農民を護り戦いも勝利に、だがカカミ国主は逃亡 一
「今だ。」
エノカの槍の穂先が伸びたように見え、大男の胴巻に刺さって深く潜り込んだ。
大男は手の棍棒を離し、胸に刺さった穂先を見つめ、槍の穂先を両手で掴んだまま、仰向けに地面へ落ちた。
長さ一丈の槍が、血にまみれた男の両手から天空を指し、大きく揺れる。
十六
エノカは槍をそのままにして身を翻し、王に一礼して隊列に戻った。熊曽の兵は力なく跪き、倭都の兵は拍手を送る。
占拠した王宮から勝負を見守っていた倭台と兎農の連合隊が、一斉に勝鬨を上げた。
「隊長どうしました、その手の血は。」
拍手しながら迎えた兵のひとりが、エノカの左腕から中指を伝って、血が滴り落ちていることに気付き、手を口に当てて小声で聞いた。兵は大男の返り血だろうと思っていた。
「お、本当だ。痛みはないが。」
左腕を見ようとするが、肘が曲がらない。不思議に思って指を曲げようとしても曲がらない。垂れ下がった左腕が動かないことに狼狽したが、落ち着いた口調で兵に救護隊を呼ばせた。
救護隊がエノカを運び板に乗せ、左腕を見ると陣羽織の袖が横に切れていて、土汚れがある。袖を切り裂いた医師のサイマが目を剥いた。二の腕に石の欠片が刺さっているのだ。
「ひどい怪我です、骨まで届いてなければ良いのですが。手当を急ぎましょう。」
「棍棒を交わした時か、まったく気付かなかった。」
いつも冷静なエノカでも、怪物に等しい棍棒使いが相手で、さらに王と倭都軍の名を汚さないために極度の緊張状態だったのだ。エノカは運び板の上で仰向けになったまま、六人の救護隊員によって兵舎へ運ばれた。
「見ている某の足が震え申した。もの凄い戦いでした。」
熊曽の王宮を抑え、珍しい一対一の対決だった神殿も決着した。
日は西の空で紅く輝き、連山に沈むところだ。戦いは終わったが、カカミが見つからないと、捜索班の報告が次々に舞い込んでいる。
「カカミを捕えないと、熊曽討伐は終わらないぞ。日が暮れるまでに、何としてでも捜し出せ。」
王は捜索係を二倍に増やし、他の全兵を王宮で最も広い宴の間に集めた。
熊曽の残兵は裏庭に正座させ、一人ずつ踊り場の横に連行し、カカミの行方を尋問する。どんなに痛め付けても知らないの、一点張りで埒が明かない。
十七
「つい先ほどまで、王宮の上階にいたそうだが。その後は誰も見ていないようだ。」
「どうやらカカミは、この山のどこか奥深くに逃げ隠れたようですな。兵は疲れておりますし、すぐ暗くなります。これより上に入るのは危険なので、今日は引き上げ、明日改めて捜索してはどうでしょうか。」
隊長コレイの提言に、王はうなずく。カカミ国主は形勢が危うくなったところで、側近を連れて早々に逃げたと推測した。
翌日に改めて捜索しても、遠い昔に火を噴いていた山だ。洞窟が無数にあり、見つけるのは不可能だろう。
「もう良い、熊曽討伐は終わった。逃げたカカミは捨て置け。」
日は沈み、周囲の山々が黒い影となって連なり、眼下の火良集落に十本を超える篝火が見える。
倭都軍の勝利を聞いた当代シウリが、王宮の正門から男衆と婦人たち五十人を引き連れて水と食べ物を持参した。
戦勝の祝詞をシウリが挙げ、火良の男衆救済についても長々と感謝の意を述べた。
笠台からも大勢が到着し、荷ぞりで多量の食べ物や酒を運び上げ、兵たちに配って回る。
ここは王宮の宴の広間。行灯が数多く立ち並び、奥の座中央にマキム王、右に兎農のセラム大将、左に倭台のハル・サイマ帝が並んで座っている。
広い宴の間だが、各軍の側近や要兵の連座で埋まった。入り切れない兵は中庭に座った。どの顔も、討伐を成した安堵の表情が見て取れる。
「熊曽の三倍もの軍勢を擁したが、朝の暗い時分から日没までかかった、長い戦いだった。かくも戦いとは無慈悲なものだが、兎農、己実、そして倭台、それぞれの連携と勇敢な行動で、西国一の武力を誇る熊曽討伐を成し遂げた。改めて皆に礼を申し上げる。」
王は固い表情で、感謝と労いの言葉を述べた。それは多くの犠牲を伴った上での勝利だったことと、カカミを捕え損ねた、苦しい心境が伝わってくる。
民が差し入れてくれた水や酒、食べ物を、一緒に戦った兵たちと味わった王。
考えてみれば、火良で出陣前の朝餉、茶と握り飯の昼餉しか腹に入れていなかったのだ。重い武具を身に付け、弓や槍、斧を手に走り回った兵たちに済まなかったと、心で手を合わせた。
王はこの地を去る前に、為すべきことを発声した。まず熊曽の砦をどうするか、そして今後の施政について、柱になる者を選んだ。
「これより熊曽の名を改め、倭南とする。まず王宮を取り壊して木材と石を使い、難和川に三橋を架ける。これは民の行き来を良くし、使えていない多くの土地を活かすためである。下の神殿は、新しい倭南政治のために改造し、戦さで指揮官として活躍した兎農の副将シイラと連隊長マスカ、倭台のカマチを政務官に任命し、ここに住まわす。奥殿は残して倭南の安穏を、民とともに祈る場とする。」