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1、栄光の参謀本部陸地測量部

 一体何事があって、

堀端の桜咲く四月の三宅坂を彼は一人つぶやきながら歩いていた。

坂道から一段高い測量部庁舎は彼の職場であり、通いなれた道のはずなのだか、眼前に迫る白亜の建物を見ると何とも気が重い。

部長直々、名指しでの出頭命令など尋常の事では...また外地か...

頭の中に労苦と後悔の日々が過る。

黄塵染まる満蒙の荒野で過ごした、其の日々が。


「脇屋義人中尉入ります」


 部長室の重い扉を開けると、其処には執務机に座る部長と傍に立つ次長、そして上司で有る長嶺課長が待っていた。

「いよいよ持って詰んだな」

彼は、その面子を見たとたん深いため息をついた。

無論心の中でだか。


「中尉、ご苦労だか又出張に成る」


 次長のいかにも、事務的な声が部屋へ響く。


「北満ですか、それとも外蒙古で」


 此方も、如何にも迷惑そうな面持ちで問い直すと、宥める様に課長が割って入る。


「まぁそう不機嫌そうな面をするな」


 上の命令には絶対服従の陸軍では信じられない光景だが、この測量部には実力主義と言うか、少々毛色の違う風土が合る。


 寡黙で知られる部長が重い口を開いた。


「関東軍測量隊の発足以来、外邦図作成の長期外地勤務、それは儂としても感謝している」


「本国栄転から一年も立たずに、とんぼ返りせいと言うのは此方としても心苦しいんだよ」


 又もや、課長が割って入る。


 だっだら何故僕が...諦めと脱力感が滲み出たような返事が口をついて出そうになる。


「はぁ....」


 来月には見合いも決まり何れ結婚。

田舎から母親を呼びよせ一緒に暮らす家の目星も付けてあるのに。

頭に描いた今後の人生設計が崩れていく音がする。


「さて本題に入ろう」


 又、次長のいかにも事務的な声が部屋へ響く、


「本案件は、本部直轄の事案である

総長の命により、第一課長の長嶺少佐と君に明日14時より北館八課に出頭してもらう。

詳細は其の時説明されるが、何れにせよ君らはその後、既存の指揮系統から離れ参謀総長直属となる予定である」


「では、命令を下達する」


「長嶺之緒少佐、脇屋義人中尉、両名は明日14時に本部八課へ出頭、其の令下に入れ」


「復唱!!」



 参謀本部陸地測量部

頭に栄光を冠して呼ばれる事も多いこの部署は、1888年(明治21年)に創設された。

書いて名の通り各地を測量し地図を製作するのがその主任務であるが、其の任務地が国内に留まらないという事が栄光の理由に繋がる。

およそ戦において地の利とは其の戦場を熟知してこその物だが、戦が己の知る所でのみ起こるとは限らない。

それ故、戦場の地勢を事前に把握出来る地図は、戦の勝敗を左右し大変な価値を有する事に成る。

 さて、我が国の様に国土狭く必然として海外に領土を求める国にとって、将来戦場と成り得る地は当然他国の土地となる。

たが、平時戦時を問わず他国の軍隊に自国領土の測量をを許す国など存在せず、当然の事ながら調査は無許可秘密裏に行われる事になる。

端的に言ってスパイ行為以外の何者でも無く、発覚すれば先ず生きて国には帰れない。

発足より半世紀、この組織の誇る栄光は、命を賭して地図を国にもたらした数多の部員の栄光と言える。



「課長、一体如何いうことに成ってるんです。一課の課長室から怒声が漏れてくる」


「そう大声を出すな」


 課長が僕を宥めるように諌め、話を続けた。


「俺にも詳細は下りてきて無いんだよ、機密事項って奴だ。

知らされているのは、明日付けで俺もお前も一課を首になって本部預かりになるって事と、その後どこかに出張するという事だ。

行き先は、明日には判るだろう。

しかしまぁ測量部の人間が行く以上、内地って事は無いだろう、お前も覚悟しておけ。

実際の所俺にしたって、閑職に左遷の方がまだ驚かんよ。

まさかこの年で外地とはな、何れにしても明日だ明日!!」


 そういい残すと、帰宅するのか荷物を纏め始めた。


「ああ、見合いの方は如何するお前?」


 突然思いついたように課長は呟いた。

断るなら角の立たないよう俺の方で取り計らって置くが。

そう言って、少し寂しそうな表情を作ると廊下へと続くドアのノブに手をかけた。


「可哀想だか何事も御国の為だ。」一言そう言い残して。



 僕は故郷が嫌いだった、特に黄塵に染まる冬の故郷が、あそこには辛く悲しい思い出しか無い。

僕の生まれは上州の片田舎の村だが、川が無く水の手が無いため水田が作れなかった。

僅かばかりの畑に麦と芋を作りやっと生きる、そんな貧しい村だった。

村に冬が来ると赤城下ろしの強烈な北風が吹き荒れ、冬枯れの畑の砂を巻き上げた。

その黄色く染まった空をうらめしそうに、すきっ腹を抱え見上げる。

其れが幼い僕の原風景だった。


 物心着いたころにはすでに父は居なかった、何処の誰とも知らないし興味も無かった。

母は頑なに父の事を話さないし、こんな貧しく辛い境遇をもたらしたの元凶の様に思え、どちらかと言えば憎んだ位だ。

ああ、父と言えば僕が五歳に成った有る日、母は町の商家の主人の妾に成った。

しかし、其れまでどうやって母が生活費を工面し僕を育てたものか未だに判らない。

母は其のころの話を絶対にしないし、僕も怖くて聞いたことが無い。

まぁ今と成っては、実際知りたくもないが。

さて、定期的に我が家を訪れる母の旦那は善人であった。

少なくとも彼のお陰で僕も母も飢える事は無くなり、学校にも通わせて貰えた。

それについては、とても感謝している。

ただ妾の子供と言う立場は空腹とは異なった辛さを僕にもたらした。

僕は其れを克服するため必死にあがいた。

幸いな事に僕は頭の出来が良かったらしい、学校の成績は常に一番だった。

母はとても喜び母の旦那は上の学校に行けと言ってくれた。

今思えば何故言うとおりに学校に行かなかったのか残念で成らないのだか、子供心のささやかな反骨と母を取られた嫉妬心が邪魔をした。

結果、幼年学校の門を叩き軍人になる事になったのだが、ここで意外にも顔も知らない父が役にたった、彼は大陸で戦死していた。

幼年学校では、軍人の遺児は特待生として学費全額免除とされている。

何しろ三食付いて学費が只は破各だったし、何よりもあの陰鬱な故郷を出ることが出来る。

無知な子供の僕にはそれだけで十分魅力に思えた。


 嗚呼、

あれから随分月日が過ぎた。

何となれば、間々ならないのが人生だが、故郷の黄塵から逃れるため軍に入ったのに、任務とはいえ皮肉にもその後十年大陸で砂を噛んだ。

荒涼たる満蒙の地で命を片手に任務を果たしたと言えば聞こえは良いが、人には話せないような事も随分やってしまった、死ねば地獄に落ちるかもしれない。

だが、どんな悪人でも眼前の幸せを希求するのは仕方のないことだろう。

東京で新たな生活を踏み出した矢先にコレとは、因果応報は信じたく無いが何だか割り切れない。


 

 晴天の霹靂とはこの事か。

家人が迎えに寄こした車の後席で長嶺は一人つぶやいてた。

四十を過ぎて外地勤務とは、一体御上は白筋目立つ男に何をさせるつもりなのか。

全く皆目検討も付かない、脇屋のお守なら現地でなくとも良かろうに、とりあえず奥と相談せねばな。

頭の中に次々浮かぶ脈絡の無い感情を思い悩みながら、長嶺は家路を急いだ。

唯、不思議と外地に行く焦燥感は別段感じていない。

逆に、心の底では其れを望む自分が居ることにも、気が付いていた。

年若い妻を娶り、子を育み、良き家庭人として振舞うことに注力した人生には何の不満も無い。

だが先の見えた人生に対する焦燥感と、若き日への回帰心というものは、中年男が必ず罹る熱病の様なものだ。


「地図屋の性分かね」


 一人何に納得するのか呟くと、ほくそ笑みながら思いを巡らす。

しかし脇屋と二人とは、如何したものか頭の痛い所だ。

優秀な人間ってのは基本扱い安いものだか、あいつは少々な。

しかも見合いまで潰す事に成っては、どう取り繕って動いて貰うか。

上が何を我々に何を求めるのかは明日出た所勝負だが、何とも早や頭の痛い事だ。




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