招待の座から男が飛び出し、壁の軍旗を引き落とした
マセラは良い話を聞かせて戴いたと、目を拭いながら感銘に耽っている。
すると隣で聞いていた兵のひとりが、酒壷を差し出して、お聞きしたいことがあると寄って来た。
「横から失礼致します。お話の中で恵枇タケル国主が死ぬ間際に、コウス皇子様に〝今より倭都タケルと名乗るがよい〟と宣言されたそうですが、その箔名は、どういった場で使われておられるのでしょうか。」
当然の質問だ。この箔名は魏の大帝から下賜されたもので、天皇の承諾と公への宣言がなければ、使うことが出来ないとコウスは答えた。
五
祝宴は佳境に入り、配膳や酌をしていた女人が出入口で一列に並び、軽快な笛の音に合わせて踊り始めた。
揃った手振りと足取り、美しい表情と仕草を来賓席から見入る。
しばらく踊りに魅了されていた漕手や、招待された者たちが真っ赤な顔で踊りに加わった。我流や見様見真似で、座の前方は大混乱になった。
すると突然、入口付近にいた背の高い男が来賓席の後方へ走り、奥の壁に垂れ下がっている纏向と倭台、兎農の軍旗を三旒とも引き落とした。
来賓席の兵が驚いて男を止めようと駆け寄ったが、その一旒を身体に巻き付けて踊りの中に入った。
驚愕したのはタルシとマセラだ。同時に立ち上がって男を追いかける。
「おい待て。何をするのだ、気でも違ったのか。」
二人で捕まえて床に押し付けると、笑っていた男の顔が真顔になった。相当酔っているようだ。
マセラが身体に巻いた昇り旗を剥ぎ取り、首を押さえる。
タルシは急いで来賓席の後ろへ行き、引き落とされた他の昇り旗を大事そうに畳む。
「畏れ多くも、一都二州の軍旗を引き落とすとは無礼千万な奴。おのれは何処の者だ、この目出度い席に恨みを持つ間者か。」
目を剥いて怒鳴るマセラの形相に、男は抵抗せずその場に正座する。
賑やかだった踊りは止み、静寂が集合舎に満ちる。凱旋隊は事の次第が分かるまで、席に座ったまま見つめている。
出入口の隅で、大勢の兵に囲まれて怯えている男に、尚もマセラの怒鳴り声が響く。
「名を名乗れ、誰の指図でこのような謀反を起こした。正直に答えないと命はないぞ。」
謀反を起こし命はないと聞いて、震え上がった男は額を床に擦り付けて、泣きながら叫ぶ。
「あちきは臼拇で屋根を葺く茅を作っているアメイの息子で、クロマと申します。父は足を怪我しているため、あちきが代理で参加させて頂きました。決して謀反とか、間者とか、そのような者ではありません。」
酒に酔った勢いもあったが、祝いの場を盛り上げようと考え、行動したことが命に係わる重罪になったとは……。クロマは恐怖に怯え、命乞いをする。
「臼拇では祝いで白い布を身体に巻き、頭に被って踊る習いがあります。皆様に楽しんで貰おうと布を探していたところ、前に旗がありましたので、ちょっと拝借しただけなのです。まさか軍旗だとは知らず、申し訳け御座いません。どうか、どうか、お許しを。」
臼拇のアメイは腕利きの茅葺き職人で、タルシが招待したひとりだ。
アメイの怪我の事も、代理で息子が出頭する事も聞いていたが、息子の顔に覚えはなかった。
「アメイは、よく存じております。倉庫、兵舎、民家などの建造・修繕で広く活動しており、使用人が十人を超える大家です。その息子がこのような無礼を働いたのは、招いた某の失態です。すべての責は、このタルシが負いますので、何卒アメイの息子に罪を被せないよう、お願い申し上げます。」
せっかくの祝宴が、ひとりの無謀な行為で台無しになった。コウスは隣のシモンに目で合図して、立ち上がった。
「マセラ首長、タルシ首長、そして集まりの諸氏。この騒動は招待された工職人が、軍旗を壁飾りと勘違いし、良かれと思って成した戯事である。当人は正直に話し、深く反省しておるので、我々は不問にしても構わないと考える。諸氏の考えは如何であろうか。」
シウリ当代が手を上げ、凱旋の皆が構わないのなら、許してはどうかと発言した。
「軍旗を引き落とす行為は、本来なら許せない重罪でありましょう。だが施政者や兵でなく、一介の工職人の無知による失態であれば、責任を取らせるには重いと存じます。コウス皇子が仰られました戯事と捉えてやり、免責で良かろうと考えます。」
他の者も同感し、男が身体に巻き付けた軍旗が、どれであったかは伏せて許すことになった。
「有難うございます、コウス皇子様は命の恩人です。皆様にも感謝申し上げます。」
六
祝宴は予期しない騒動によって、わずか一時足らずで幕を下ろした。招待者は凱旋隊に祝辞と挨拶をして、帰途についた。
タルシとマセラは、男がアメイの息子本人であることを確認するため、臼拇へ一緒に出た。
招待の座に誰もいなくなった集合舎は、女人が黙って片付けをしている。
「後味の悪い祝宴になったな。だが騒動を仕掛けた張本人が、工職人で良かった。」
血なま臭い事件にならず、小さな騒動で済んだとコウスがつぶやくと、隣のシモンも安堵した声でつぶやいた。