第2話 かの魔術師
シティ・グレイはまさに、この世の闇を体現したような場所だった。かつては道があったのであろう場所も、おそらくは生活廃棄物だろうが、確証はないし確かめたくもないような腐乱した死骸のように見えるゴミやら得体の知れない何かが詰まった箱やらただ単なる酔っ払いやらで埋まって塞がっている。というか人の亡骸らしきものが鉄製の杭で壁に打ち付けられている。どこからか漂ってきた悪臭が、臭ってくるなり、ユートの鼻をぶち壊そうとしてきた。この臭気の原因は……考えたくもない。鼻の奥の鈍い痛み(おそらく悪臭のせいだ)が、これからの立ち入りを拒むように鼻腔の奥を突く。堪らずユートは防護術式を展開して悪臭から身を守った。
こんな事をしている場合じゃない。一刻でも早くこんな悪趣味な辛気臭い閉鎖空間に居るという、かの魔術師見つけ出さないと、いつまで経ってもここから出られない。
「さてと、どこにいるかな」
辺りを見回すが、視界に入ってくるのは同じような住居らしきものだけで手掛かりは何一つとして無い。まぁ、そりゃそうだ。手掛かりは今のところ何もない。やはり地道に探すしかないか。しかしこんなに広い場所でたった一人を探すとなると一ヶ月近くかかりそうで気が引ける。それにこの場所は危険も多い。出来れば今すぐにでも戻りたい。
いや待てよ、僕には魔術があるじゃないか。せっかく地獄のような日々を過ごし、やっと習得した魔術。使わなければ意味がない。それにこの地形にこの状況、使うには絶好の機会だ。
ユートはふぅ、と息を吐くとゆっくりと瞼を下ろした。……やっぱりこれが一番早い。よし、と気合を入れるとユートは地面に手を触れた。
探知開始。ユートは身体に魔力を流すと、髪の毛の一本一本に至るまでの神経を集中させる。周囲の空気と自分が溶け合い、一体化するような感覚を覚える。集中、集中。イメージは音だ。自身の魔力を放出し、それは跳ね返ってまた別のものに弾かれる。手から伝わってくる確かな熱と肌が感じ取る空気感、生物の呼吸と魔力の流れを傍受し、脳内に周囲の地図を創り出す。
——地下、ここから然程遠くない場所に大きな魔力を感じ取った。
「…そこか」
ユートはその場所にいるのであろう、かの魔術師の元へと歩き出した。
そこにあったのは小さな扉だった。裏路地を通り更に人一人が脇道を通って小さな階段を下った所で、まず人の目にはかからない。隠れるにはうってつけだろう。ユートは小さな扉を前になぜか冷や汗をかいていた。何だろうか、この扉の向こうから不思議な気配を感じる。人間でも動物でもないような、得体の知れない恐ろしい気配を。
ここで尻込みしていても、きっと何も変わらないだろう。それにこれは任務だ、早急に遂行しなくては。ユートは意を決して扉を恐る恐るノックした。
「す、すみません、誰かいませんか」
返答はない。試しにもう一度ノックをしてみるがやはり何も返っては来ない。何回か扉を叩く内にゆっくりと扉が開いた。どうやら最初から鍵は掛かっておらず、簡単な施錠術式でしか閉じられていなかったらしい。
「私はモルトピリア帝国軍少佐ユート・サングレイスです。極秘任務遂行の為、この家屋に進入させていただきます」
帝国軍のマニュアル的な口上を述べた後、ユートは家の中へと入っていった。
家の中はまるで空き巣にでも入られたのか様々なものが乱雑に散らかされていた。目に入る引き出しはすべて開け放たれたまま放置されているし、床には何らかの魔術に関する研究書類や何故か割れて粉々になっている食器類やらで埋め尽くされている。俗にいう足の踏み場もないとはこの状況のことだろう。
ふと、近くにあったテーブルを見ると研究書類が置いてあった。手に取ってはみたもののどうやら古代文字で殴り書きされているらしく、全く読めない。
…コレ、古代の術式について書かれていたりしないだろうか、このまま持ち帰って分析したら失われた術式や大魔術について書かれていた! なんてことはないだろうか。それなら古代文字で書かれていることも、情報も、限定された人物にしか読み解けないし辻褄が合う。やはり本当に書かれているのかもしれない。だが、人の家に勝手に上がり込んだ挙句、中にあった物まで持って行ってしまうのは、帝国紳士としていかがなものか……
こんな馬鹿みたいな事に思考を奪われていたせいで全く気付かなかった。いや、気づけなかった。自分のすぐ後ろに人がいることに。
突然体の動きが重くなった。正確には重くなったというよりも動けなくなっていた。
しまった! 拘束術式だ! と気づいた時にはもう遅く、術式は既に身体の自由を掌握しきっていた。指の一本すら自由に動かせない、ユートは何とか逃れようと体を動かそうとしたが、動けなかった。
軍人として恥ずかしい…こんな状況、アガレスに見られたらどうなるか。目先の物事に気を取られ、本来の目的を見失った挙句、まんまと術式で拘束されてしまった。……いっそ殺してくれ。
「…これは傑作だな。かの帝国の少佐ともあろう人物が、住居に不法侵入した上、窃盗未遂とはな。それに挙句の果て、こんなチンケな術式にまではまってしまうなんてな。やれやれ、帝国軍は新兵の教育方針を改めた方がいいんじゃないか?」
自分の背後から降りかかってくる容赦のない言葉にユートは言葉に詰まる。何が悲しいって今聞こえたことがすべて本当ってことだ。あぁ、辞めようかな、少佐。
「…勝手に入ってしまったことは申し訳ありませんでした。任務遂行の為、必要なことだったんです」
「ならその任務やらについて話せ。別にいいだろう。それともなんだ? 極秘だから話せないか? でも、こんな状況で今更話せないってことはないだろう? さぁ話せよ。全部話すまで、この術式は解除しないからな」
厄介なことになってしまった。気のせいだろうか、先程よりも拘束が強くなっている気がする。どうやら本当に解除しないつもりらしい、ずっとこのままだと埒が明かない…今ここで話すか…? しばらくの間考えた後、ユートの脳は冷静に判断を下した。うん。話そう。
「…とある魔術師、シルヴィア・ベアトリクスという方を探しています。任務はその女性を母国モルトピリアへと護送することです」
言い終わった後、背後から息を吞む音が聞こえたと思うと、拘束が解けた。手足の感覚がゆっくりと戻ってくる。
「なんだ、私に用があったのか。それを早く言えよ、勘違いするだろ」
ユートは振り返ると背後の人物を見た。
綺麗な人だと思った。シンプルにそう思った、いや、思わずにはいられなかった。女性にしては高いと感じる長身、着こなされた赤と黒を基調とした男性用の軍服、少し癖っ気のある漆黒の長い髪、この世のものとは思えない程整った端正な顔立ち、こちらのすべてを見透かすかのような凛とした深海色の瞳。
「…もしかしてあなたが?」
「いかにも! 私は決してただの綺麗なお姉さんって訳では無い! 皇帝直属の最上位魔術師にして叡智の探究者、人呼んで"緋の魔術師、シルヴィア・ベアトリクスとは、この私のことさ!!」
…何故かシャキーン! という効果音が聞こえてきそうな程キメにキメ、慣れた動作で目の前の不思議な人物は名乗った。というか本当に音が聞こえてきそうだ。
どうやらこの女性が皇帝陛下直属の最上位魔術師の、"緋の魔術師" シルヴィア・ベアトリクス………………………らしい。