9、チベット行 1
フランス租界の安宿で、クラウス・ヴィンデマン少尉は、頭を抱えていた。
幸福とは言えない彼の人生に降って涌いた好機、その千載一遇の好機が、今霧散しようとしていた。
偶然から手に入れた幸運が、偶然によって取り上げられる。
その理不尽さが腹立たしく、不甲斐なくもあった。
彼が生まれたのは、ロシアの地だった。
ヴォルガ川下流域の小さな村が彼の故郷、小麦が良く実る肥沃な土地だった。
彼は、ヴォルガ・ドイツ人と言われ、タルタル人への防人として、女帝エカチェリーナによりドイツ南部より招かれた貧民の子孫だつた。
ドイツ人の多く住む彼の故郷は、革命の後コミンテルンの異民族に対する寛容さの象徴になり、彼らには広く自治が認められ、ヴォルガ・ドイツ人自治共和国として盛んに国外に喧伝された。
しかし其れは、スターリンの唱える欺瞞と偽善に満ちたプロパガンダであり、事実、彼と彼の家族は富農の烙印を押され、無法にも1931年カザフへ追放された。
彼が十三の冬だった。
カザフでの生活は厳しく、父も母も相次いで非業の死をとげ、姉は生きるため身を売った。
彼は、何ともならない自分の人生の怨嗟をロシア人にぶつけ、官憲に追われる逃亡者となった。
人に話す事も憚る苦難をへて辿り着いたドイツ。
其処には彼の怨嗟に共感し、剰え正当化してくれる人間達がいた。
親衛隊。
其れが彼の新たな家族になった。
1938年の初頭、神秘主義に耽溺するSS長官ヒムラーは、動物学者エルンスト・ シェーファーが企画した、チベットへの学術探検旅行に援助を申し出た。
資金難に悩むシェーファーは、此れに一も二も無く飛びついたが、ヒムラーは親衛隊が主体としての探検実施を望み、彼に対し自身が仕官しSS少佐と言う身分で隊を率いる事と、探検に参加する学者はSSの設立した研究機関アーネンエルベから派遣する旨を要求してきた。
此れに対し、探検での学術的成果を何より重要視するシェーファーは、仕官とSSの管理下に入ることは承諾したが、探検に非科学的で怪しげな学説を唱える人間が加わる事には難色を示し、隊長の辞任をチラつかせながら、極力排除する事に成功した。
名を捨て実を取ったのだ。
彼にしてみれば、「地球空洞説」を、本気で信じる愚か者をヒマラヤくんだりまで連れて行くなど、SSに入隊するより真っ平御免な事だった。
だが其れは親衛隊にとって、例え探検が成功したとしても、彼ら思惑とは異なった成果となる可能性も示唆していた。
彼らの欲した成果は、自らが狂信的に信奉する科学の裏付けとなる成果であり。
一般社会で言う所の科学成果とは異なる物だったからだ。
真実とは、人が何を信じるかで変わるものであり、人は其れに都合の良い事実を欲するものなのだ。
そこで狂信者は保険を掛ける事にした。
そしてその保険の哀れな犠牲者が、ヴィンデマンだった。
オーストリア併合の興奮も冷めやらぬ1938年3月。
彼は、ベルリンの親衛隊本部へ突然の出頭を命じられ、酷く戸惑っていた。
ハンブルクに駐留する親衛隊特務部隊の新米少尉でしかない自分が、何故一般親衛隊の高級幹部に呼びつけられる事に成ったのか、全く理解できなかったからだ。
しかし自分が今、不味い立場に立っている事は、分かり過ぎるほど分かっていた。
下級将校の本部出頭などと言えば、反逆やスパイ行為などの査問と相場が決まっていたからだ。
勿論自分にその様な覚えは無いし、虚偽の密告をするような人間も、思い当たらなかったが。
「一体何事なんだ」
何やら首筋に冷たい物を感じながら、彼はベルリンへ向かう車窓の人となった。
「失礼します」
従兵に案内されて入った部屋には三人の男達が集っていた。
全員が、アルゲマイネSSの黒服に身を包み、入室と同時に此方を一斉に凝視して来る。
「SSゲルマニア連隊、クラウス・ヴィンデマン少尉、お呼びにより参上しました」
品定めをする様な男達の視線に恐怖を感じながら、やっとの思いで口上を述べる。
一時、無言の時間が流れるも、男達は沈黙したままだった。
クラウスは査問への恐怖と緊張に耐えられず、
「それで私への御用の向きは」
と、話しかけてしまった。
本来、上官の下問を受けての返答が軍隊の基本だから、此れは少々拙い事だった。
男達は一瞬、躊躇する様子を見せたが、直ぐに中の一人が話しかけて来た。
「ああ、そうだな、君が余りに若いものだから少々驚いてね。
先ずは遠い所ご苦労、用向きは此れより告げるが、まあそう緊張せずに掛け給え」
と、椅子勧めて来た。
「先ず本題に移る前に確認の為二三質問させてもらいたい」
中佐の階級章の男が告げる。
「先ずは君の経歴確認だが。
氏名は、クラウス・ヴィンデマン
年齢は、1918年生、20歳
身分は、SSゲルマニア連隊付少尉。
出身は、ソビエト、ヴォルガ・ドイツ人自治共和国。
経歴は、1935年SS-VT入隊、1937年親衛隊士官学校卒、同年任官、同年原隊へ配属
以上で相違無いか」
「相違ありません」
「入隊時の身上書に因ると、一時中央アジアのカザフに居住していた様だが、経緯は」
「はっ、両親が富農として家族共々流罪になった地がカザフで有り、小官も其処で数年暮しました」
「成る程な、そうすると、ロシア語は堪能か」
「はい、読み書きも含めて全く問題有りません」
「その他の言語は、カザフ語は話せるか ?」
「はい、日常会話程度でしたら」
「そうか、話せるか」
中佐は右に座る男の顔をチラリと見る。
「他には、チベット語や中国語は」
「いいえ、其方は全く分かりません」
「そうか、解からんか、フム」
彼は周りに目配せした後、少し考えてから話始めた。
「さて何から話すか、まあ良い、結論から述べよう。
少尉、君には此方に居るエルンスト・ シェーファー少佐の部下として、ヒマラヤへ行ってもらう」
中佐は、左に座る男を紹介しながら任務を告げ、驚くクラウスを無視する様に話を続ける。
「今般、親衛隊が派遣するヒマラヤ・チベット調査が行われる事に決定した。
人員は、少佐以下四人の隊員が派遣される事と成る。
少尉の任務は、彼らに同行その警護を行う事だ。
具体的には現地の雇員を指揮し、その任務に当る事となる。
少佐は、階級こそ軍人の其れであるが、本業は動物学者であり軍務の経験は皆無だ。
此れは、他のの四人の隊員も同様で有る。
故に、警護無しで彼らを送り出す事には、親衛隊としても不安が残る。
さりとて、学術調査の名目上、兵を同行させる事は好ましく無いし、英国と余計な摩擦も避けたい。
又、少佐も其れを望んではいない。
そこで指揮官一名のみを派遣し、現地で隊を組織し警護任務に当ると言う事に成った訳だ。
理解できたかね」
「はっ、了解いたしました。任務遂行の為、鋭意努力いたします」
軍隊の命令に否は無い、増して親衛隊には無い。
クラウスは任務の内容に驚愕したが、直ぐに頭の中を切り替えた。
それに、今後の不安より、査問でなかった事での安心感が、その時点では勝っていた。
「任務の詳細は副官より追って説明されるだろうが、私に聞いておきたい事はあるかね」
「ではお言葉に甘えて、小官は如何なる理由にて本任務に選ばれたのでしょうか ?」
「うむ、本来ならその質問には答えんが、いきなり地の果てに行けと言うんだ、其の位よかろう」
中佐は仕方ないと言った風体で話始める。
「君も経験から解るだろうがSSの入隊基準に学歴は無い、人種と体格と思想と忠誠心のみだ。
SS仕官学校の入学条件にも二次学歴は必要無い、此方は学力による選抜が有るがな。
つまり高等教育を受けた下級将校がそもそも少ない。
有体に言えば、高等教育を受け、アジア方面の知識を有し、言語を理解する者が、君しか居なかったという事だ」
「しかし小官はヒマラヤの知識など皆無です、増してやチベッ...」
中佐がクラウスの発言を遮る。
「皆まで言わずとも良い、私も其の位は理解している。
広く軍に候補を探せば、君より適任の者は幾らでも居るだろう。
しかし、本任務は親衛隊が主体と成って行うものだ、人員は親衛隊から選ばれねばならん。
国防軍の士官では駄目なのだ」
中佐は、此れ以上の話は無駄とばかりに言い切った。
「了解いたしました」
これ以上の詮索や反論が、無意味で危険な事を察したクラウスは、納得の意思を返事で示す。
「よろしい、後は頼む」
中佐は満足そうに頷き、副官に目配せすると少佐を伴い退室した。
「実利より面目か」
クラウスは、心の中で呟いた。
「さて、任務の詳細だが」
副官の声が二人きりになった部屋に響く。
「日程、現地の雇員の情報等、細かい事は此方の資料にまとめて有る。
出発までに熟読して頭に叩き込んでおけ」
「ハッ了解いたしました」
踵を鳴らし退出の挨拶をしようとするクラウスを副官が引き止める。
「まぁ少し待て、お前には話して置かねば成らない事がある」
副官は、此れからが本題と言った風に話しを始めた。
「今回の調査隊の面々は先ほど話した通り、お前以外は皆学者だ。
彼らは学問と科学の徒であり、我らの様な国家と総統の徒では無い。
我々は、彼らの学術研究に対しては何の懸念も不満も無い。
が、研究の方向性と成果の取捨選択においては、我等と些か意見を異にする所が有る。
お前には、現地で親衛隊の代弁者として事に当って欲しいのだ。
学術研究を疎かにするつもりは毛頭ないが、今祖国は戦時といっても良い状況に有る。
何事も国家の実利を優先せねばならん時勢だ、其のことをよく踏まえ現地で行動してもらいたい」
副官は其処まで話すと赤い表紙に極秘と書かれた紙束を、奥の机より取り出しクラウスに渡した。
「此れは其の指針となる事をまとめた物だ、お前のみ閲覧し理解したら破棄するように」
「私からは以上だ、帰って宜しい」
酷く難解で回りくどい言い回しに終始した説明を終えると、副官は退出をうながした。
「何が国家の実利なんだか。
結局、上層部の好みそうな物を学者に探させろって事か。
しかしヒマラヤとは、俺は夢でも見てるんじゃなかろうか」
帰りの廊下でクラウスは一人ぼやいた。