120.月の精霊・クピド
まさか迷宮でスープを振る舞ってしまったあの時には思いもよらなかったし、あの時だってどうしてかこの人の要求を断れなかったし……――あっ。
もしかしてあの時、甘い香りがして妙にボーっとしてしまったのは……まさか【魅了】の効果だった……!?
まさか。と思いつつ、記憶を探れば思い当たることしかない。
私は無意識のうちに耳の後ろを指で触れていた。あの時、この男が触れ小さな痛みが走った場所だ。
「アイリス。君は賢いから分かるよね? ぼくだってこんな風に街を焼くのは好きじゃないんだよ? こんな忌々しい力で……ね!」
ドン! 男が腕を振り上げるとあちこちで火柱が上がった。広場だけじゃない、コルヌの水の結界を越え、大通りや市場の方にも炎が見えた。
「消~えて~~!」
イグニスがフルフルっと震え、赤い火花状の魔力を振りまき近くの炎を抑えていく。そして遠くでは、コルヌのものらしい水しぶきも見える。
しかし全ての炎が消えたわけではなく、結界の外に集まっていた人をはじめ、街のあちこちから人々の悲鳴が聞こえ出している。ランベルトさんを筆頭に、騎士たちが声を張り上げ救助と避難誘導をしているが、訳の分からない事態にその騒ぎはなかなか治まりそうにない。
「やっぱり人間はうるさいな……――眠れ」
男が『ことば』にした途端、魔力がドォッと圧となって押し寄せてきて、結界に守られていたはずの広場外の人々がバタバタと倒れだす。
「みんな……眠らされた……!? あっ!」
ガクン、と私の肩に重みが加わった。私を抱え込んでいたレッテリオさんが肩にもたれかかっていた。
「レッテリオさん!」
「っ……! 風よ、浄化を……!」
そよ風が私とレッテリオさんを包むが、【催眠】や【魅了】を風で浄化するには突風になる程の魔力、それに補助となる素材や毒消しポーションだって必要だ。
「無茶です、レッテリオさん!」
「く……っ」
男の眠りの術に抗い、更に魔術を行使しているレッテリオさんは険しく顔を歪ませている。
そんなの当然だ! こんな状態で無茶な魔術を使うなんて、自殺行為に等しい……!
私は何か使えるものはないかと腰のポーチを探るが、回復ポーションや屑魔石、蜂蜜ダイス、そんないつもの備えしか入っていない。採取用の小刀も杖も、目の前でニコニコ笑っている薔薇色の髪の男の前では全くの無力だ。
「アイリス」
「……あなた、何がしたいの? 何が目的なの?」
横目で周囲を窺えば、イグニスの魔石に守られていたはずのカーラさんもルルススくんも、眠ってはいないまでも地面に崩れ落ちている。さっきまで元気だったイグニスも、魔力を使い過ぎたのか男の術のせいか、くったりと横たわっている。
こんなイグニス初めて見た。あんなにぐったりして……早く助けてあげなきゃ、早く抱き上げてあげないと……!
「目的? 言っただろう、僕は君を迎えに来たんだよ? 目的は、君が僕のものになること。大人しくこの手を取ればこの街は助けよう。もう燃やさないし人も起こしてあげる。でも拒むなら……分かるよね」
男は私に覆いかぶさるようにしていたレッテリオさんを蹴り退け、その白い手を差し出す。
「レッテリオさん!」
「大丈夫だよ。騎士って結構頑丈だからね。さあ、おいで?」
乱暴なことをしながらも穏やかなその声色に、私はついカッなり男を睨みつけるが、静まり返った街と尚も微笑む男に背筋がゾッとした。
そうだ。西方最大の都市ヴェネトスが、たった一人のこの男に沈黙させられているのだ。見習い錬金術師の私なんかじゃ勝負にならない。せめて一人前だったなら。先生たちや、帰ってしまった筆頭くらいの力があったならなんとかできただろうか。
こんな手を取りたくなんてない。
でも、だけど、それならどうしたら良いの?
「アイリス……駄目だ」
「だ……だ~め~!」
男は私の手を掴める距離で、それでも私自身に手を取らせようと待っている。
「レッテリオさん、イグニス……」
――この状況は、まるで屋根裏部屋にあったあの『半分の本』のよう。
手を取ればきっと、私は『領主の娘』のように男に【魅了】され、隣に侍ることになるのだろう。逆に拒めば街は焼かれ、皆は眠らされたままかもしれない。命の保証だってない。
どうして私は二百年前の王女様のような力がないのだろう。
この男の要求も術も突っぱねて、竜に乗って戦う力をどうして持ってないの!?
「うーん……そうか。まだ素直になれないんだね? それじゃあ少し時間をあげようか」
男は差し出していた手で私の頭を掴み、グイっと抱き寄せた。そして首筋――正確には耳の後ろに口付けられた。
「ッ……痛っ!」
噛み付かれているのかと思ったけど、違う、痛んでいるのはあの傷だ。熱い。熱い、熱い! これ、魔力だ……!?
「な、何……でっ!?」
「しぃーっ、もうちょっとだから」
傷口を確かめるようにペロリと舐められ、再び傷に唇が触れた。
熱さに代わって気怠さがじわりと侵食し始め、頭がぼんやり霞みだす。そして私は、その場にズルリと崩れ落ちた。
「アイリス……!」
「んん~! アイリス~~!?」
ぼんやりとした視界の中、倒れているレッテリオさんに男が顔を近付けせせら笑っていた。
「本当は、お前の目の前で『魅了』してやろうかとも思ったんだけど、アイリスに考える時間をあげたよ。僕は優しい精霊だからね」
「ど……こが……!」
考える時間……? このぼやけて働かない頭で一体何を考えるの……?
私は徐々に、徐々に、眠りに落ちていく。
「アイ……リス~! まって~いっちゃ、やだぁ~……!」
イグニスが泣いている?
大丈夫だよ、私は生きてるし多分どこにも行かない、ただ眠るだけ……だと思う。そう言ってあげたいけど、でも言葉は出ない。眠りに侵食されつつある心の中で言うだけだ。
もう閉じてしまいそうな瞼の裏に、赤い光が見えた気がする。あの綺麗で温かい色はイグニスの魔力だ。何だか……イグニスを覆う炎が、不思議な形をしてる?
「わあ、イグニス! すごいすごい! 小さな炎だけど竜じゃないか!」
「んんん~~……! ちからがぁ~……出ないよぉ~……」
「アハハ! でもやっぱり雛だね。イグニスもおやすみ」
男の楽しそうな声だけが聞こえている。イグニスも眠らされてしまったのだろうか? それに、もしかしたら魔力も切れてしまったのかもしれない。今日のイグニスは魔力を使いすぎていた。
でも精霊だから、しばらく休めば魔素を取り込んで元気になると思うけど……。
そうだ。この男――月の精霊。彼だって、だいぶ力を使ったはずだ。それこそ魔力切れを起こしてもおかしくないくらい。
私は最後の力を振り絞り、重い、重い瞼を開ける。
するとそこにいた男の見事な薔薇色の髪が、色褪せ薄く――違う。毛先から赤の色が抜けている?
「銀の……髪。やっぱりお前……」
身じろぎしたレッテリオさんの下で、真っ赤に染まりつつある銀時計がチャリッと音を立てた。
「ああ! 忌々しい赤色がやっと抜けてきたか――フフッ。お世話になったね、迷宮の番人。僕は月の精霊、クピド」
――クピド? それが、この、無邪気で傲慢な精霊の名前……。
「アイリス。満月が真上に昇ったら迎えに来るよ。銀の髪の僕の花嫁――」