86.第三十五層・地図
「ここは俺が騎士として最後に戦った場所でな。泉はその時に枯れたんだ」
「……ッ、ここ」
「そうにゃったにゃか」
私は思わず息を呑んだ。
ここでバルドさんはあの傷を負い、騎士を引退したのか。こんな風に聞いていいことだったのだろうか? それにバルドさんは、ここに来るのは辛くはないのだろうか?
干上がったという泉よりもそのことが気になって、私は言葉を続けられずただ地図を見てしまう。
……と、地図に不自然な歪みがあることに気が付いた。
「あれ? この地図、描き直されてる?」
「迷宮の異変で『神殿』が小さくにゃったんにゃか?」
「ああ。あれが最初の異変だった。その時ここに居合わせたのが俺とランベルトだ。過去のことだがあまり怖がらせたくないから詳細は省くが、まず異変が起き神殿が崩れた。そして岩肌むき出しの洞窟になったと思ったら、その魔物が現れたんだ。正直死んだと思った。なぁ?」
「思いましたね」
ランベルトさんは苦笑で頷き、続きを話す。
「その後ここはしばらく封印されて、調査に入った時には神殿は三分の一程になっていた。『泉』もその他の採取場も消し飛んで、残ったのは『お花畑』と『薬草園』だけ。それからも異変は断続的に続き、一年後にレッテリオが来た時には神殿が半分以下になっていて、今に至る……という感じだな」
「そうなんですか……」
こんな変異ってあまり聞いたことがない。それこそお伽話の中のことだ。そんなことが起こるこの迷宮って――……一体なんなんだろう?
そう思いちょっと黙りこくっていると、視界の隅でイグニスの尻尾が「ぴぴっ、ぴぴぴっ」と小刻みに揺れていた。
「どうしたの? イグニス」
「ん~……なんか~ここ、ムズムズするんだよねぇ~?」
「ムズムズ?」
私たちは顔を見合わせた。そして私たち人間の視線はケットシーであるルルススくんに。
「にゃ、ルルススはにゃんともにゃいのにゃ。採取に行きたくてウズウズしているくらいにゃ!」
言葉通り、ルルススくんの尻尾は「ピピッ、ピピピッ!」と待ち切れなさが溢れ元気に震えている。
「……あ、ほんとだね。ねぇイグニス、急になの?」
「ん~ん、ここに来た時からで段々ムズムズがつよくなってて~……ん~なんだろ~?」
イグニスは、ん~ん~~? と唸り、そして「あ、わかった~!」と言うと、尻尾を反応したダウジング棒のようにピーンと立てた。
「ぼくじゃない炎の精霊の気配があるかんじぃ~!」
「誰かが連れて来てる子? そんなに気になるの?」
「ん~ん! 違うよ~ここにいるんだと思う~だって背中がムズムズするんだよ~」
ここ? 三十五層? この迷宮に?
「炎の精霊か……。あり得るな」
「え?」
バルドさんは傷を撫で言った。
「炎竜だった。俺がここで遭遇した竜は炎を纏っていた」
「えっ……炎竜って……!!」
竜種、それも炎竜なんて滅多に現れない魔物――というか、炎、水、風、大地の四大要素を持った魔物は、魔物なのか精霊なのかの判断が難しい。むしろ境目のない存在だ。
「炎竜は炎の精霊の眷属だったり、そのものだったりするだろう? イグニスがそう言うならば……アレは炎の精霊そのものだったのかもな。勝てなくて当然だ」
「副長は準備さえあれば勝てたと私は思ってますけどね。その傷だって……部下たちを逃がすためだったじゃないですか」
「……有り難いが、言い訳だな。厄災に出会う準備なんて誰にもできないもんだ」
◆
「話しを続けようか。次に我々の行動予定を確認する」
ランベルトさんは再び地図を広げた。今度は一枚の紙に二層分が描かれている。これを見る限り、次の三十七層はここよりも狭そうだ。で、三十八層はまだほとんど白紙。
「現在到達している最深部は三十七層。まぁ……ちょっとおかしい場所なんだが特に危険はない。そして次の三十八層。ここが迷宮の底だと予想されている。本日一日目は、三十八層の様子を把握してくるのが目標だ。様子が分かったら翌日は迷宮核の探索をイグニスにお願いしたい」
「ん~……がんばるよ~! マントももらったし~!」
きっと本当は気が進まないのだろう。声の調子がなんとなくやけくそ気味だ。
「イグニス、大丈夫? 他の炎の精霊の気配……嫌なんでしょう?」
「ん~……嫌ではないよ~。でもなんとな~く落ち着かないかんじ~」
「協力できるところまでで構わないよ、イグニス。無理はしないでほしい」
「うん~! ありがと~レッくん~」
「私たちが戻るのは早くて深夜、多分戻りは朝になると思う。だからアイリスとルルススくんは二人での野営になるが……大丈夫かな?」
「はい!」
「任せるにゃ! ところで説明はこれで終わりにゃ? ルルススは早く採取に行きたいのにゃ!」
その言葉に、少し緊張していた天幕内に笑いが零れた。
◆
私とルルススくんは、早速採取に出かけることに。ルルススくんは私がリュックを背負い直す時間すら惜しい様子。
「アイリスー! 早く行くにゃ!」
「待ってルルススくん! 地図の転写がまだ……!」
私は杖とイグニスの手伝いを借りて、通称中庭の『お花畑』までの道筋と、対になっているもう一つの採取地『薬草園』までもを写していた。
イグニスの魔力を地図とその上に重ねた紙の二枚に流してもらい、そこへ私の魔力を流した杖で【転写】の陣を描くのだ。するとあら不思議! 赤いイグニスの魔力が紙の上を滑り、焦げが地図を炙り出した。
「採狩人で『お花畑』は混みあってるかもしれないが気を付けてな」
「はい! さっきの人たちってみんな『お花畑』なんですか?」
「この時期だから多分そうだろう」
ランベルトさんは地図を仕舞い、何故だか笑う。
「俺もあとで採りに行くかな」
「バルドさんが? よかったら私が採取してきますけど……」
「いや、これは自分で選んで採ると決めてるんだ」
そう言ってバルドさんも口の端で笑う。なんだか随分優しい笑顔に見えるけど……?
「それじゃ採取に行ってきます! イグニス、探索頑張ってね!」
「は~い! アイリスもがんばってぇ~!」
「これ地図にゃね! ルルススが先に行くにゃ!」
待ち切れなかったのだろう。ルルススくんが一瞬の隙に私の手から地図を取り、四つ足を付いて走り出した。本気の全速力だ……!
「ちょっ、待って! ルルススくん! 嘘でしょ!? 早っ!」
「あ~……ルルススってばぁ~」
「……イグニス、地図の転写もう一回やってもらっていいかな?」
魔力も気力も消費するんだけど仕方ない。地図なしでこの『神殿』を歩ける気がしない。だってどこもかしこも真っ白の、特徴のない柱と壁なのだ。探索隊が付けた目印を地図と照合しながらでなければ、簡単に迷ってしまうだろう。
「アイリス、俺が案内するよ」
「レッテリオさん。でも……」
早く出発したいのはレッテリオさんたちも同じなのでは? とランベルトさんとバルドさんを見ると、今度はニヤニヤと笑っていた。
「我々はちょっと打ち合わせをしてようか。イグニスに聞きたいこともあるし」
「行ってこい」
「くふふ~」
快く送り出してくれたのは助かったけど……イグニスまで、一体なに笑ってるんだろう?
「本当に、意外と人がいるんですね」
レッテリオさんと連れ立って歩くその前方には、チラホラと採狩人の姿が見えていた。私たちが天幕にいる間にも転送陣で来た人たちだろう。こんな深層、潜るのはよっぽど腕に自信がある採狩人とか騎士団の人だけだと思っていたから、ちょっと驚きだ。
「うん、今の時期はね。それにここだけなら危険はないから人気ではあるんだ」
「『白の神殿』でしたっけ」
「そう。面白いだろう? ここだけなんだけどね。この結界石の神殿が途切れた場所から急に空気が変わるから、アイリスは絶対に『神殿』を抜けないように」
「は、はい」
普段柔らかい口調のレッテリオさんが、こんな命令口調で言うときは絶対だ。
「ちなみに奥にはどんな魔物が……?」
「んー……上級の魔物で凶暴な獣系が多いかな。あ、スライムも出るよ」
「えっ、スライムも?」
「うん。猛毒で上級薬を使っても腕が落ちるくらいのと、ひどい火傷になるやつ」
「うわぁ……」
怖すぎる。私は絶対に行っちゃいけない所だ。
――でも、そんな魔物がいる場所にレッテリオさんは行くんだ。イグニスも。イグニスは精霊だから、いざとなればどこにでも逃げることができるけど……。
「アイリス? 大丈夫だよ? ここは安全だから」
「……レッテリオさんは大丈夫なんですか? 怪我しませんか? 腕、落としたりしないでくださいね? 今日は私、調合セットも持ってるし、ルルススくんもいるからきっとすごい薬も持ってるだろうし――」
「アイリス」
むぎゅ、っと。
見上げた角度で、両の頰をその手で包まれた。
「心配いらないよ」
ちょっと首を傾げて、なんだか困ったような少し笑っているような、よく分からない顔をしたレッテリオさんが私の顔を覗き込んでいた。