5、僑軍と上海リル
「思い手を追いつつ さまよいこれど 帰らぬは恋しき人 いとしの上海リル」
上海リルと言えば歌に歌われる美女の名だが、名前負けが嫌なのか上海の花柳界でその名を名乗る女は意外と少ない。
上海特急のディトリッヒと比べられては、敵わないと言った所か。
たが、脇屋に促され長嶺の眼前にたたずむ美女は、優雅な仕草を添えてリルと名乗った。
背広に着替えた二人が車から降りた面前には、「別世界」とネオン煌く店が立っていた。
飾り窓からは楽団の演奏するジャズが洩れ聞こえ、華やかな男女の踊る姿かチラリと見えた。
「さあ課長此方へどうぞ」
脇屋は、常連と言った素振りで、右手の少し奥まった席に長嶺を誘った。
「一寸とお待ち下さい課長、友人を紹介しますので」
「おっ、おい」
こんな勝手の分からん所で一人にされては敵わんと、思わず引き留めようとした時にはもう、脇屋はダンスの輪の向こうに消えていた。
「参ったな、社交ダンスは出来ん事もないし、昔は妻と踊ったりもしたが、音楽から何から様子が変だぞ此処は」
思わぬ敵地の洗礼に戸惑い、聞きなれないジャズの音色に耳を傾け模様眺めを決め込んでいると、偶然壁際に佇む黒いドレスの女と眼が合ってしまった。
彼女はニコリと微笑むと、長嶺の方へ歩いて来る。
「お一人なのかしら?」
「もし宜しければお相手願えません?」
彼女は潤んだ瞳で長嶺を見つめると、甘い声で囁き尋ねる。
女は魔性とも言うが、抗い難いその声に立ち上がると、
「喜んで」
と、長嶺は思わず一言答えていた。
中年男が思わぬ幸運を得て、女の手を取りホールへ進もうとすると、何やら彼女は戸惑ったような仕草をみせる。
理解出来ぬ状況に、何事か粗相でもしたかと不安になったその時、背中越に脇屋の声が聞こえて来た。
「お嬢さん此方をどうぞ」
すかさず、何やら紙切れのようなもの彼女に握らせると、とたんに彼女の顔は満面の笑みに変わり、長嶺の手を引きダンスの輪に加わった。
「とてもお上手ね、此方には良く来られるの?」
彼女が世辞を交えながら聞いてくる。
「いえ初めてですよ、此方所か今夜初めてダンスホールと言う場所へ連れてこられたのです」
「あら嫌だわ私ったら、椅子に座ったの貴方の感じが随分寛いだ様子でしたから、良くいらしているの方かと。
私、物欲しそうな顔をしてしまって、恥ずかしいわ」
「それは如何いうことなんですか?」
彼女は少し恥じらい小首を傾げ、科を作りながら答えた。
「あの、私はダンサーなんです。
ダンサーって言っても踊りを見せるのでは無くて、一緒に踊る方。
お連の人が渡してくれたチケットで、殿方のダンスのお相手をするのが私の仕事なんですの」
「成る程そういう事ですか、知らぬ事とは言え思わぬ恥を書く所でした。
此方こそ、お恥ずかしい次第です。
脇屋、ああ、連れの者ですが、あいつには感謝しませんとな」
彼女を気遣い自虐的な笑みを浮かべると、若い時を思い出したのか楽しそうにステップを踏んだ。
二曲ほど時間を共にしたろうか、はっと我に返り、名残惜しそうに見つめる彼女に、在り来たりな別れの挨拶を告げると、長嶺はもと来たテーブルに歩みを進めた。
「本気で楽しんで如何するんだ俺は、年甲斐もない」
照れ隠しかそう呟き、ふと見上げた目線の先には、またもや真紅のチャイナドレスを身にまとった妖艶な美女が此方に微笑みながら佇んでいた。
「課長随分お楽しみのようでしたね」
美女に気を取られ、隣の木石に気がつかずなかったのか、少々驚いた風で答える。
「 ああ、年寄りの冷や水とは言うなよ、まぁ久しぶりに楽しませて貰ったよ」
先ほどの助け舟のせいか余り強くも言い返えせず、少し笑いながら長嶺は答えた。
「それは良かった、此れから先は風呂にもロクに入れ無い生活が待っていますからね、楽しめる時に楽しみませんと」
脇屋も軽口を交えて、意地悪く現実に引き戻す様な事を言った。
「それで、其方の美しいお嬢さんは何方かな」
長嶺が尋ねると女は自ら名乗った。
「リルと申します」
「此方のお店でダンサーをさせて頂いております、長嶺様のお噂は兼ね兼ね」
と、優雅に名乗った。
「彼女が紹介したいと言った僕の友人です、仕事も時々助けて頂いているんですよ。
さて、課長もお疲れのようですし、少し掛けてお話しましょう」
長嶺の額の汗を見て取りと、脇屋は女の座る椅子を引き、長嶺にも着席を勧めた。
「其れで、仕事と言うと、アレか?」
「ちがいますよ、軍務の方です、今日晴気少佐の所へ使いに行ってくれたのも彼女です」
「なに、あんな物騒な所へ女の身で行かせたのか」
「ええ、その通りですよ、彼女若いですが中々肝の据わった女性なんです。
それに、いくら76号でも参謀本部の使いを如何こうしませんよ」
「まぁ其れはそうだが」
長嶺は、納得行かんと言った風体だが、脇屋は構わずはなしを進めた。
「ちゃんと門前までは護衛を付けましたよ、あの店主の手下ですが。
まぁその手下でも使いの用は足るでしょうが、幾らなんてもヤクザを参謀本部の使者には出来んでしょう。
それで困って彼女にお願いした次第です」
ダンサーでも駄目だろう、お前 !
彼女の手前、思わず口に出しそうになるの堪える。
しかし、大陸に来てから何かコイツは少しズレてる感じがする。
「さて、その話は此処までにして、明日からの話です。
ワザワザ、課長に此処までご足労願ったのも、彼女も交えて相談したかったからなんです」
「彼女を? それはいったい如何いうことだ」
「順を追って説明いたします、彼女には今回の大陸行の用向きを大体説明して有るのですが」
「なにっ! 軍の機密だそ、話したのか」
「まぁ大まかな所ですが」
脇屋は、さらりと言う。
「おい、お前!」
顔色を変える長嶺を制す様に、脇屋は落ち着いて話始める。
「課長、先ほどもお話しましたが、此処で内地の常識は通用しないのです。
大陸、特にここ上海では完全に信用できる見方も居なければ、完全な敵もおりません。
見方もある時は敵になり。
利が有ると成れば、敵もある時は見方にするのです。
敵も見方も、お互い小出しにした秘密を共有しなから、裏を書き腹を探り合う、そんな呉越同舟が此処では日常なんですよ。
黒だ白だと単純に割り切れるものでもありません。
課長は軍の機密といいますが、其れを共有する会議の面子にしても、本当の意味で信用出来る者は一人も居りません。
八課長は腹芸、小沢は関東軍の特務、鳴沢に至っては殺し屋の親分だ。
大体、奴は軍属ですよ軍人でも無い。
僕に言わせれば、会議に素性の知れない怪しげな男を入れるだけで、そこでの機密など意味を成しません」
「ここで、我らの現状を立ち返って見れば「僑軍孤進」この僕にとっての真の見方は、課長だけです。
正直、情報を集めるにも単純に言って人手が足りないのです。
秘密を守ることを優先し、成果を得る手段を放棄しては、一歩も前に進めません。
其れでは困るのです。
何故なら、魔都での諜報戦に於いて停滞は即ち死を意味するのですから。
目的の為、己の秘密を明かす相手は、上からの命令ではなく己で判断するのです。
安心してください、課長。
彼女は鳴沢なんかより、余程信用できます」
脇屋は、長嶺の目を真剣に見つめると話をつづける。
「それと、良い機会です僕の存念をお話しておきましょう。
僕にとって、今回の作戦で優先すべきは、第一に課長と僕の命、第二に本部に依頼された彼の国までの道程及び地勢調査です。
第三も第四もありません。
それ以外の事は、何が如何なろうが関知しないつもりです。
何事も取捨選択です、任務への義務だ忠誠心だと、欲張っては此処で長生き出来ませんから」
暫し沈黙が流れた。
「そうか、お前の言いたい事は理解した。
ここのでの俺は、お前に比べれば何もしらん異邦人だ、是非も無い。
だが脇屋、俺の事を真の見方と言ってくれるなら、俺にも少しは事前に相談してくれ。
何より俺たちは帝国軍人で、俺はお前の一応上司なのだからな。
これでも、全責任を背負う位の甲斐性は有るつもりだ」
そう言って長嶺が目を伏せると、脇屋は何かに気が付いた様に素直に謝罪してきた。
「申し訳ありませんでした、今後は肝に銘じます。
言い訳がましいのですか、敵地で人と相談して物事を決めると言った経験に乏しくて、何事も先回りしすぎるのは僕の悪い癖です」
と、突然リルが口を開いた。
「まあ、お二人とも怖い顔なさって」
「心配ございません、私が義人さんを裏切ることなどありませんわ」
彼女の声で雰囲気が一変する。
そして、それを察したのか彼女は微笑みながら話を続けた。
「私には、いえ私の父共々、義人さんには一生掛かっても返せない大恩があるのです」
「きっとお役にたって見せますわ」
「ほう、お父上も脇屋に、どんな方でどんな恩を」
長嶺は、つい好奇心からか尋ねた、すると彼女は微笑み、脇屋はニヤリと笑う。
「課長、課長もお会いしてますよ、アヘン窟の、あの店主が彼女の父親です」
少しの間の後。
「何でも有りだな上海は」
長嶺は呻いた。