情だが、世の同志たちはどれくらい練習して習得するのであろう。だが、吾輩は猫である。このような些細な問題に囚われる猫ではない。人間だった頃には使えなかった出入り口も、猫ならではの出入り口になりえるはず。玄関を諦め、階段を上ることにした。
それにしても、私は随分この家に詳しいな。人間だった頃を思い出そうとすると、記憶に靄がかかってうまく思い出せない。吾輩の中に私が二人いるような感じもして居心地が悪い。そのようなことを考えながら廊下を歩いていると、少しだけ扉の開いている部屋を通りがかった。真っ暗闇に見えたが、微かに光が漏れている。僅かな隙間をくぐって部屋に入ると、光っている箱の前で人間のメスがぐったりとしていた。どこかで見たことがある気がするが、これも記憶の靄に遮られて思い出せない。床にはプラスチックの板が落ちており、オスとメスの写っている写真が貼られている。なんだか気分が悪い。この部屋は後にしよう。
目の前には開け放しの小さな窓が現れた。吾輩の身長の何倍も高い場所にあるが、不思議と飛び移れそうな気がする。そして、一度も経験がないのに慣れた手つきで窓に飛び移った。これが猫の身体能力か、と当たり前のことに感心しながら、先程よりも何倍もの高さから飛び降りた。不思議と怖くない。無事着地。柔らかい土の上。当たり前ではないのに、当たり前。吾輩が、私が、誰かわからなくなる。まぁ、そんなことはどうでもいい。無事外に出られたのだから、家の外の空気を楽しもう。
「ああ! お前、こんなところにいたのか」
コンクリートの壁の上を歩いていると、なにやら人間のオスが吾輩の方へ向かって声を掛けてきた。
「ああよかった、お前がいなくなってしまったらどうしようかと思ったよ」
逃げる間もなく捕まえられてしまった。
「すー、はー……」
吾輩に話す隙を与えぬつもりか、こやつは。吾輩の体に顔を押し付けて深呼吸するとこのオスは落ち着きはじめた。
「はぁ、やっぱり、俺にはお前がいないとだめなんだ」
と思ったら、また話しかけてきた。お前は一体なんなんだ。どうしても思い出せなくてイライラする。
にゃあ。
話しかけようとして思い出す。吾輩は猫なのだ。人間などと話す必要はない。
「さぁ、戻ってきてくれよ」
しつこいな。そんな男は嫌われるぞ。まあでも、こんな気まぐれと付き合ってくれるのなら、私も少し歩み寄ってみようかな。