90.王女の白ばらと甘い香り
「あ……『待宵草』?」
それにしては少し花が大きい。それにさっき『お花畑』で採取したもの以上の輝きだ。
だけどその白色も形も確かに待宵草……。これ程の品質のものを一体どこで?
「うん。渡したい人が待っていてね? 早くここから出たいんだけど……」
そう言い彼は、私の正面で屈むと僅かに眉をひそめた。
「ねぇ、君って高位の錬金術師? 何か変わった物を持っているよね、胸の辺り」
「えっ」
お鍋を挟んで向かい側、胸元を指さされてドキッとした。ううん、ドキッというより何か……圧のようなものを感じたのだ。
「いえ、私は見習いで……」
胸に下げているのはイリーナ先生からもらった指輪。でも服の中だから見えないはずなのにこの存在を察知するなんて……この人、もしかして錬金術師か魔術師?
見た感じはランベルトさんと同年代に見えるけど、そのくらいの魔術師は各地で色々な仕事をすると先生が話していた。『だから引き篭もれる錬金術師の方が素敵よ』って麗しい笑顔で言っていたからよく憶えている。
あ、『連れとはぐれた』って言っていたけど、レッテリオさんとは別口で迷宮の調査に来た王都の人……ってこともある? たとえば王国魔術師団とか。丸腰に見えたけど、魔術師は杖を上着の内側に隠す人も多いって聞くし……。
「これは師匠から頂いたものです」
私は『守護の指輪』とは言わず、服の上から指輪を掌で押さえて言った。何となくだけど見せたくなかったのだ。
「ふぅん? ……まぁいいや。特に問題なさそうだし。ね、それよりさ、このスープ僕に分けてくれない? しばらくまともに食べてなくて」
「えっ、食べてなくてって……そんなに迷宮に?」
「あはは、うっかり閉じ込められてしまってねぇ。そんな訳で空腹なんだけど……駄目?」
「あ……いえ、えっと……」
多分、食料が限られている迷宮内において、簡単に食事を分けたり、ねだったりはタブーなんじゃないかと思う。それにこれはイグニスと作った携帯食だ。薬草も混ぜてあるし体力回復の効果が出てしまう。
本当はダメなんだけど、でも空腹の辛さは痛い程分かるし……。
ああそれに、こんな風に小首を傾げ、子犬のような目で見られては断り難い。立派な成人男性なんだけど、妙に綺麗だし仕草は可愛らしいし髪はふわっふわで何かいい香りがするし……!
「う~ん……じゃあ、一杯だけなら……」
「ありがとう! 嬉しいなぁ~君のスープの匂いに誘われてここに辿り着いたようなものだったからね!」
「えっ」
そんなに匂って……!? 困ったな……他にもお腹を空かせて食事を欲しがる人が出てきたらどうしよう? 匂いを遮断する魔道具……風の精霊の助けがあれば作れそうだけど……。
「さあ、早く食べさせて?」
「でも、ちょっとですからね? それと、他の人には秘密にしてくださいね?」
味見用のカップによそって差し出すと、彼はやけに嬉しそうに微笑み頷いた。
「うん……甘美な味だね。ふふふ、温まってきた」
スープを平らげた男はペロリと唇を舐め、私に向かって微笑んだ。
まずい。やっぱり体力回復のポーション効果があっという間に出てる……! 青白かった頰もほんのり薔薇色に染まっている。
「お、お口に合ってよかったです」
「うん、予想以上に美味しかったよ。……ところで君の髪、綺麗だね。地毛?」
「えっ、はい。そうですけど……」
――突然何だろう。
ルルススくん……まだ素材に夢中なのかなぁ? 気付いてこっちに来てくれないかな……。
「いいね」
それにやっぱり、彼が微笑む度にふわぁっと花のような香りがする。
――待って。迷宮に閉じ込められていた人が、良い匂い?
ドキ、ドキ、ドキ、と。私の心臓が少しずつ緊張の音を高めていく。
だって、違和感だらけなのだ。この人。
「で、でも、あなたの薔薇色の髪もキレイだと思いますよ?」
そう。髪も服も肌も何もかも、綺麗すぎる。
それからやっぱり感じる圧。これは彼から発せられていて――多分、イリーナ先生の指輪が微妙に反応し、反発している。排除まではいかないけど注意ってことだろうか?
「……本当に?」
急にきょとんとした顔を見せ、彼が目を瞬いた。
「え? はい。だってそんなに綺麗な赤から薄ピンクのグラデーション……なかなか見ませんし」
私の大好きなイグニスみたいな色だな~ってずっと思ってたのだ。イグニスとお揃いのそんな色、綺麗に決まっている。
「そう。そっか……」
ポツリ、ポツリと納得するように呟くと、その薄桃色の毛先を指先でくるくると弄び、そしてにっこりと微笑んだ。
「僕はこの髪色気に入ってなかったんだけど……褒めてもらえて嬉しいな」
零れる様な笑顔とはこの様な笑顔をいうのだろう。あわせて香る、甘い花の香りも増して感じる。
「ね、これを君にあげる」
そう言って彼は、唯一の持ち物の『待宵草』を私に差し出した。
「受け取って?」
「あの、でもこれ、渡したい人が待ってるんですよね? 私がもらう訳には……」
この時期の『王女の白ばら』はむやみに男の人からもらってはいけないのだ。さっき会った採狩人の男性も「自分の手からは渡せない」と言っていたし、ヴェネトスではきっと、貰うのも渡すのもそういう意味になってしまう。
「いるけど、君にも渡したいなと思って」
「えっと……私、他の方からもう頂いていて……」
「そうなの? でも、僕からの花も受け取ってほしいな」
ブワッと、また花の香りが舞う。
これ、彼の『王女の白ばら』の香り……? すごい……、クラクラするくらい強くて甘い香りだ。
「閉じ込められた場所で採った特別な花なんだ。きっと僕しか持っていないよ」
「……でも」
見ただけでも分かる。これ、すっごい高品質だ……! 貰えるなら欲しい……素材として、すっごく魅力的ではあるけど……。
「気にしないで? これは僕からの……そうだな、お礼。君の美味しいスープが気に入ったから、そのお礼として白ばらを渡すんだ」
そう言って、彼は王女の白ばらを短く折って私の髪にそっと挿した。
「っ!」
棘だろうか? チクッと何かが首筋をかすめ、一瞬肩を震わせる。
「ああ……やっぱり銀の髪には白ばらがよく似合うね。とても素敵だ」
「あの」
「……もう行かなくちゃ。ご馳走さま、銀の髪の錬金術師さん。またね」
急に立ち上がったと思うと、彼は微笑みと香りを残し転送陣へと消えた。
「あの人……何だったの?」
格好だけじゃなくて、言動もちょっと怪しいっていうか浮世離れしてるっていうか……。とにかく何者なのか、何を考えているのか全く分からない人だった。
「……どうしよ、これ」
そうっと、髪を飾る白ばらに触れてみた。重い程の甘い香りがしている。
さっきは彼の香りなのかと思ったけどやっぱりこの花だったんだ。あ、何層で採取したのか聞けばよかった……! あ、でも初対面で採取場所を聞くなんてマナー違反か。
マナー違反といえば……。
「やっぱり貰っちゃったのもマナー違反だったかなぁ……」
レッテリオさんから白ばらを貰っているのに。
あのキラキラとした『王女の白ばら』を思うと、なんだか心がモヤモヤとしてしまう。
「……」
「にゃにゃー!? なんの香りにゃ!?」
「ルルススくん!」
天幕の入り口を開き出てきたルルススくんが、鼻を摘まみ駆け寄ってくる。
「これにゃ! この白ばらにゃね!? どうしたのにゃこれ!」
「えっと……貰っちゃって……」
「んにゃー!? 誰にゃ! その人間どこにゃ! この白ばら、ルルススも欲しいにゃ!」
そっち……! やっぱりルルススくんにとっては『王女の白ばら』じゃなくて『待宵草』なんだね! 分かる……!
◆
「――で、もう行っちゃったの」
私はあの人のことをルルススくんに話した。
「残念にゃ~……でもその人ちょっと怪しいのにゃ。アイリスは警戒心が足りないにゃ。もっと猫のように慎重に警戒しにゃいと危険なのにゃ!」
「はい」
「あとスープもあげちゃうの迂闊にゃ。次からはルルススを呼んでにゃ? ルルススは他にも食料を持ってるにゃ」
「……はい」
そうだよね。
こうやって話していると、どうしてさっきルルススくんを呼ばなかったのか、どうしてあの人の言う通りにスープを食べさせてしまったのか……。よく分からない。
それに、この白ばらもだ。
やっぱり――なんだか、気持ちが重い。
どうして言われるままに、髪に付けさせて、そのまま受け取ってしまったのだろう? そりゃ素材として魅力的ではあったけど……。
「アイリス、その白ばらは早く髪から外した方がいいのにゃ。きっとしばらく髪に匂いが残っちゃうのにゃ」
「あ、そうだね」
「アイリスは本当に迂闊にゃ~」
「そ、そんなに何度も言わなくても……! 私だってどうして貰っちゃったのかなぁ~って思ってるんだから……!」
「そうにゃか? まあ、ルルススもにゃんで気配に気付かにゃかったのかにゃ~って思うんにゃけど……?」
二人で首を捻りつつ、私は髪に挿した白ばらをそうっと外しスライム容器に収納した。
◆
そしてその夜半過ぎ。天幕で休んでいた私とルルススくんの元に、イグニスがパッと姿を現した。
「た~だいま~! アイリス~ぼくお腹すいた~!」
「にゃっ、びっくりしたのにゃ」
「……っ、イグニス!? お、おかえり! 怪我はない? あっ、レッテリオさんたちは?」
「ふふ~みんなも今くるよ~!」
イグニスの言葉通り、程なくしてレッテリオさんたちも帰還した。
天幕の前でみんなを迎えた私は、その無事な姿にホッとし胸をなでおろす。レッテリオさんにも、ランベルトさんにもバルドさんにも、大きな怪我は見えない。
「おかえりなさい! スープ用意してありますけど、食べますか?」
「ただいま……」
と、レッテリオさんが眉を寄せ、辺りを見回した。
「……妙な匂いがする」
「気配もだな」
「何かあっただろう、アイリス」
三人の言葉に心臓がドキリと跳ね、ルルススくんと顔を見合わせた。
そして私たちの視線はスライム容器――あの白ばらへ。一応みんなに報告しようと思いリュックから出しておいたのだ。
「アイリス、その花は?」
「あの……えっと、もらい……ました」
その瞬間、レッテリオさんが深く微笑んだ。
「……へぇ。なるほど」
「あの、違うんです! これはただのお礼として半ば強引に……!」
「お礼? 誰か来たのか?」
バルドさんが周囲に警戒を走らせ、低い声で言った。