7、スパイとバタフライエフェクト
ゾルゲは思わず呻いた。
上海よりもたらされた些細な情報は、驚きの内容だった。
彼が苦心して集めた情報から導き出したた結論と、全く整合性の無い尾崎よりの知らせは、困惑通り越し驚愕だった。
「日本が中央アジアに調査隊の派遣 ? これは本当の事か」
ゾルゲは、声を震わせながら問いかける。
「ああ間違いない」
尾崎か断言すると、長い沈黙が流れた。
後に日本史上、最大のスパイ事件となる「ゾルゲ事件」の首魁リヒャルト・ゾルゲは、焦っていた。
多年のスパイ活動により構築した彼の情報網に寄れば、独逸のソ連侵攻は確実。
其れも夏までは待たずに開戦するとの結論だった。
そしてその独逸の侵攻に呼応して、日本が東より母国に侵攻するか否か ?
その確実な情報の入手が彼にとっての最重要任務だった。
直近の尾崎のもたらす近衛首相以下の政府筋情報は、日本の侵攻を否定していたし。
独大使館もその気配は全くなかった。
だから、此の知らせが届くまで日本の侵攻は無いと結論付けていたのに。
「なぜ今、中央アジアなんだ ?」
ゾルゲの頭の中に悪夢のようなシナリオが浮かんでくる。
今のソビエト極東軍20万は、当然だが関東軍の侵攻に備えソ満国境付近に展開している。
つまり北に編重している。
中央アジア ?
日本はまさか独逸と期を合わせ、南より新疆、キルギス、カザフを抜き、、同時侵攻するつもりなのではないか ?
不味い。
あの辺りにまともな守備兵力は無い。
正に無人の野を征くだ。
電撃的に北上され、シベリア鉄道の兵站を抑えられたら、極東軍は孤立する。
だかしかし、侵攻する為の兵力を日本は如何する、国民党に当たっている師団を引き抜くのか ?
いや其れでは戦線が ?
いや待てよ、上海は近い、国内からの移動との同時進行で。
荒唐無稽な物も含め、ありとあらゆる考えが脳髄を迷走する。
「これを見てくれ」
沈黙に耐えられ無い様に、尾崎が残りの資料の束を机になげる。
「上海で実際に面会した寺西によれば、相手は陸地測量部の少佐と中尉で 名は長嶺と脇屋。
共に当然だが参謀本部の人間だ。
脇屋という男は寺西曰く、上海の裏社会界隈では札付きらしい。
そしてコレが興味深い事だが、長嶺はあの長嶺源一郎の倅だ。
「長嶺」
「そうだ、あの長嶺だ、北進論を唱える軍派閥の後ろ盾で、日露戦役の影の英雄。
現枢密院顧問官、長嶺源一郎だよ」
「後もう一つ、此れはハルピンよりの情報だが、現地で新たな独立部隊が編成されている。
規模は多く見積もって大隊規模だが、かなり広範囲の部隊から少人数づつ集めているらしい。
編成理由、任地は解からんが、何れにしても関東軍では異例のことだ」
落ち着いて整理するんだ。
情報が飽和錯綜する中、緻密なスパイの頭脳は数ある可能性の中より、最適解を導くべく素早く回転する。
中央、中央アジア、何だ、何が有る。
中央アジアに調査、調査、調査、
「調査 !!」
「尾崎、そういえば、一昨年かその前にナチスがアジアの内陸に調査団を派遣してなかったか。」
「ドイツ・チベット遠征のことか ?
あれは、中央アジアではなくその名の通りチベットだ、全く方向が違う。
我が社も記事に取り上げたからな良く覚えている。
「そうか、だが其の目的が不明と言う共通点は有る。
まったく勘の域を出ないが何か有るような気がする。
しかし何の調査だ、何か我々の知らない重大な秘密が其処に有るというのか」
ゾルゲは尾崎の顔を見上げると、ため息を付きつつ話す。
「クラウゼンに連絡しよう、本国への打電はと独侵攻の情報のみ、日本関係の情報は一旦保留だ。
尾崎、明日から其の調査隊の情報を主に頼む、此方も独大使館に当たってみる。
其れと、手に入れられる範囲で構わんから至急ドイツ・チベット遠征の資料も頼む」
「分かった」
尾崎も、追い詰められた様な表情で答えた。