3、暗殺76号
課長と共に渡された命令書には、神戸までの汽車の切符と上海までの乗船券が入っていた。
さすが天下の参謀本部、どちらも一等だ。
全く、気前がいいもんだが一等の乗客は目立つ。
しかも男の二人連れとくれば.......ありがた迷惑な話だ。
まあ、例え此方の動向か筒抜けでも、内地や逃げ場の無い海の上で如何こう成る事は先ず無い。
切った張ったの勝負は、上海に着いてからに成るだろう。
そこは抜かりなく手配済だ、決して遅れは取らない。
しかし課長の道連れは少々不安だ。
あの人も外地は一通り経験しているはずだが、正に生き馬の目を抜く様な大陸の現状を何処まで理解しているのだろうか? 今一つ分からない。
今回は自分は無論のこと、課長を生きて内地に帰さなければ成らん。
全く頭の痛い話だ。
「脇屋、平服ってのは楽でいいな」
デッキで手すりに持たれ、眼前に迫る上海の街並みを眺めながら長嶺は話かけてきた。
「そうですか?」
物見遊山のようなその態度に少しカチンと来たのか、少々ぞんざいな返事が返ってくる。
「僕は軍服の方が好きですね、後ろから撃たれる事が少なく成りますから。
課長も船を下りたらお気をつけ下さい、何しろ我らの目的地は魔都上海ですからね。
事実、船から下りたとたん「ズドン」は良くあることです。
暗殺者の常套手段ですよ、
船や鉄道に乗る時降りる時は、標的の判別が容易いですから」
全く可愛げの無い奴だと思いつつも変に現実味の有る話に、彼の此れ迄の大陸での仕事ぶりを想像し、少々不憫に思えて来た。
実際の所、脇屋の奴は優秀だ、
関東軍測量隊での成果は部員の中でも飛び抜けていた。
多方面に広い人脈を築き、其処から得る情報を論理的に集約する手腕は、白眉とも言える才能だ。
そして情に流されず、目的の為ならどんな非情な手段も迷わず使う。
大陸での彼の悪名は彼の手柄よりも有名で、命を狙う人間は両手の指で足りないと聞く。
そのせいか測量部でもアンタッチャブルな扱いの男だか、妾の子と言う共通点が有ったせいか何故か俺には一目おいてくれたようだった。
話をしてみると意外なことに、少々ひねくれた所はあるが非常に常識人と言う印象を受ける。
人としての倫理感でさえ仕事と私生活で切り分けの出来る人間なのだろうか。
冷静に考えれは恐ろしい事だが。
まぁ今はどんな人間だろうが、脇屋が頼りだ。
右も左も分からん大陸で放り出されてもかなわんし、今まで通り全てを任せるしかなかろう。
「課長此方へ」
下船間近、突然脇屋に誘われて入った船員用の部屋には
汚ならしい支那服が二着置いてあった。
「之に着替えて下さい。
荷卸の人足に紛れて下船します。
港には迎えを手配して有りますから、そのまま四馬路の隠れ家に向かいます。
そこで今後の身の振り方を相談しましょう」
「ジェスフィールドには、行かんのか?
命令書には、そこで晴気少佐と打ち合わせる事になっていたはずだが?」
怪訝そうな顔でそう問いかける長嶺に
「行きません。暗殺組織などに用は有りません」
脇屋は、さも当然といった風で返事をした。
「課長、釈迦に説法かもしれませんが、大陸では内地の常識は通用しません、軍隊も同じです。
命令であっても、其れを額面通り実行する必要などありません。
上が命ずる個々の指示など、如何でも良いのです。大筋でそれを守り成果を添えて報告さえすれば上は納得します。
此処では、何事も関東軍流です。
何も心配有りませんよ、先方の面子は潰さない様、晴気少佐には尤もらしい理由を付け、断りの使いを手配して有ります」
彼は、にやりと笑いながら、支那服に袖を通した。
ジェスフィールド76号。
又の名を暗殺76号。
その名の通り、上海の共同租界ジェスフィールド路76号に本拠を構えるこの組織は、土肥原賢二中将率いる関東軍特務機関が創設した現地中国人による、対抗日テロ組織である。
晴気慶胤少佐を長とし、丁黙邨、李士群、両名に実働部隊を率いらせ重慶政府の諜報機関(藍衣社やCC団)や、中共の諜報組織(中央特科)に対し、白昼堂々しかも衆目の面前で敵対者を射殺した。
正に「目には目を」を地で行く、情け容赦の無いカウンターテロ組織だった。
また、敵組織に限らず反日的な新聞や市民団体にも強烈な圧力をかけ、従わない者には躊躇無く、脅迫、誘拐、拷問、暗殺という手段を取り、その苛烈な手法は上海中の市民をを恐怖で震え上がらせた。
世に言う魔都上海の魔その物であった。
西日の差し込む窓辺で、晴気少佐は長嶺の使いと言う妙齢な美女と対面した。
仕立ての良い、絹のチャイナドレスが線の細い体を包んでいた。
女は品の良い仕草で礼をすると、名をリルと名乗った。
聞けばその女、四馬路のダンサーだと言う。
参謀本部の使いにしては、艶っぽい使者も有ったもんだ。
思わず口に出しそうになる言葉を飲み込みながら、
晴気は、用向き尋ねた。
「それで、長嶺少佐は何と?」
「はい、本日の晴気少佐様との面会の件ですが、内地より可及の連絡が入り、急遽上海憲兵隊本部へ出頭する事に成ったとのこと。
従って此方に伺う事が出来ず、晴気様にくれぐれもお詫びをとの事です」
「左様ですか、久しぶりに内地の話などお伺い致したいと思っていたのですが残念な事です。
しかし女性の方が一人で此方にいらっしゃるとは、なにしろ此処は余り良い噂の無い所ですからな。
実に胆の太い方だ」
「いえ、そんな」
彼女は少し恥らう仕草をみせた。
「私くしも仕事柄か、軍の将校様とのお付き合いも多御座います。
内々の御用も稀に頼まれますのよ。
無知な女は使いやすいのでしょうね」
少し微笑むと、形通りの暇乞いの挨拶をして踵を返した。
晴気は、窓辺より女の後姿を見送りなから呟く。
「何が無知な女だ、八課の狸共め早速一手打ってきたな。
我等を蚊帳の外に置く算段らしいが、此方とて獲物を只で引き渡したつもりは無い。
新型爆弾など、此処「上海」では如何でも良い話だが、差し当たり見返りはだけは引き出さんとな。
相互扶助は世の習い、そうだろ鳴沢」
螺鈿の衝立の陰より、眼光鋭い男が顔を覗かせた。