124.先生
ああ、そういえばイグニスはどこだろう?
窓に目をやったら、薄いカーテン越しの空は茜色に染まっているようだった。イグニス……もしかしたら私が深く長く眠ってしまったせいで顕現が解けてしまったとか?
私はペネロープ先生に抱き締められたまま、ソワソワする気持ちで枕元を探す。まだ眠っているのかとも思ったけど、イグニス専用ベッドにその姿はない。
「あの、先生、イグニスたちは……」
「ああ。そうでした」
先生はほんの少し頬を赤らめて、私を抱き締めていた腕をゆるめると、ゆっくり私を起き上がらせた。
「あ、レッテリオさん……!」
先生の後ろで苦笑していたレッテリオさんと目が合った。
「おはよう、アイリス。……目覚めて本当によかった」
「レッテリオさんも……! あっ、怪我は大丈夫ですか?」
ぼんやりとだけど、レッテリオさんが蹴り飛ばされていたのを憶えている。
「うん。大丈夫」
その返事にホッとした。確かに服は汚れているけど大きな怪我はなさそうだ。
だけど――と、私は改めて部屋を見回した。やっぱりイグニスやルルススくんの姿が見えない。
「アイリス、あなたを目覚めさせるために彼も協力してくれたんですよ。まったく、クレメンテの弟らしいわ。まだ自分だって本調子ではないのに無茶を言って……」
そういえば夢の中でクピドが『番人か……』と言っていた気がする。やっぱりあの風はレッテリオさんだったんだ。それじゃああの蔦はペネロープ先生だろうか? もしかしたレグとラスかなと思ったのだけど……。
「先生、それでイグニスは……? それからルルススくんやレグとラスと、あと……」
「アイリス、落ち着いて。みんな無事だよ。イグニスとルルススくんは街にいる。レグとラスは君を目覚めさせるために森の守護樹の元へ行っている。きっとすぐにこちらへ戻ってくるよ」
「よかった……! みんな無事なんだ……。あっ、そうだ私いま眠ってる間にクピドと色々話したんです! 炎が使える理由とか色々……!」
「クピドと話を? どんな――」
「お待ちなさい、アイリス。その話は皆が揃ってからにしましょう。その前にあなた体調は大丈夫なの? 【魅了】や【催眠】の効果が本当に抜けているのかを確認しなければなりません! もう少しベッドにいなさい! 今測定をするから……ああ、あなたはちょっとそちらを向いていなさい」
先生に止められて私はベッドに留まり、レッテリオさんは先生の指示通り視線を壁側へと向けた。
「この石を握って。それから少し襟元を失礼……」
先生に渡されたのは大きな透明の魔石だ。そして先生は不思議な手袋をして私の首筋に掌を添えた。
「ん? 魔石が熱い……」
「黙って。…………あなた、よく戻れたわね。まったく……手を開いてごらんなさい」
そう言われて手を開いてみると、握り込んでいた透明の魔石が濁った紅色と黄金色とに染まっていた。
「わ」
「はぁ。まだ、そのクピドという精霊が掛けた【魅了】や【睡眠】は抜けきってないようですね。この魔石は影響を受けている魔素を測定できるのだけど……ここまで染まっている状態は『魅入られている』と言えるほどよ」
『魅入られている』の言葉に一瞬身が震えた気がした。クピドが一度私たちを見逃したのは……完全に私を手に入れる自信があるからなのだろうか。
「……こうなってしまったなら仕方がありません。全力でその精霊の企みを阻止しましょう。二人とも、もういいですよ。計測は終わりです」
先生がパンと手を叩き、振り向いたレッテリオさんと私の目が合った。レッテリオさんは何か言いたげな渋い表情をしているけど、先生に遠慮しているのか無言のまま。
そして私も……そういえばレッテリオさんとは、数日前の話し合いのときに気まずくなってそのままだったのを思い出す。
お祭りの広場ではあんな状態だったから、そんなことも忘れて普通に接していたけど……。
思い出してしまえばやっぱりどうにも気まずい。
それにもしかして、私が『魅入られて』しまったのも、レッテリオさんたちが迷宮から戻るのが遅くなったのも、私が迷宮でのイグニスの活動を断ったせいかもしれないと……ううん、影響がなくはないだろう。
あのクピドの炎の力と、それに対抗できたイグニスの魔石を見れば歴然としている。
「……」
「……」
私たちが黙りこくっていると、ペネロープ先生が小さく溜息を吐き言った。
「私が手を貸せる時間は限られています。さて、何から始めましょうか。ひとまずはアイリスはお風呂かしらね?」
「えっ? あ、私ちょっと焦げ臭い……?」
地面に膝を付いたり炎が燃える中にいたのだから汚れているのも当然だ。簡単に拭いてくれたみたいではあるけど、臭いだけはどうにもならない。シーツ類は全部洗濯しなくては!
「あ。あの、今更かもしれませんが……ペネロープ先生はどうしてここに……?」
「ああ。それはあなたが眠りに落ちた後、錬金術師研究院でイリーナが異変を察知したからよ」
「えっ? イリーナ先生が……?」
「ええ。……アイリス、今日は何の日か知っていますか?」
「え? 今日ですか……? えっと……?」
お祭りの他に何かあっただろうか? 私は机の上のカレンダーをチラッと見てみたけど特に何も書いていない。
首を捻る私を見て、ペネロープ先生はちょっと驚きつつも小さく笑って言葉を続けた。
「今日は錬金術師昇任式の日ですよ。イリーナが異変を察知した時は、丁度式が終わってパーティーに移動しているところだったのよ」
「ああ! そっか……!」
なるほど! 何かあったような気はすると思ったけど、昇任式だったのか。
お祭りのことや迷宮のことで頭がいっぱいですっかり忘れてしまってた。カレンダーに何も書いていないのも当然だ。だって私にとってはちょっと複雑な日だもの。
もし試験を受けて、もし私も合格していたなら。今日は一人前と認められる記念すべき日だったのだ。
……しまった。
同期の二人にお祝いの手紙も花すらも贈っていないじゃないか……! 私ったらうっかりがすぎる……!
いや、落第した同期からのお祝いなんて気まずく感じるかもしれないけど、でもやっぱり、三年を共に過ごした友人として二人に何か贈ってあげたい。
よし。このお祭りの騒ぎが収まったら、何かハトで送ろう!
「アイリス、あなたイリーナから守護魔石の指輪を貰っていたでしょう? あれにはイリーナの魔力とその契約精霊の分霊が宿っていて、守護していたあなたの身を守り、異変を知らせたのよ」
「あの指輪ですか……」
確か迷宮で初めてクピドに会った時、クピドはあの指輪の存在に気付いていたし、気にしていたように思う。
私は胸に下げていた指輪を慌てて取り出すが、鎖の先にあったのは指輪の台座だけ。大きな翠色の魔石は跡形もなく消えている。
「あれっ、どうして!?」
「アイリスが眠りに落ちた後、その指輪が弾けて街に結界を張ったんだ。そしてクピドを一旦退け、しばらくしてレグとラスが姿を現し俺たちの【眠り】を浄化してくれた。ただ、アイリスだけは目覚めなくて、どうしたものかと思案していたところに術師ペネロープが駆けつけてくれたんだよ」
「そうだったんですね……。ペネロープ先生、ありがとうございます」
「い、いいのよ。イリーナやクレメンテは立場上パーティーに出席しないわけにはいかないし、動けるのが私だけだっただけで、それに私の契約精霊はここと縁が深いから動きやすいと思ってのことですからね!」
ああ、そうだ。ペネロープ先生の契約精霊はレグとラスのお姉さんなんだっけ。先生がここで修行していた時からの付き合いなんだよね?
「レグとラスがいて驚いたわ。二人のおかげで私の契約精霊とも簡単に連携が取れたし、見習いハリネズミたちを使って街の救助班とアイリスを運ぶ班とに分けたのよ」
先生の話によると、イグニスの魔石を身につけていた皆は、動けなかっただけで眠らされてはおらずすぐに回復できたらしい。
そしてランベルトさん、コルヌ、バルドさん、イグニスは街の消火と救助活動を。カーラさんとルルススくんはハリネズミたちと一緒に負傷者の手当てをしているそうだ。
「イグニスはあなたの傍にいたがったけど、炎の扱いは炎の精霊が一番。それに何故かあの炎はイグニスの魔力と似た色をしていたから、アイリスが目覚めるまでは街での活動をお願いしたのですが――」
ペネロープ先生がそう言った時、カッと部屋に赤い光が現れた。
「アイリスぅ~~!」