4、夢の四馬路
降り立った街は一大歓楽街だった。
夢の四馬路か虹口の街か、と歌われるのは後の話だが、
妓楼や茶館や劇場、ダンスホールから私娼窟まで、
この世の欲望を全て詰め込んだような街だった。
「課長、四馬路は初めてですか?」
脇屋が意味深な話し方で聞いてきた。
「ああ、初めてだ。噂には聞くがにぎやかな所だな」
努めて平静を装い返事をすると、脇屋は楽しげな表情で、
「そうですか、では後ほどダンスホールにでも繰り出しましょう、まあとにかく此方へ」
彼は長嶺を笑いながら手招きした。
脇屋の後ろを付いて狭い路地に入ると、表通りの華やかさが嘘のような世界が其処には有った。
「すみませんね課長、天国を見せた後、地獄に連れて来る様なまねをしまして」
脇屋が謝りつつ進む道の両脇には其処彼処、垢で擦り切れたなボロをまとった男たちが、腰が抜けた様に生気無く壁にもたれ座っている。
酷い奴になると追い剥ぎにでも有ったのか、下帯一丁で道端に転がっていた。
辺りには、小便のすえた臭いが立ちこめ、正に地獄のような景色だった。
暫くすすむと脇屋は赤い唐戸が目立つ怪しげな建物の前で立ち止まり、「課長此方です」と彼は建物に入るよう促した。
「アヘン窟か」
長嶺は思わず呟いた。
中に入ると室内には濛々たるアヘンの臭いが立ちこめ、焦点の定まらない眼の男たちが、有る者はだらしなく椅子にもたれかかり、ある者は寝台に寝転び恍惚の表情を浮かべ、涎をたらしていた。
「課長奥へどうぞ」
店の突き当たりに座る店主らしき男に目配せすると、男の背中に下がる帷に隠れた扉を開け長嶺を招いた。
「ようこそ課長、僕の梁山泊へ。
お客さんは課長が初めてですよ。
まあ汚い所ですが、勘弁して下さい」
笑いながら粗末な南京椅子を長嶺に勧めつつ、丸テーブルを挟んで腰掛けた。
と、突然、不意に入ってきたドアが開き、先ほどの店主らしき男が無言で立っている。
とうやら茶を運んできてくれた様だが、長嶺は反射的に服の中の拳銃に手を掛けていた。
「驚かせた様で、無愛想な男ですみません課長」
ぺこりと頭を下げると
服の袖でテーブルの埃を拭いながら、脇屋は茶椀を其処に置かせた。
「ありがとう、暫く留守にしたけど変わりは無かったかい?」
男はなにも言わず脇屋に向かって頷くと、チラリと長嶺を睨み部屋から出て行った。
「今の男は、何者なんだ?」
「と、言うか此処はなんだ?」
長嶺は矢次早に質問する。
「ああ、彼は私の雇っている男です、そして此処は私の店です」
「何! 脇屋、お前アヘン窟をやってるのか!!」
驚き問いかけると、脇屋は平然と答えた。
「ええ、私が世間で言えば経営者って奴ですよ、アヘン窟の経営者ってのも何ですが、店は此処の他に四軒ほどやってます。
僕が表に出る訳にもいきませんので、今の男に表向きの主人をやってもらってます。
僕がアヘンを都合し彼とその手下がそれを捌く、まぁ簡単な商売ですよ。
彼、本々青幇のヤクザでなんですが、抗争で舌を切られて話せません。
ですから、彼が官憲なり何らかの組織の虜になっても、僕の身元が割れる事は無いと言う算段です。
どうです、都合の良い事でしょ。
事も無げな笑みを浮かべながら、彼は話を続けた。
「何事に付け、お足が物を言うのが浮世の常ですが、この街では特にそうです。
此処では、地位も、名誉も、女も、金さえ有れば何とでも成ります。
命でさえもです。
人を殺したいと思えば、端した金で人を殺す人間は掃いて捨てる程いますし、女子供を玩具にしたいと思えば、喜んで売る夫や親が居ます。
課長。
先ほど貴方の見た道端に転がってる人間から租界の大人まで、境遇は様々ですが彼ら中身は一緒なんですよ。
上海を支配するのは、異常な程の拝金主義です。
だから上海は魔都なんですよ、お分かりになりますか?
左様な次第で「郷に入っては郷に従え」とばかり、僕も商売に精を出している訳てす。
何しろ此処での任務は金がいくら有っても足りません。
金は大事ですよ、僕も自分の命を二度ほど金で買いました。
長嶺は押し黙ってしまった。
「手段を選ばん奴とは聞いていたが、此処までとは、
だからこの大陸で生き残れたのだろう。
しかし参謀本部の現役将校が、外地とはいえアヘン窟で商いをするとは。
昔、退役軍人が恩給で売春宿をやって問題になった事が有ったが、程度が段違いだ。
コレが上に知られでもしたら....考えたくもない。」
長嶺の反応を見て取ったのか、脇屋は話を切りかえてきた。
「さて課長、雑談は此処までにして、さし当り我らの明日からの身の振り方を決めねば成りません、宜しいですか。
「ああ」
長嶺は生返事を返す。
「それでは、お話させて頂きます。
命令書によると14日後ハルピンにて、又会議が持たれる事になっております。
八課の人間も大陸まで出張するんですかね、ご苦労なことだ。
まぁそれはさて置き、次回の会議では調査団派遣の具体的方策が議題になると思います。
我らも其れまでに、今調査への具体案を策定して置かなければなりませんが、補給や兵站の調査と言った所で、一体何処に行くのかさえ分からないのが現状です。
中央アジア方面の知識など、我ら測量部でさえ皆無です。
大体、中央アジア行った部員などおりません、精々外蒙古か新疆止まりです。
ですが14日後の会議で、知りません解かりませんでは、通らんでしょう。
何より課長が名目だけでなく、実質的に調査団の全権を掌握するには、情報において相手より優位に立つのが何より必須です」
「それ位の事は俺も分かっているよ、だがお前その情報を手に入れる当てでも有るのか?」
「ええ、有ります。
満鉄調査部に寺西と言う男が居ります。
僕は、一二度挨拶を交わした程度の面識ですが、知り合いの上海憲兵隊の大尉がかなり親しく付き合っているようなので、頼めば紹介してくれるはずです。
「それで、その寺西と言う男が中央アジアに詳しいのか」
「多分間違いなく」
「この男、満鉄入社前の学歴は東亜同文書院になるのですが...」
「同文書院? あの近衛公が肝入りの大学か」
「そうです」
「私立大学ながら成績優秀なる者を各県より選抜、公費にて入学させ支那の学生と共に学ばせる事で有名な大学です。
そこで、此処からがこの話の肝なのですが、この東亜同文書院なる大学はその特色として、卒業年次に生徒だけで「大旅行」と称する支那各地への調査旅行を行わせ、その報告を「支那調査報告書」として大学に提出させるのです」
「それで、そいつが中央アジアに行ったと」
「ええ、確かなようです」
「内容は不明てすが、『支那西域における云々』という報告書が大学に提出されております。
此方は入手の手配中になりますが、近々何とか成るでしょう」
「なるほどな」
長嶺はアヘン窟の事など忘れたように、改めて脇屋の人脈の広さに感嘆していた。
「その様な訳で、課長には明日上海憲兵隊にご同行願う事になるのですが、
さて、課長腹が空いたでしょう、食事にいきませんか」
「そういえば昼を食い損ねたし、腹が空いたな」
「そうでしょう、まあまあの飯を出す店を近くで知っております。
早速まいりましょう。
腹ごしらえが済んだら、その後はお約束通りダンスホールですよ」
脇屋は、ニコニコしながら席をたった。