8、上海ノワール
「それで、76号の方は如何 ? 済んだのかい ?」
脇屋はダンスホール別世界の何時もの席で、リルに問いかけた。
「ええ、一通りの調べ事はね、大体だけど義人さんに聞かされた話の裏は取れたわ」
「それじゃあ鳴沢の話に嘘は無かったと」
「事実関係は大筋でね、ただ付け加える事も有るわ」
「それは?」
「まず場所ね」
「義人さんの話では、藍衣社の拠点と言だけで、場所の話はなかったけれど港の傍の倉庫だったわ」
「あの人達ったら、例によって昼日中にドンパチする物だから、すぐ見つかったし目撃者にも大勢いて選り取り見取りだったわ」
「相変わらずか」
脇屋は、苦笑いする。
「それで、その目撃者の話なんですけど、襲撃の少し前に現場を立ち去る男を見たっいうの」
「それは確実な話かい」
「ええ、特徴が有ったから間違いないみたい」
「その特徴って ?」
「一つは何やら重そうな荷物を運んでいた事、そしてもう一つは、その男白人だったらしいのよ」
「重い荷物を持った白人ね」
そう呟きながらふと入口の方を見ると、右手に拳銃をぶら下げた男がこちらに向かって歩いて来る。
「伏せろ」
脇屋は咄嗟にリルの頭を抑えると、テーブルの上に身を投げ出す。
一瞬が永遠に思える時間が流れ、
銃声が轟くかと思った刹那、男は海老の様に反りながら天井を見上げると腰から崩れ落ちた。
そして後頭部から僅かな血を流し、小刻みに震える暗殺者の背後には、無言で立つあの店主の姿が合った。
「父さん」
リルか駆け寄ると、男は心からの愛情を目で語った。
「用心はしていたが、まさか此処で仕掛けて来るとは、鳴沢の奴め行儀か悪すぎる。
此のまま済ます訳にには行かないね」
脇屋が無言で佇む店主の目を見つめ、酷く冷たい声で話しかけると、
店主も又、酷く冷たい目で見つめ返しゆっくりと頷いた。
「しかし、杀手栀子は年を食っても怖い男だ」
店主の持った錐の様に細い短刀を見た脇屋は、心中で一言呟いた。
「義人さん怪我は」
「ああ、何とも無い大丈夫だよ、君の父さんに感謝だな」
彼女は何時もの口調に戻った脇屋に安心すると、
「課長さん、いらっしゃらなくて良かったわ」
と、安堵のため息を付く
「全くだ、僕はこの先もあの人に、なるべく修羅場は見せたくないんだよ。
無理とは思うけどね」
「所で、今日あの方は何方ヘ ? 大丈夫なのかしら」
「大丈夫、課長は憲兵隊本部さ、あそこに殴りこむ馬鹿はいないよ」
脇屋はリルの手を取り答えた。
「脇屋、昨日の首尾はどうだった?」
ダンスホールの一件の翌日。
例のアヘン窟の隠れ家で、課長が朝食の粥を啜りなから聞いてきた。
「ええ、リルの話では意外な事に、鳴沢の話に嘘は無かったようです。
お姫様を保護した経緯も、目撃証言から概ねその通りです。
ただ、付け加える事として、現場が港の傍の倉庫である事。
其処から重そうな荷物を抱え、立ち去った白人の男が目撃されている事。
以上二点の報告を受けました」
「白人の男か」
「そうです」
「それで、お前はどう思っているんだ」
「ええ、未だ全体像は掴めませんが、少し個々の事実が繋がってきた気がします。
「聞かせてみろ」
「長くなりますよ ? 」
「構わん」
課長が、テーブルの粥を退け身を乗り出す。
「では、リルの情報を元に、僕の導き出した結論から先に申し上げます。
先ず逃げた白人ですが、此れはおそらく独逸のスパイでしょう。
そして彼の目的は、上海よりの密航以外考えられません。
荷物と姫様と供の者を連れ、藍衣社と共に港の倉庫に居た事実。
それから見て、先ず間違いないでしょう」
「又、供の者が今際の際、鳴沢に後事を託したと事を考えますと。
襲撃以前に姫様と独スパイとは険悪、もっと言えば姫様は虜の立場だったとも考えられます。
清国の皇帝に会いに行くなら北京です、船に乗る理由が無い。
中央アジアの田舎者でも、其れくらい分かるでしょうから」
「それで何故、独逸のスパイと分かる」
「其れは藍衣社と共に居たと言う事実です。
英米仏も蒋介石との関係は有りますが、彼らは上海から渡航するのに、国民党の協力など必要ありません。
対して独逸は、現在上海から本国まで秘密裏に渡航するのは、非常に困難です。
民間船の欧州航路に上手く潜り込んだとしても、次の寄港地はシンガポール、その次は印度、無事欧州に到着するのは不可能です。
本来なら同盟国の日本に依頼する所ですが、それはは出来ない。
あのウランの話が与太話で無いなら当然です。
そこで、困ったスパイは蒋介石に何らかの取引を持ちかけて、密航のお膳立てをしてもらう。
そういった筋書きです。
実際、国民党と独逸の関係は、かなり根深いものがあります。
課長もご存知でしょう。
大体あいつらの装備は鉄帽から小銃まで独逸製ですし、支那事変の頃は軍事顧問の独軍将校まで居たくらいです。
その様な訳で、逃げた白人は独逸のスパイと言う結論になります。
簡単な消去法ですよ」
「さて、この先の話は僕の推論も多分に含まれますが、構いませんか」
「ああ、聞こう」
「それは、あの鉄箱に入ったパイザに関する事です。
あれは二つで対に成ると言う話でしたが、僕はその白人の持って逃げた荷物と言うのは、パイザでは無いのかと思うのです」
「何で ? 何故だ」
「課長、大学の偉い先生の話では、あれは通行手形の様なものだと言っていたのを覚えていますか」
「ああ覚えている」
「僕はあの時、単純な疑問を感じたんですよ」
「何を」
長嶺は焦らすなといった風に返す。
「確かあの時先生は、表面の勘合符の役をする部分の文字は、鏡文字で陰刻されていると言っていました。
おかしいと思いませんか、普通パッと見ただけだと鏡文字なんて読めませんよね。
通行手形の書付が反転させないと読めないでは、用を成さないでしょう。
普通ならば下賜する方に簡単に読める陽刻を渡し、宮中で鏡文字の陰刻を保管するはず。
そう言う疑問です」
「この疑問を簡単に解決するには、二つのパイザが何処かで入れ替わったと考えるのが、最も合理的です。
スパイは姫様から取り上げた陽刻と、出所不明だが陰刻のパイザを既に入手しており、現場の倉庫には国外持出しの為、パイザの入った二つの鉄箱が揃って有った。
所が、突然の襲撃を受け、一人で二つ運べぬスパイは、咄嗟に一つのみを持って逃げる。
その際入れ替わってしまったのではないか ?
スパイが持って逃げたのは、姫様が母国より持ってきた陽刻の方だったのではないか ?
荷物を抱えた白人の話を聞いて、僕はそう言う推論を立てたのです」
「余談として、陰刻のパイザの出所ですが、此れは蒋介石が所有していたのかも知れません。
紫禁城の宝物庫は義和団の乱の後、何度か略奪にあっていますが、最後にそれこそ根こそぎ奪って行ったのは、かの蒋介石将軍様ですからね。
真の価値を知らぬ物にすれば、あのパイザはただの骨董品に過ぎません。
そして、今の国民党の幹部では、まず其の価値を見抜く事は不可能です。
ヒトラーの神秘趣味とその収集癖は有名ですし、たかが骨董品に大した疑念は抱かないでしょう。
独逸が十分な見返りを約束するなら、蒋介石は今の状況を鑑み、取引する事にやぶさかではないと思います」
「もちろん、これは私の想像に過ぎませんが」
脇屋そう言い添えると、話を終えた。
「そういう事か」
長嶺が前髪を掻き上げる仕草をしながら、心の中で感心する。
さすがだ、少々強引な所も有るが、成る程尤もな話だ。
断定するには未だ材料が足りんが、論理的で仕事が速い、やはりコイツは優秀だ。
俺にはとても真似出来ん。
「しかし、一体あのパイザって奴は何なんだ、通行手形を爆弾の材料で作って何の意味が有る ?
お前の話を聞いていると、疑問が解決している様でますます増えて行く。
一つ解決した結果三つの疑問が生じる様なもんだ。
全く付いて行けんよ、俺は」
長嶺は、少々諦めたような仕草を見せると、話題を終わらすように傍らの新聞に手を伸ばした。
「何々、バンドで四名の死体が見つかる、共に身元不明 ?
やれやれ全く、此処は人殺しのニュースしか無いのか 」
「いや、全く其の通りですね、物騒な事です」
脇屋が当たり障りのない返事を返すと、扉の向こうの店主が一つ咳払いをした。