フレンダの信用
荘厳なるシャンデリアが照らす真紅のホール。レッドカーペットを踏みしめ、優雅な調べを聞きながら、色とりどりのドレスを身に纏った淑女や、質の良いタキシードを着こなした紳士が、歓談を楽しんでいた。
今日は、年に数回ある、大きな社交パーティーの日。主要な未成年の貴族の子女が一堂に会したこの場で、事件は起きた。
「――フレンダ・エスポワールッ!」
よく響くテノールが場を支配し、グラスを手に持った紳士淑女の視線が、声の主へと向けられる。人の波の向こうに見えるのは、一際豪奢なタキシードを身に纏った、まだ若い紳士。その紳士に肩を抱かれて身を震わせているのは、庇護欲を掻き立てる小鹿のような少女。対して、その紳士に指先を突き付けられているのは、その紳士と同い年くらいの少女。
何が始まるのだ、と人々の関心はそちらへ移る。中には、興ざめだとうんざりした顔をする紳士淑女も数名。
「私は真の愛を見つけた! 貴様との婚約を、ここに破棄することを宣言する!」
婚約破棄。
婚約とは、この王国を守る多数の貴族家同士が結びつける強固な契約だ。血を混ぜるため、便宜を図るため、恩義に報いる褒章として――様々な思惑をもって結ばれる婚約は、よほどのことがなければ、解消はおろか破棄などできようはずもない。
その婚約破棄を叩きつけた男の名を、この場にいた全員が知っていた。彼はヴァナージ・フォン・ユグドラシエル王子。金の髪に、青緑色の瞳を持つ美丈夫である。
そんな彼の婚約者として挙げられたのが、王国史を紐解いても歴代に類を見ない才女と呼ばれるエスポワール公爵家長女、名をフレンダ。赤茶色の髪に、アメジストのような美しい紫の瞳を持つ、エスポワール家の姫君である。
そしてそのフレンダの異母妹――娼婦であった後妻と公爵の娘として公爵家にやって来て、こうして異母姉の婚約者に肩を抱かれている、ブラウン色の髪をくるくるとくせ毛にして、藍色の瞳を潤ませている少女アルメリス。それが、この異様な催しの主役たちである。
「……まぁ」
フレンダは口元を押さえて、目をぱちぱちと瞬かせている。ヴァナージはそれを見て鼻を鳴らすと、畳みかけるように言葉を重ねた。
「貴様が異母妹であるアルメリスを虐めていたことは調べがついている。このような非道を持って、この国の国母の座に就こうなどとは片腹痛い。貴様との婚約を破棄し、アルメリス・エスポワールとの婚約を、ここに宣言――」
「まあっ。まあっ。まあっ。素敵ですわっ!」
「……へ?」
素っ頓狂な声を出したのはヴァナージ。対して、掌をぽん、と叩いてそれを褒め称えるのは、フレンダ。
フレンダの反応が予想外だったのか、ヴァナージも、そしてアルメリスも唖然と口を半開きにした。けれどフレンダは、そのようなことなどお構いなしに告げる。
「王家とエスポワール家の婚約は、両家間の結びつきを目的に成されたものです。ですから、わたくしでなくとも、エスポワール家の女子ならどの者でも、殿下の婚約者に相応しいということです」
「……な、なんだと?」
「わたくしも殿下のことをお慕いしておりましたけれど、殿下とアルメリスはお互いに想っていらっしゃるのね! どうして言ってくださらなかったの? 言ってくだされば、すぐにでも婚約先の変更を、お父様に打診いたしましたのに」
もちろん、陛下にも事前にそのように聞いていましたわ、とフレンダは付け加える。エスポワール家に婚約の打診が来た際に、フレンダの父であるエスポワール公爵はかなり難色を示したそうだが、王家がそこを何とか、と告げた際に、そのような条件になったと聞いている。
つまり公爵は、フレンダが嫌と言えば、いつでも婚約者を挿げ替えられるように約定を結んでいたということでもある。親戚筋から養女を迎えて、婚約を挿げ替えることも、王子が恋をした人間を養女にしてそれを調えることも、可能なようにという政策である。
「セバスチャン! 直ちにお父様にお知らせしてくださる? わたくしとの婚約を解消して、アルメリスとの婚約を改めて調えるようにと」
「は。畏まりました。お嬢様」
フレンダはにこりと笑顔で壁際に待っていた自らの従者を呼び寄せると、すぐに公爵邸へと知らせを送った。完全に置き去りにされたヴァナージとアルメリスは、顔を赤くしてフレンダを睨みつけた。
「どういうことだ、フレンダ!」
「あらっ。殿下は、国王陛下や王妃陛下からお聞きになっていらっしゃらなかったのですか?」
「そういうことではない! 私は貴様との婚約を破棄すると言ったのだ。貴様がこの異母妹であるアルメリスを虐めたから!」
「そ、そうですわお義姉さま! 今更、都合が悪くなったからと話を逸らさないでください! ちゃんと裁きを受けていただきますわ」
「まぁ」
フレンダは口元を手で覆って、そうしてかわいらしく小首を傾げた。
「わたくし、何か裁かれるようなことをいたしまして? それはわたくしの不徳がいたすことかもしれません。ちゃんと確認いたしますので、教えてくださる?」
「ふんっ。いいだろう。アルメリス、話してやれ」
「はい、殿下……お義姉さまは、私のことがお嫌いなんです。後妻の娘である私が気に入らなかったのね。卑しい下民だと、毎日のように暴言を言われたわ」
「まぁっ。たいへん。それっていつのことかしら。わたくしが言った何かの言葉が、あなたにはそう聞こえてしまったの?」
フレンダは悲しげに眉根を下げる。すると、アルメリスはおどおどとしながら、叫ぶように告げた。
「あんなことを言っておいて、よくもぬけぬけと……っ! ここのところ、毎日のように言ってきたじゃないですか! 私の暮らしている別棟にわざわざ乗り込んできて!」
「あらっ」
フレンダは目をぱちぱちと瞬かせて、困ったように微笑んだ。
「わたくし、アルメリスと会ったの、今日で一年ぶりくらいだと思うのですけれど……」
「……えっ」
周囲にざわつきが広がる。フレンダは背筋を伸ばして、うーん、と思い出すように小さく唸ってから、アルメリスに視線をまっすぐに向けた。
「学院に入学してからというもの、わたくしは一度も自邸で眠っておりませんのよ」
「は……?」
「お父様が以前に使っていたタウンハウスを拠点にしております。だからごめんあそばせ、わたくし、アルメリスが別棟で暮らしていることも存じませんでした」
フレンダの才覚は、他に類を見ないとても希少なものだった。幼い頃から父と母の領地経営を近くで見て育ったフレンダは、経営者としても一流に育ったのだ。今では国に正式に許可を受けて、領地の片隅で一つの事業を興し、見事に成功している。フレンダには、もう十分に誰かと婚姻するまでもない私財が築き上げられていた。
特に高級牛肉のブランドは、王都の貴族たちの食卓には当たり前に並ぶようになった。この晩餐会でテーブルに積まれている分厚いステーキ肉も、フレンダの事業で経営している精肉店から卸された最高級の牛肉である。
ほかにも化粧品ブランドも立ち上げているし、他国から奇抜な服飾デザイナーをスカウトしてきて、王都にて大きなオーダーメイドの仕立て屋を経営していたりと、女性貴族の中でもかなり顔が広い存在である。
そんな経営に走り回っているフレンダが、父であるエスポワール公爵に頼み込んで貸して貰った別邸が、タウンハウス。
「わたくしが自邸に帰るのは、お父様とお義母様に呼ばれたときだけですわ。それも、話のために滞在時間はだいたい30分から1時間程度。その間は、ずっとお父様とお義母様と一緒にいるのですから、別棟に顔を出す時間などありません」
「そ……そんなこと、ありえないわ! だって私は、お義姉さまに罵られたもの! 口だけなら何とでも言えるじゃない!」
「まぁ……そんな。もしかして、自邸に不法侵入者が? 誰かがわたくしの名前を騙って、アルメリスを貶めているの?」
フレンダはそんなありもしない可能性を、本気で疑っている。それを感じ取って、アルメリスは背筋がぞくっと冷えた。
フレンダ・エスポワールは、才女として名を馳せているものの、ただ一つだけ、社交界で囁かれている欠点があった。
それは、親しい人の悪意を認めないことだ。どんなに悪意を持って陥れられたとしても、フレンダは合理的にそれらを丁寧に解決する。フレンダは、アルメリスが自分を陥れようとしているなどということには、微塵も気づいていないのだ。だからこそ、自分の名を使って、異母妹を虐めている人間がいると、本気で思い込んでいる。
「それは大変だわ。公爵家に忍び込む人がいるだなんて、お父様もお義母様もアルメリスも、使用人の皆も危ないわ。すぐに警備の強化をするように、お父様に進言しないと!」
「お、お義姉さま……何を仰っているのっ」
「大丈夫です、アルメリス。そのような不届きな輩は、すぐにひっとらえてあなたに謝罪をさせます。お姉さまに任せておいてくださる?」
フレンダはまた従者を呼び、その旨を父に伝えるようにと言いつけた。従者はアルメリスを冷たくひと睨みしてから、そのまま会場から飛び出していった。フレンダ以外の人間が、徐々にアルメリスの言葉が、フレンダを陥れる狂言だと気づき始めていた。
アルメリスはその疑いが籠った視線を受けて、縋るようにヴァナージを見つめた。ヴァナージは唖然としたまま成り行きを見守っていたが、はっと我に帰ると、また声を荒げた。
「ええい、細かいことをぐちぐちと! 貴様はアルメリスを校舎の階段から突き落としただろう! 彼女の膝には、夥しい青あざが付いていたのだぞ! おかげで今日はダンスを踊ることもできない!」
「まぁっ。大丈夫なの、アルメリス、そんな怪我をしているだなんて知らなかったわ」
「お義姉さま、ひどいです! 自分で突き落としておいて、そんな……」
「貴様が突き落としたことは証言が取れている! 男爵家の男が見ていたとな! 観念しろ、この冷徹女め! 貴様には貴族籍の剥奪と、国外への追放を命じる! とっとと出て行け! 衛兵!」
王子ががなり立て、衛兵を呼ぶも、ホール内はしん――と静まり返っている。その様子に、王子は慌てて周りを見渡して、怒鳴り散らした。
「おい、聞いているのか、衛兵! とっととこの女を国外に放り出せ!」
「――それは、流石に……」
「はぁ!? おい、私は王子だぞ! 貴様ら、仕事をしろ!」
――しん。
誰もその声に応える者はいない。その様子に王子は怒りを抑えきれない様子ではあったが、フレンダはおかしなことを言うものだ、とかわいらしく小首を傾げた。
「殿下は何かを勘違いしていらっしゃるようですが、わたくし、アルメリスを突き落としたりなんてしていないのです」
「う……嘘をつかないで、お義姉さま! あれは確かにお義姉さまだったわ! わたくしを突き落として、嘲笑っていたじゃない!」
「誤解を解くためにも、ちゃんと話し合いが必要ですね。アルメリス、わたくしに突き落とされたのはいつ?」
「……よ、四日前、ですわ」
先ほど、1年間顔を合わせていない、という事実がホールに浸透したてで、この発言だ。
四日前、とフレンダが少し思案するように視線を泳がせた後で、ぽん、と手を叩いた。
「朝ですか? それとも昼から?」
「……」
「アルメリス?」
「ひ、昼! 昼よ!」
「では、人違いです」
「は、はぁ!?」
フレンダはうふふ、と少しだけ興奮したように顔を紅潮させながら告げた。
「その日は昼から、エリザベータ王女殿下の、婚約披露宴のドレスのデザインの相談に乗っていたのです。朝に生徒会の業務を終えて、お昼からはわたくしが経営している仕立て屋に、王女殿下をご案内差し上げたの。とっても光栄でしたわ」
そう告げて、フレンダが壇上にいるエリザベータ王女殿下に淑女の礼を取れば、エリザベータ王女は微笑んで手を振った。齢15となる愛らしい王女の婚約は、国民にとっても喜ばしいことだった。何せ、隣国の王家に嫁ぐことになっているのだから。
「昼に早退するために、朝から生徒会室に缶詰めでした。アルメリスに会いに校舎に行く時間は、私にはありませんでした」
「……っ」
「まさか、学院にまでわたくしを騙る偽物が? 何たること……これは捨て置けませんわ!」
どんどん暴走していくフレンダとは裏腹に、周囲の人間は、この事件の真相が見えてきていたようだった。視線が突き刺さり、どんどん居心地が悪くなっていくアルメリスはヴァナージの腕にぎゅっと抱き着き、ヴァナージは顔を赤くして怒鳴った。
「うるさい! 見た奴がいるんだからお前が犯人なんだよ! いいから衛兵、この女を早く国の外に追放しろ! 私の言うことが聞けないのか!」
「……殿下」
壇上のエリザベータ王女が深く息を吐き出したのが聞こえたが、フレンダは少しだけ目を潤ませながら、丁寧に説明するように告げた。
「王位継承権がない王族の権限は、貴族と等位です」
「……は」
「王命の権限もなければ、衛兵や近衛兵、騎士団への命令権も、罪人の罪の内容を決める権限も、ヴァナージ殿下にはないではありませんか」
フレンダの言葉に、ヴァナージは目を白黒させた。ヴァナージは王子である。第四位王子ではないのだ。
今代の正妃には3人の息子と1人の娘がおり、その3人の息子に王位継承権が与えられている。王位継承権争いによって余計な火種とならぬように、ヴァナージからは幼いうちに王位継承権が剥奪されており、成人後には一代限りの爵位を与えられ、王領の片隅を領地として与えられることが決まっている。
「それに、国法では国王以外の王族が王命を行使する際には、評議会の過半数の賛成が必要と定められております」
「……」
「殿下の兄君の王太子殿下であっても、この場でわたくしの貴族籍をどうにかしたり、国外追放を言いつけたりすることは叶わないのです。それができるとすれば、国王陛下だけですわ」
まさか、知らないのか――そんな言葉が、ざわざわと周囲で起きる。数代前に、王命を乱用して国から貴族の血を流出させた王太子が裁かれてから、評議会の賛同が必要なように法律が改正された。成人しておらず物事の善悪の判断がつかない王族が王命を気軽に使用できないようにしたのである。
「ヴァナージ王子殿下は成人後、王籍を抜かれ爵位を与えられることが確定しています。ですので、王族という立場はありますが、王族が持つ権限はすべて剥奪されております……と、恐らく2,3回ほど申し上げさせていただきました」
「う、嘘だっ! 私は王子だぞ! 王族じゃなくなるなんて冗談じゃない!」
「だってわたくしも、妃教育を受けておりませんでしょう?」
フレンダが困ったように微笑むのを見て、ヴァナージは心臓がうるさくなる。兄たちの婚約者は足しげく王城に通って厳しいレッスンを受けていたのに、フレンダはいつまでも王都で事業のために走り回っている理由について、何も考えたことがなかったのだ。
「ヴァナージ王子殿下は、成人時点の功績によって、決められた一代限りの爵位が与えられます。王族の出身は、最低でも伯爵位を戴けるそうです」
「伯爵位……」
「そこに、夫婦となるので、妻の功績も加味して爵位を決定されるそうです。婚約者が私から異母妹になりますので、私の功績は無視されますが、きっと殿下が政務を頑張っていらっしゃったら、侯爵位や公爵位を賜れると思います!」
ヴァナージは今更ながらに、己のことを振り返る。――公務はサボり気味で、陛下に褒められた覚えは一度もない。アルメリスも甘やかされて公爵家で育っていただけなので、政務など行なっていないだろう。
今更ながらに、首筋から冷や汗が止まらなくなる。しかしフレンダは顔を赤くして、頬にそっと手を当てていた。
「何か色々誤解もあったようですが、愛する二人が結ばれたならこれ以上のことはありませんわ! 皆さま、このお二方の門出に大きな拍手を!」
フレンダが周りを煽れば、周りはぱちぱちと拍手をした。もはや、アルメリスやヴァナージが何を言ってフレンダを陥れても無駄だろう。
どこぞの男爵家の男と王女殿下の証言など比べる価値もないだろうし、公爵家の人間を抱き込める権力も信用も、アルメリスやヴァナージにはない。どのような手を使っても、もはやフレンダに冤罪を被せることなど不可能なのだ。
何より、彼女はこの場のすべての人間の心を掴んでいる。拍手が止み、フレンダが「ごきげんよう」と告げてその輪から離れた途端、周囲にいた見目麗しい令息たちが次々に声を掛けていた。ヴァナージの婚約者でなくなったフレンダには、無限の利用価値があったのだ。
フレンダは、決して貴族の令嬢として優れていたわけではない。きっと人の悪意を受け止めて強く振舞わなくてはいけない王宮内なら、フレンダは輝けなかっただろう。けれどフレンダは、とにかく人に親切だった。
人と向かい合い、親身に話を聞いた。助力できる手助けなら、躊躇わずに行なった。もちろん、金銭が絡むようなものに関してはとても慎重に。
そうしてフレンダが積み上げた「信用」は、王位継承権を持たない王族の末席や、妾腹から生まれた愛嬌だけの娘の言葉で崩すことはできなかった。
何より、平民とあんなにも楽しそうに話すフレンダが、平民と父の間に産まれた子である異母妹を疎むとは思えない。そういう積み重ねた「信用」が、フレンダを守っていたのだと、誰もが言った。
◆◇◆
ヴァナージとアルメリスの婚約は、恙なく調った。フレンダは国王と王妃に呼び出されて「考え直してくれないか」と言われたものの、愛する二人を引き裂くなどとはかわいそうです、と告げれば二人はがくりと肩を落とした。
もともと、そういう契約で強引にフレンダをヴァナージと結び付けていたのだ。アルメリスが間に入ってこなければ、フレンダは喜んでヴァナージと結婚しただろう。フレンダはそういう娘だ、と国王と王妃は安心しきっていた。
まさか異母妹という伏兵によって、思惑を邪魔されると思っていなかった国王と王妃は、ヴァナージをこっぴどく叱り、ヴァナージに与えられる爵位は最低限よりもさらに低い子爵ということになった。
公爵家に帰ったアルメリスは、母に泣きついた。
「お母さま……私、お義姉さまに嵌められましたわ!」
「嵌められた? アルメリス、何があったの?」
アルメリスは、母にパーティーであったことをすべて話した。きっと母なら、必ず力になってくれる。そう思って、話したのだが――。
話を聞いていた母、サンドラはしばらくその話を黙って聞いていたのだが、フレンダがアルメリスを虐めている、という話になったとき、ぷるぷると拳を握って怒りを抑えているように思えた。
やはり、母は味方になってくれる――そう思って安心して泣きつき、話が終わった瞬間、頬に鋭い痛みが走った。
(え――)
「この……恩知らず! フレンダ様になんてことをするの!」
「お、お母様……?」
サンドラはその美貌をくしゃくしゃに歪めて、強く憤ったように肩で息をした。指先には、強く娘をぶった感覚が残っていた。
サンドラは、下町で最も栄えていた娼館の娼婦だった。幼い頃に両親を亡くしていたサンドラにとって、この仕事は唯一の命綱だった。しがみついて必死に仕事をこなす中で、出会ったのがエスポワール公爵だった。
爵位を継ぎたての彼は、才媛と呼ばれていた妻に尻に敷かれるばかりで、凡人である自分に劣等感を抱いていた。そんな彼が、妻が領地へと単身出た間に、魔が差して訪れたというこの娼館で出会ったのだ。
エスポワール公爵家は裕福な家だった。サンドラとしては、何としてもこの男をパトロンに繋ぎ留めたいと、そう願ったのだ。エスポワール公爵領が隣接する隣国、ドラハステ国の言語を習得していたサンドラは、それをきっかけにエスポワール公爵に興味を持たれて、何度か相手をした。
そのうちに腹に彼との子を宿した。サンドラは彼の相手をするために、その時期は彼以外との関係を断っていたので、間違いなく彼との子だった。
けれど子を成した途端、怖気づいたのか、エスポワール公爵は娼館には姿を現さなかった。養育費として、毎月いくらかの金は渡してくれたが、それ以外は一切、かかわりを持たなかった。
後から知ったことだが、責任を感じたエスポワール公爵は、自らの交際費を切り詰めて贅沢を止め、その分を養育費に回してくれていたそうだ。
そんな彼がもう一度やって来てくれたのは、妻が病気に臥せて、不安を打ち明けられる誰かに縋りたくなったその時だった。身勝手な男だと思った。けれどサンドラは、浅ましくも正妻が死ねば、自分を後妻として迎えてくれるのではないか、という黒い欲望に支配された。
結局、彼を引き留めたその夜に、正妻は亡くなったそうだ。サンドラはなんてことをしてしまったのだろう、と激しく後悔をした。
その数年後、エスポワール公爵の後妻として、サンドラは抱え込まれることとなった。彼との子であるアルメリスと共に、公爵邸を訪れる。
けれど、公爵は決して本邸を使わせてはくれなかった。後妻を取るのは彼自身の完全なエゴであり、本邸にいる正式な跡継ぎの子らと引き合わせないためだった。公爵は想像以上にしっかりとした人間で、線引きをしっかりとする人間だった。彼は、サンドラとアルメリスに、公爵家の財産を使うことを禁じた。
必要なものは買い与えるのでちゃんと相談するようにと、そう告げたのだ。それでも、下町で不安定な生活をしていたころに比べれば、遥かに安全で裕福で、自由な生活がそこにはあった。
「お母様、どうしてお父様は、あの大きな屋敷で暮らさせてくれないの?」
「お父様は私たちにできることをしてくださっているの。贅沢を言うんじゃありません」
実際に、別棟でも、暮らしていた家の5倍近くの大きさがあった。これ以上のものをどうやって望めばいいの、と庶民感覚のサンドラは思っていた。けれどアルメリスは、本邸で暮らせないことにひどく不満を持っていたようだった。
おいしい食事、綺麗な服、安全で豊かな暮らし。公爵は毎晩、別棟まで様子を見にやってくる。サンドラにとって、これ以上のものは何も必要なかった。
そんなサンドラの元へ、彼女はやってきたのだ。階下が騒がしくてどうしたのかしら、と下を見下ろせば、綺麗な人形のような少女が楽しそうに別棟へ駆け込んできて、その後ろから公爵が慌ててやってきたのだ。
「待ちなさい、フレンダ」
「どうして、お父様。お義母様になられるなら、ちゃんとご挨拶差し上げなければなりませんわ」
サンドラは内心びくりと肩を揺らした。聞いたことがある、本妻の忘れ形見、フレンダ嬢。才女と呼ばれる、自分とは何もかもが違う正統派なお嬢様。
きっと平民である愛妾の自分を笑いに来たに違いない。そう思っていると、フレンダは「あらっ」と楽しそうに声を上げて、サンドラの前へとやってきた。するとフレンダは、整った作法で頭を下げて、朗らかな笑顔を浮かべて告げた。
「ごめんあそばせ、お義母様。ご挨拶が遅れてしまいました。フレンダ・エスポワールと申します」
サンドラは、言葉が出なかった。けれどフレンダは嫌な顔を一つもせずにふわりと笑って「何かお困りのことがあれば相談してくださいませ」と言い残して、異母妹を探し回った。そうしてアルメリスにも挨拶を済ませたらしいフレンダは、そのまま上機嫌に別棟を出て行った。アルメリスはぎゅっと父に抱き着いて泣きそうな顔をしていたが、サンドラは、フレンダの後ろ姿に、少しだけ憧憬の気持ちを抱いた。
(綺麗な子……)
そして驚くべきことに、フレンダは時折サンドラの元を訪れて、話を聞きにやってくるのだ。
「ねぇ、お義母様。お義母様は娼婦でいらしたのよね」
「え、ええ……そう、よ」
汚らしい、と罵られるのかしら。そう思ってサンドラが構えていると、フレンダの口から出たのは予想外の言葉。
「ねぇっ。お義母様はどのような化粧品をお使いになられていたの?」
「……え?」
「美貌を気にされるお仕事でしょう? お義母様もとてもお綺麗だもの。どんなふうに肌のケアをしていらっしゃるのか聞きたいわ。ねぇ、色々教えてくださらない?」
フレンダはサンドラから化粧品の様々な話を聞いて、国中から様々な商品を買い集めた。それらを二人で試してみたり、新しい化粧品を試作する、などということもフレンダはやってのけた。そこまでして初めて、サンドラはフレンダが、義母との関係を良くするために、コミュニケーションを取ってくれているのだと気づいた。
自分と変わらない歳の子がいるだなんて、父の不貞以外の何物でもないのに、フレンダはサンドラへの態度を決して厳しくはしなかった。それどころか、本当の母子のように慕ってくれている様にさえ感じる。
「ねぇ、フレンダ様――」
「どうしたのですか、お義母様」
「どうして、わたくしに優しくしてくれるの?」
思わず問いかけてみれば、フレンダは少しだけ悩んだ後で、困ったように微笑んだ。
「だって悪いのはお父様で、お義母様ではないでしょう?」
「え……」
「お義母様は平民で、お父様は公爵ですもの。そんなの、求められたらお義母様に嫌と言えるわけがありません。確かに、お母様を蔑ろにされていたことは、とても悲しいことです。けれどお父様だって人間だもの。完璧であるはずがありません」
この子は、本当に――サンドラは、少しだけ目頭が熱くなりながら、小さく首を横に振った。
(わたくし、最低だわ。この子の母親に――死んでほしいだなんて)
自分の事しか考えられなかったサンドラは、己の行いを悔いた。けれど目の前で、母を追い詰めた憎い敵を、大らかな心で受け入れようとしてくれているフレンダに、心酔していった。
サンドラの心境は大きく変わった。サンドラとの対話を通して化粧品ブランドを作り、それを経営し始めたフレンダに、サンドラは問いかけた。
「フレンダ様。あの……公爵家のために、わたくしにできることは何かないかしら」
「お義母様?」
「わたくし、ここに置いていただけて、甘やかされて、それを享受しているだけなのが嫌なの。だってフレンダ様は、貴族のお嬢様なのに立派に働いて。それなのに、後妻として図々しく居座るわたくしが何もしないのは嫌だわ」
貴族のことなどよくわからなかった。けれど、何かフレンダの役に立ちたいと思ったサンドラは、思い切ってそう切り出したのだ。すると、フレンダは何かを考えた後で、困ったように微笑んだ。
「あのね、お義母様。お父様は、隣国であるドラハステ国との国交を担っていらっしゃるの」
「ええ。聞いたことがあるわ。私もドラハステ語が喋れるので、そのよしみで引き合わせていただいたの」
「そうだったのですね。それでね、お義母様。国交には、パートナーがいたほうが何かと都合がいいの」
「パートナー……?」
つまりは、伴侶である。フレンダは、サンドラを後妻に迎えた理由は、もちろん責任を取るという意味でもあるが、この政治的パートナーの代理という意味合いも強いと思っていたのだ。
「お義母様は、社交界に興味はおありですか」
そう告げて、フレンダはやや気乗りしないようにつぶやいた。平民出身の、公爵家の妾。そんな立場の人間が社交界に出たら、どんなやっかみがあるか分からない。
けれど、サンドラにとって、フレンダに恩返しをすることはもう決まったことだった。役に立てるなら何でも身に付けるわ、と告げて、フレンダは少し戸惑い気味にだが、サンドラを社交に連れ出してくれるようになったのだ。
初めは、サンドラと同年代の夫人のお茶会へ。度々、サンドラをいびるために公爵家へ届いていた茶会への誘いの返事は、今までフレンダがすべて断ってくれていたことを知った。そんな獅子だらけの茶会へ飛びこむのは勇気がいることだったが――フレンダが、教えてくれた。
娼婦とは、人と向き合う仕事でしょう。ですから、その根本があれば、きっと渡り合えます。夫人たちは美貌の維持にはとても気を遣うので、ぜひともわたくしとしていた化粧品や美容法についての話をして、まずはお義母様を認めさせることから始めましょう。
そう告げられて、サンドラは初めての茶会へと挑んだ。そうして、当然に様々な非難に晒されたが――フレンダが間に入って、サンドラに教えて貰った美容の秘訣などの話をし始めてから、夫人たちの目の色が変わった。
「お義母様に色々教えていただいて、我が化粧品ブランドはとても繁盛していますわ。エリザベータ王女殿下もとても感心なさっていたの。ほかにも、お義母様はとてもお話が上手なのです。わたくし、お義母様とお話しするようになってから、おしゃれがもっと楽しくなりましたのよ」
彼女たちからサンドラへの信用は、ないに近かった。それどころか、身の程知らずの娼婦上がりとして、マイナスにも等しかっただろう。けれど、フレンダが積み上げて来た信用が、サンドラへの保証となったのだ。
今では、その夫人たちとは良き友人関係である。茶会に参加して、美容の話をするだけで、かなり盛り上がるようになった。サンドラは徐々に社交界へ出るようになっていき、今では公爵に同行して、フレンダの母の代理を何とか務めている。いまだに侮られることもあったが、公爵は前夫人のことを認めたうえで、自分のエゴで苦しめた後妻が、今の境遇と向き合うのを、眩しそうに見つめていたという。
このような経緯もあって、アルメリスに甘いはずの母は、完全にフレンダに懐柔されていた。
自分の母がこのような態度を取ったのを、信じられないような瞳でアルメリスは見つめていた。けれどサンドラは、心酔するフレンダを陥れようとする我が子に、厳しい目を向けた。
アルメリスは家に来た当初からフレンダと折り合いが悪く、フレンダの持っているものを欲しがったり、虐められたと泣き叫んで使用人を困らせたりすることがよくあった。恐らくだが、自分に甘々だった父が、フレンダの前ではさらに甘々になるのを見て、父を取られる幼子のような敵意を抱いたのではないだろうか、とサンドラは予想していた。
とはいえ、それくらいでここまでフレンダを敵視するものか、とも思ったけれど、聞いてみても「不公平だ」としか言わないので、結局なぜアルメリスがフレンダを憎く思っているのかまるで分かっていなかった。そんなアルメリスの態度に全く気付かずに、いつもにこにこと接してくれるフレンダは、サンドラにとって聖母のように見えていた。
「いいですか、アルメリス。あなたは、義兄と折り合いが悪いためにいまだに別棟に部屋があるのを理解していますか」
「……っ」
「わたくしも、最初はとてもトムソン様に睨まれたわ。けれど、社交界で結果を出すようになってから、トムソン様はわたくしを認めてくださったの。あなたは自分が家族として認められないのを、フレンダ様に虐められているからなんて喚いてるけど、大きな間違いだわ」
「だって、お姉さまが!」
でももだってもない。サンドラは大きく息を吐き出して、はっきりと告げた。
「フレンダ様がタウンハウスで暮らしていらっしゃるのは、あなたとトムソン様が仲直りをして、アルメリスが本邸で暮らせるようにするためよ。あなたが何かとフレンダ様に突っかかるせいで、トムソン様は永遠にアルメリスをお認めにならないんだから」
「そんな! お義姉さまがお義兄さまに、私のことを悪く言っていたからでしょう?」
「そんな事実はありません。実の妹の優しさに付け込んで、その妹を悪く言う腹違いの妹なんて、トムソン様が好ましく思うはずないでしょう!」
いまだに別棟から脱出できないこのアルメリスが、本当の家族として家で暮らせるように。そんな気持ちで、フレンダはトムソンを諭して、タウンハウスへ移り住んだのだ。心無い人間はそれを、フレンダが家庭内で居場所を失くしている、と噂するが、フレンダを邪険に思っているのはアルメリスだけで、父も義母も兄も、全てフレンダを尊敬して尊重している。
「嘘よ! 信じないんだから!」
「あなたがどう思おうと事実は一つしかないの。いい加減にして頂戴」
「何なの! お母様は誰の味方なのよ!」
サンドラとアルメリスが睨み合っていると、トムソンが別棟へやってくる。そうして「義母上」と声を掛け、続いてアルメリスを冷たく見下ろして、告げた。
「父上が呼んでいる。来てくれ」
「分かりました」
「お父様にも直接言うわ! 絶対に……」
「その女は留守番だ。これは当主命令だ、義母上」
「……分かったわ」
使用人にアルメリスが引っ張られていくのを見送って、サンドラはトムソンと共に本邸へと戻った。そうして、難しい顔をしているエスポワール公爵の前へと至ると、エスポワール公爵は顔を上げた。
「サンドラ」
「はい」
「……王家からの通達があった。アルメリスとヴァナージ王子殿下との婚約が調った。ヴァナージ王子殿下は、王家主催のパーティでの非常識な行動を非難され、直ちに学院を退学、一代限りの子爵位を与えられて、最も厳しいとされる山上の領地へ放逐されることとなった」
「……」
サンドラは、フレンダにヴァナージ王子がどのような人間なのか聞いてみたことがあった。フレンダはだいぶ遠回しに、かなり気を遣った言い方で紹介してくれたが、とてもではないがまともな人間だとは思えなかった。
後ろ盾の弱い伯爵家の出である側妃の息子であり、王位継承権を剥奪されたにもかかわらず、王族として横柄に振舞い続けて来た。
フレンダが婚約者となったのも、あのどうしようもない男を何とか真人間として、領地を統治させる手伝いをさせるため。けれど貴族たちからの反発は物凄く、フレンダの才能の使い道を誤った王家は、想像以上の批判にさらされた。
王家としてはそのような背景もあり、トムソンの進言もあって公爵家のお荷物であるアルメリスともども、山上の厳しい環境で、貴族としての礼儀を鍛え直すことを打診して来たそうだ。サンドラは口元を押さえて瞳を揺らしたが、やがて俯いて小さく頷いた。
「あの子をこれ以上この家に置いておくと、フレンダ様に被害が及びます」
「もう及んでるんだがな。父上、厳しくした方がいい。ありゃ重症だ。自分の都合が悪くなると全部フレンダのせいにする」
「……分かった。サンドラがそう言ってくれるなら、陛下の提案に賛成の意を示しておく」
こうして、アルメリスはすぐに学院を退学させられ、ヴァナージと婚姻を無理やり結ばされて、領地へと強制連行された。ヴァナージ王子は子爵位を賜るということもあり、子は市井に下る可能性が高いため、王家の血が洩れぬように、子を作れなくしてから放逐されるようだ。
実質的な、辺境への追放である。アルメリスにも名誉棄損と偽証が適用されて、罰としてヴァナージ王子に生涯寄り添うことを申し付けられた。離婚も再婚も許されず、逃げようものなら直ちに捕縛し、罪を重くすると脅されたうえで、人がほとんど来ない辺境の地へと送られていった。
最後まであがこうとしていた二人だが、フレンダの顧客は、二人が想像していた以上に広かったのだ。二人の振る舞いを疎ましく思った力ある貴族たちが、逃げ道を全て踏みつぶした。結局、逃亡を企てて捕まった二人は、山の上では生ぬるいと言われ、閉ざされた島で、更生を目指して厳しい指導を受けることになったそうな――。
◆◇◆
「結局さ、愛嬌は信用に勝てないんだよ」
トムソンは、タウンハウスのふかふかのソファの上で、そんな言葉をつぶやいた。書類を整理し終えて、その正面に腰を下ろしたフレンダは、困ったように微笑んだ。
「驚きました。アルメリスが、わたくしを悪者にしようとしていたなんて」
「いや今更そこかよ。ほんと、フレンダはあいつらに甘かったよな。後妻と連れ子なんて放っておけば良かったんだ。優しくするからつけあがる」
「まぁ……彼女たちはある意味で被害者ですよ。悪いのはお父様なのですから」
それに、とフレンダは続ける。
「お義母様はご立派に公爵夫人としてのお役目を果たされていますわ」
「それは意外だったよ。一体どんな手を使ったんだ、フレンダ」
「打算的であったのは確かだと思います。ですが、公爵家を守り、栄えさせるためには、お義母様にも協力いただいたほうがいいと思ったのです」
その言葉に、トムソンは確かに、と頷いた。国一番の娼婦であった義母の齎した美容革命は、今や貴族の夫人たちの熱い支援を受けている。娼婦を夫人に召し上げた悪評を、徐々に盛り返している。その努力は評価に値すると思い、トムソンは愛妾を「義母上」と呼ぶようになったのだ。
トムソンはフレンダに聞こえないほどの小さな声で、ぼそりと呟いた。
「そういう意味では、あのバカ王子に妹をくれてやらないように、あの女も役には立ってくれたか」
「お兄様? 何か仰いまして?」
「いや、何でもないよ。けどあの女、何かに付けてお前を悪者にして、俺に取り入ろうとしてたんだ。フレンダがそんなことするわけないって分かってんのにな」
「それは、お兄様からわたくしへの信用ですか?」
「ああ。お前が異母妹ごときに嫉妬したりするかよ。愛人がいても、母上との折り合いが悪くても、父上はお前にはべったりだったもんな」
エスポワール公爵の浮気は確かだったが、フレンダを邪険に扱っているところを見たことがなかった。フレンダは甘え上手で褒め上手だったからか、父親は早々に陥落していたように思う。フレンダの凄いところは、それが恐らく無意識であるところなのだ。
今更後から入って来て、明らかに下心見え見えで陥落させようとしても、天然物には敵わない。父も兄も、それゆえにフレンダへの信用を覆すことはなかった。
それどころか、フレンダを陥れてその立場に成り代わろうとする厚かましい異母妹をトムソンは疎ましく思っていた。それゆえに少し手を回して、あの問題のある王子の背中を押してやれば、簡単に動いてくれた。ただまぁ、世間知らずの王子と我儘娘を相手に、フレンダの独壇場だったようだったが。ヴァナージに高い爵位を与えることを良く思っていなかった協力者はたくさんいたし、あの異母妹がヴァナージに取り入っていたのは知っていたので、フレンダには一切知らせずに、少し謀ってみればあの有様だ。
「偽証の立証の時にも、皆お前のためならって、時間を作って証言をまとめてくれたらしい。これも、お前が今までに積み重ねて来た信用、だろうな」
「まぁ、本当ですか? でしたら、ホームパーティーを開かなければ。ちょうど、とても大きくておいしいお肉が取れたと、精肉店から連絡があったの。お時間を取らせた皆さまを招待したいから、お兄様、手伝ってくださる?」
「まったく……いいよ」
こうした、一人一人への気遣い。それらが、フレンダへの「信用」となるのだ。
「信用というのは、本当に大事ですね。わたくし、やっとお母さまが仰っていた意味が分かりましたわ」
「母上の? 何言われてたんだ?」
「フレンダは将来苦労するから、人からの信用を大事になさいって」
そう告げてにこりと微笑むフレンダ。トムソンは冷や汗を流しながら、天国にいる母に想いを馳せた。
(やっぱ母上はすごい人だよ……)
実の娘のことをよく分かっている。お人よしのフレンダが、貴族社会で生きていくために一番必要なものが何だったのか。
フレンダは今後も、人に親切に、人と誠実に向き合い、信用を重ねていくのだろう。そう思って、トムソンはリストを作成し始めた。
――その後、隣国の王家にも近い公爵家嫡男からのプロポーズを受け、エスポワール公爵家の利となると判断するや否や「喜んで!」と受けたフレンダ。兄を始めとした周りの人間たちは、その公爵家嫡男が持っていたちょっと変な執着を封印させるために四苦八苦し、東奔西走したのは、また別のお話。
読んでいただきありがとうございます。
誤字報告もたくさんありがとうございます。見直し甘くてすみません。
2022/01/16 15:00
最後の一文のとあるワードが、作者の想定とは違った受け取り方をされている方が多かったようなので、表現を変更しました。不愉快にさせてしまったならすみません。
2022/01/17 追記
たくさんの感想ありがとうございます。私自身、評価や感想を多数いただいてキャパシティを超えて来たので、いったん感想欄を閉じさせていただこうと思います。感想をくださった方も、評価をくださった方も、ここまで読んでくださった方もありがとうございました。