122.クピドの迷宮
◆本日『見習い錬金術師はパンを焼く』2巻の発売日です!どうぞよろしくお願いいたします!
「こういうとき人間はお茶を出すものなんだよね?」
クピドが躍るように手を振ると、ティーポットをカップがその手に出現した。
まるで手品。ふしぎ鞄から出したり、魔道具を使ったりした気配はない。これ、一体どういう魔術なの?
「さあ、どうぞ」
そう言うと、クピドはティーセットを白い床に置き、その場に座って微笑んだ。
◆
「ねえ、アイリス? 君はどこに行きたい?」
「え?」
私の手にはティーカップ。いつまでも温かく、驚くほど香り高いお茶で満たされている。本当にギリギリまで入っていて、零してしまいそうで慎重になってしまう。それに、クピドに出されたものを飲むのも躊躇われて、持ったままになっていた。
「迷宮の底まで来たのだろう? どうだった? 迷宮の旅は」
「旅?」
「そう。僕が気に入った場所を足していったから、途中からは面白い旅だっただろう? ああでも、三層の玻璃立羽の泉は美しくて好きだな」
……どういうこと? 『僕が気に入った場所を足していった』って……それじゃまるで、迷宮をクピドが作ったみたいじゃない?
「私は転送陣を使ったから、あんまり沢山の階層には行ってないの。三層には行ったけど……あとは深層の神殿みたいな場所くらいしか。……ねえ、この迷宮はあなたが作ったの?」
「そうだよ。美しい場所や面白い場所ばかりを選んで繋げたんだ」
あっさりそう認めて微笑んだ。『選んだ』とか『繋げた』とか、その意味はよく分からないけど、迷宮には核となるものの性質が強く反映されると聞く。
――それじゃあ、やっぱりこの迷宮の核は目の前にいるクピドなんだ。
最初は炎竜なんじゃないかと思ってたけど……。あ、そういえば、クピドは街で炎を使ってはいたけど炎竜の姿は見なかった。
炎竜はどこにいるのだろう? 昔の王女の契約精霊で、イグニスの親である炎の精霊ではない別の竜。
でも竜って、そもそもそんなに沢山はいないはずなんだよね? それにしては、この迷宮には竜が関わり過ぎている気がする。
それを考えると、クピドを封印した炎竜と、バルドさんが戦った炎竜は同一だっていう方が自然なんだけど……?
「神殿と待宵草は気にくわなかったけど、アレだけは僕にはどうにもできないし……ほんっと、忌々しい王女だよ。美しいのは銀の髪だけ! 思い出しただけで腹立たしいけど……まあ、今はアイリスがいるからいいけどね」
手を伸ばされて、クピドがスイッと髪を一房すくって口付ける。
「ッ! やっ……!」
ガシャン! とティーカップが床に落ちて割れた。反射的に身を引いてしまったから、持ったままだったティーカップを思わず放り投げてしまったのだ――けど。
「え?」
確かに割れた音がしたはずなのに、床にティーカップの破片がなかった。それから、なみなみ入っていた熱々の紅茶もどこにも零れていない。私の脚にかかって火傷していてもおかしくなかったのに、お茶もカップも、その存在がどこにもない。
「どういうこと……?」
私は訳が分からないとクピドを見上げると、彼は一層楽しそうに唇を三日月にして私を見つめた。
「ここは僕の迷宮で、君の夢だからね。美しい銀の髪の乙女の、美しい脚を傷つけるわけないじゃないか」
「ゆ、め……?」
私、眠ってるの? ここは迷宮じゃないの!?
「僕は月の精霊だよ? 月は映すもの、そして惑わすもの。美しいもの。現実を映す夢は美しくて、人はすぐに惑わされるよね。フフッ!」
「夢、なんだ……」
夢で……惑わす?
待って。私、ここは間違えちゃいけないところなんじゃない?
「そうだよ」
月の精霊についてはよく分かっていない。何ができるのか、何を好むのか、どんな性質の精霊なのか。ほとんど何も分かっていないのだ。
「アイリス、君は目を覚ますことができるのかな? フフフ! 目を覚まして僕の物になってもいいし、このまま夢の中で僕の物になってもいいんだよ。好きな方を選んで」
美しい顔で笑うクピドにゾッとする。
やっぱり怖い……。クピドがニコニコと楽しそうに笑えば笑う程、私の中の恐怖心が煽られていく。何を考えているのか本当に分からない。この精霊の価値観が分からない。
本当にこの人は何がしたいの? 何が目的なの? クピドの目的が未だによく分からな――ん? 目的……目的は、そうか。この人、ずっと言っていたっけ。私を迎えに来た、って。
『ほんっと、忌々しい王女だよ。美しいのは銀の髪だけ!』
『美しい銀の髪の乙女の、美しい脚を傷つけるわけないじゃないか』
そうだ。そう言って私の銀の髪に口付けた。
もしかして目的は……本当に銀の髪?
「……ねえ、あなたはどうして銀の髪が好きなの? どうしてそんなに好きなの?」
「どうしてって、美しいからだよ」
あっけらかんと言い、クピドは毛先だけが銀色になった薔薇色の髪をギュッと握りしめる。
「銀は月の色。今は失ってしまった僕の色だ」
「……失ったの?」
そうだ。二百年前の記録では銀の髪だった。どうしてこんなに鮮やかな赤色になってしまっているのだろう?
赤……炎の精霊の色、燃えるような紅色、薔薇色……。
ん? 薔薇……薔薇といえば『待宵草』だ。あの白ばらも、熟すと赤ばらの『望月草』になる。
「忌々しい……こんな色、大嫌いなんだよ! 美しい銀色が好きなのに、あの王女……ほんっとうに嫌いだ! あんな銀色の髪の娘、見つけなきゃよかった。髪だけは一番美しかったんだよ」
子供の様にブスッと不貞腐れ、クピドは火がついたように言葉を続けた。
「僕が失敗したのは認めるけど、負けてはやらない。だからあの王女の邪魔をしてやったんだ。な~にが『王女の白ばら』だ! あんっな剛腕王女のくせに、僕が欲しかった淑やかで美しい銀の髪の娘の物語を作って! ねぇアイリス、図々しいと思わないかい? あの物語、知ってるだろう?」
「えっと、無事を祈って白ばらを騎士に渡し、無事に戻った騎士から赤ばらを捧げられた……ってやつだよね?」
それは燃えてしまって本として残せなかった、二百年前のヴェネトスの物語だ。
「図々しい! 淑やかで素直で可愛くて美しい銀の髪の娘と自分をごちゃまぜにした物語を作ったんだよ? ああ、本は僕が全部燃やしたから詳しい物語は知らないだろうけど、僕を徹底的に悪者にして、隣国にもマウントを取って、それなのに自分は愛らしいヒロインだよ? 面の皮が厚すぎるね」
「えっ、あなたが燃やしたの!?」
「そうだよ。封印されちゃったけど、あの炎竜は力を使いすぎてすぐに養生しにどこかへ行ってしまったからね。だけど炎の力は嫌になるほど染み込んできてたから、ちょっと操ってやろうかなって。炎の力は素直だから誘惑しやすいんだよ」
なるほど……月の精霊の特性か。そう考えると、月の精霊と炎の精霊はある意味相性が良いのかもしれない?
「そうだな、封印は気にくわなかったけど、この炎の力だけは感謝してるかな。嫌いだけど便利ではあるよ。色々燃やせるしね。だけど――あの王女は本当に嫌いだよ。僕を踏みつけ力づくで封印して、しかも大切な月の銀色を……炎の赤で染め上げるだなんて悪趣味だよ! アイリス、君も分かるだろう?」
「えぇっと……」
理解はできないけど、でも、精霊としての矜持の問題なのは分かる。
もしもイグニスがあの赤い体を銀色に染め変えられてしまったら……きっと怒り狂ってあちこちで火を吹くだろうと思う。
ああ。
ああ……そうか。そうだったんだ。
「僕は銀色の髪が好きだっただけだよ」
本当に、本当にたったそれだけだったのか。
クピドは純粋すぎるほど精霊らしい精神の持ち主で、無邪気なんだ。
月という人からは遥か遠くから地上へ降りて来た精霊。だから人とは全く価値観が違っているし、人の身近にいる精霊たちとも相容れない。
「だからアイリスが欲しいんだ」
半分薔薇色の髪を揺らし、クピドは甘えるように小首を傾げ私に微笑みかけた。