118.薔薇色の髪の男と炎
「あれ? その白ばら僕があげたやつじゃないよね。それに何だか邪魔な匂いもあるなぁ。うーん、だからなかなか匂いを辿れなかったのかぁ……」
その人は、迷宮でしたように私の髪に触れ指で耳の後ろをかすめる。チクリとした小さな痛みを感じて、ああ、そういえばあの髪に花を挿されたときにも同じような痛みがあったなと思い出した。
「あ、の……」
あれっ。どうしたんだろう。どうしてだか頭がぼんやりして言葉が出てこない。足下が急に頼りなく感じる。目はぼやけているし、賑やかな楽団の音もホヮンとこもって遠くに聞こえている。
「ねえ、名前は?」
耳の後ろのチクチクがじわじわと熱くなってきた。
なんだろうこれ? 何か……まさか、毒とか……?
「……アイ、リス」
「そう」
男はニンマリと、唇を弓なりにして笑う。
――異様だ。異質だ。
頭の奥の奥で警鐘が鳴り響く。だけどどうしてか、私は無遠慮に触るこの人の手を振り払うこともできないし、名前だって素直に教えてしまう。
ううん。できないんじゃなくて、そんなことをする気が起きないのだ。
迷宮で会ったときよりも鮮やかな緩く編まれた薔薇色の髪。艶が増していて、もはや真珠のように光り輝いている。全身真っ白の服も、オーロラのように色を変える不思議な色の外套も、着飾った人ばかりの祭りの中でも妙に浮いている。
「アイリス、行こうか。君はもう僕のもの」
男が手を差し出した。そして私は吸い寄せられるようにその手に――。
「アイリス!」
ボヮン、と耳の遠くの遠くでカーラさんの声が聞こえた。
ああ、そうだ。カーラさんと一緒にいたんだったっけ。でも私、この人と一緒に行かないと――。
「ちょっとアンタ! アイリスから離れな!」
グイっと温かい手に引っ張られ、力の入らない脚がもつれてカーラさんに寄りかかってしまった。
「カー……ラ、さん」
「大丈夫!? ちょっと、この子に何したの!? 妙な真似は許さないよ」
カーラさんが私を守るように抱き寄せて、小刀を突き出し言っている。
……カーラさん、そんなものどこに持ってたんだろう? もしかして採狩人時代から持ってるものかな。採取用小刀なら私もいつも持ってるし……。
「不愉快な赤い髪だな。眠れ」
男が軽く手を払うと、辺りに甘い香りが立ち上り、カーラさんはガクリとその場に崩れ落ちた。
「……っ、何をしたの」
「あれっ? なんでお前は眠らないんだ? おかしいなぁ……」
――なんでお前は?
気が付くと、あちこちで奏でられていた音楽が消えていた。そして賑やかだった人の声も、行き交う人の足音も消え、お向かいの肉が焼けるジュウという音と、その匂いだけが漂っている。
まさか……広場中の人が眠らされた? 有り得ない事態に背筋がゾワッとした。
「っ、近……寄るな……!」
カーラさんは膝をつきながらも私を背にかばう。ジャリッという音がかすかに聞こえ、ぼやけた視界に男の白い靴が見え、そして――。
「アイリスぅ~!」
カッ! と目の前が赤く光ったかと思うと、火花のような光が降り注ぎ視界が晴れてきた。
今の声は……イグニス?
「二人とも大丈夫にゃか!?」
ああ、こもっていた耳も普段通りスッキリ聞こえるようになってる。
「私は大丈夫……あっ、アイリスは!?」
「私も……大丈夫、です」
見上げると、心配そうに覗き込むルルススくんの周りにも、火花のような光が漂っていることに気が付いた。
「あ、この光……ルルススくんの髪飾り……?」
「イグニスの魔石にゃ。これはみんにゃを守る護符でもあるからにゃ!」
「ああ……じゃあ、この妙な男……悪いものってことだね?」
そうか。この火花はイグニスの炎が悪いものを焼いて、浄化してくれているのか。
「アイリス~! カーラもぉ~! もぉ~……なんなのぉ~!? おまえ~~っ!」
いつもは穏やかで愛らしいイグニスが、炎の精霊らしい激しさを見せ、その背に炎を揺らめかせている。小さな体のはずなのに、私たちとあの男の間に浮かぶその姿は何倍にも大きく感じる。
「アッハハ! 雛のくせによく頑張ってるね! アハハハ!」
「むぅ~っ!! わ~ら~う~な~……あ~っ!」
大きな火柱がゴォッ! と立ち上った。こんなに強いイグニスの炎は今までに見たことがない。
「……へえ。小さいのになかなかの魔力じゃないか。それじゃあ僕も」
男は馬鹿にするように大袈裟な拍手をして、そしてその手をスッと掲げた。途端に辺りが赤く染まり、熱風が吹き付けてきた。まだ立ち上がれないその姿勢のまま顔を上げると、男の背後に巨大な壁のような炎が出現していた。
「な、なにこれ……」
「にゃっ……魔術じゃないにゃ!?」
そうだ、魔術じゃない。
だって魔術なら必ず発動させるための陣か、既に仕込んである媒介が必要だ。だけどこの人はただ手を上げただけ。杖も、腕輪も指輪も、刺青やつけ爪があった様子もなかった。魔道具だって使っていない。
こんな大きな魔術……有り得ない!
「さあ、小さなトカゲくん? 僕と君の炎、どっちが強いかな?」
「むう~っ! ぼくのほうが強い~~!!」
「アハハ!」
笑い声と共に振られた腕に連動するように、男の背にあった炎が渦を巻き、広場の其処此処に降り注ぐ。
「ふぅ~~~~!!」
イグニスは大きく息を吐き、細い竜巻状の炎を飛ばして男の炎にぶつけ相殺を試みる。――が、微笑ましい物を見るように目を細めた男が「フゥ」と小さな吐息を漏らすと、まさか煽られたわけでもないのに炎は力を増して、イグニスの明るい炎を吹き飛ばしてしまった。
「ンンンンン~! なんでぇ~!?」
「ざんね〜ん。力不足みたいだよ? トカゲくん」
「ぼくは~! トカゲじゃないもん~~!!」
頭に血が上っているのだろう。イグニスは真っ赤になって言い合いをしているが、男の炎はその間にも広場に広がっていこうとしている。
今は静まり返った広場だけど、出店のテントもあれば、出店者も客もいる。地面には倒れたり座り込んだりしている人が沢山いるのだ。
――どうしよう、早く火を消すか皆を避難させなきゃ……!
そう思い、焦りで震えながら杖に手を伸ばすがピタリと手が止まった。
でも、どうやって消せばいい?
だって、私に水の精霊はいない。水の魔術は知っているけど、こんな勢いの炎を消せるほどの力はない。
「にゃにゃっ、危にゃいにゃ! 燃えちゃうのにゃ!」
「水かけて! ……チッ! こんなもんじゃ全然足りないよ!」
カーラさんが燃えかけているテントに桶の水を掛けるが、その隣、向こう側、広場のあちこちで立ち上る炎には適うはずもない。
「イグニスー! 落ち着くにゃ!」
どうしよう。私じゃどうしようもできない。
「イグニス! 聞いて、一つずつ火を消そう!」
ルルススくんとカーラさんが大声を張り上げイグニスに声を掛けている。
――違う。「どうしようもできない」じゃなくて、できることをやらなくちゃ!
私はギュッと手を握り締め、杖――ではなく、魔石ポーチに手を突っ込んだ。多くが屑魔石だけど、その中でも大きなものを選び、更に水の魔石を選び取る。
「【レシピ】……『水の護符』『古語』」
頭の中に、憶えている限りの古い水の護符が浮かび上がる。『古語』を指定したのは、いくつかの言葉を一文字に組み立て直した特殊な『文様文字』があるからだ。
私はズラリと並んだその中から一文字で描けるものを抽出し、指先に練り出した細い魔力で魔石に描き込んでいく。多少複雑でも、一文字ならば小さな魔石にだって刻むことはできる。
そしてまだ力の入らない膝を叱咤し立ち上がると、炎の中へそれを投げ込んだ。
一つ、二つ、三つ、四つ五つ。近い場所だけでも、私の腕で届く場所だけでも火を消したい! そう思い、入るだけの魔力を込めて投げた魔石だったけど、炎の勢いを少し弱めただけ。それに遠い場所には届かなかったから、この危機は未だ変わっていない。
「わあ。アイリス面白いことするね? やっぱり錬金術師なんだね、君も。でも……」
男が再び腕を高く掲げ、ニヤリと笑った。
「だめぇ~~!!」
「やめて!」
「ちょっと! みんな目を覚ましな!!」
「起きるにゃ~~!」
私とイグニス、カーラさんとルルススくん、それぞれの声が重なった。その時――。
「風よ!」
「コルヌ! 水を風に乗せろ!」
「任せナ!!」
ブワッ! と強い風が吹き、巻き上げられた水が豪雨となって広場に降り注いだ。
「レッテリオさん……!」
「レッくん~!?」
「ニャンベルト~! と、コルヌ~!」
やった! これで火が消える! そう思ったが、ダメだ炎の魔力が強すぎる。火勢は衰えたが鎮火には至っていない。するとレッテリオさんがもう一度「風よ!」と声を上げた。
ブワッと吹き上がった風が炎を煽り、更に炎が燃え上がる。が、次の瞬間。炎は一気に萎み消え失せた。広場に残っているのはもう、炎が残した熱だけ。
「き、消えたにゃ!」
「すご……い! 今の、魔力を圧縮させた……?」
多分そうだ。風を起こしただけでなく、レッテリオさんは魔力で空気までをも操ったんだ。
魔力で起こした炎は、魔力か燃える要素の両方が尽きない限り消えることはない。でもあの男はそこにいるのだから、魔力が消えるはずはない。しかし、炎は消えた。
私は振り返り男を見てみた。何故だか微笑み、周囲に満ちていた魔力も収めているようだ。これ、炎への魔力供給をやめている……?
「そっ……か。燃える要素が欠けたから、今まで使っていた魔力だけじゃ炎を保てなくて……」
だから魔力を一旦収めた。
そうだ。万物がそのように存在するには、魔力ではない、この世界の自然の理に則っている。炎が燃えるには必ず酸素が必要……錬金術師なら知っていることだ。
「風を操って真空状態を作ったんだ……」
レッテリオさん、ただ風の精霊に加護を頂いているだけなんて言っていたけど、全然すごい! 騎士なのに、魔力の使い方が魔術師並みに細やかだ……!
「へえ。消されちゃったかー。面白いことするね、君」
「お前は随分なことをしてくれたみたいじゃないか」
レッテリオさんの目がチラリと私の方を向いた。「大丈夫ですよ」と伝えるつもりで笑って見せると、厳しい色を見せていた微垂れ目が、少しだけど和らいだ。