104.パン焼きと知られざるイグニスの秘密
今日はいつもの『田舎風パン』に加え、新しいパンも焼いてみようと思っている。それから作ったばかりの葡萄や甜瓜の酵母も試してみたい。きっと兎花とは違う甘さと香りのパンができると思うのだ。
「ねぇねぇ~どんなパンを焼くの~?」
「うーんとね、サンドウィッチ用のパン!」
「にゃにゃ? それはいつもの田舎風パンにゃとかバゲットじゃ駄目にゃか?」
「それでも十分なんだけど、もう少しバリエーションがあったらいいかなって。ほら、イグニスはレッテリオさんたちと探索に出かけたでしょう? あの時って食事はどうだった?」
「ん~サンドウィッチ食べて~キューブパンとスープを溶かして食べてぇ……あとバゲットにハムを挟んで食べたかなぁ~?」
予想通りだ。本当ならもっと携帯食セットの感想をちゃんと聞きたかったけど、最下層でのアレコレやあの妙な男の件で聞きそびれてしまった。
「そうだよねぇ。やっぱりお料理なんてしてる余裕なかったみたいだし、そうすると簡単に炙れるハムやベーコン、チーズばかりになるでしょう? だからもうちょっと、パンにも変化をつけてあげたいと思うんだよね」
そこで用意したのはライ麦と干し葡萄、それに牧場の新商品であるクリームチーズだ。
「では! 『田舎風ライ麦パン』と『干し葡萄とクリームチーズの甘じょっぱいパン』を作ります!」
「くふふ~! 名前が長い~」
「甘じょっぱいパン楽しみにゃ~!」
「と、その前に……私はマリネを作っちゃいたいんだよね」
「はいはい、アイリス~使えそうな果物でしてよ〜」
「ほらほら、王様葡萄と橙、蜜柑、甜瓜のだぜー!」
「ありがとう! レグ、ラス! ハリネズミさんたちもありがとう」
運搬してきてくれたハリネズミたちにお礼を言うと、短い前足でピッと敬礼してくれた。ああ、かわいい!
しかし彼らは愛でる間もなく、足並みを揃えスタタタターっと走って消えてしまった。もうちょっとゆっくりしても良いのに……? と、私が走り去る姿を見送っていると、ラスが笑って言った。
「うふふ。あの子たち早く一人前になりたいんですって。少しでも多く畑を耕したくて走り回ってますのよ」
「……そっか。私も早く一人前にならなきゃね!」
同じ見習いとして、ハリネズミたちには負けてられない!
「じゃあルルススくん、パン生地をお願いしてもいい?」
「任せるにゃ! アイリスが捏ねた生地をストックしてくれてたから、ルルススでも作れるにゃ! いつも通り丸く作ればいいにゃよね?」
「うん! ライ麦のほうはいつも通りで、葡萄のほうは掌よりちょっと大きいくらいの丸型でお願いします!」
「それじゃ沢山にゃね~! 了解にゃ!」
さて。パンはひとまずルルススくんに任せて、私はマリネ作りに取り掛かろう。三刻くらい漬ければいい味になるから、パン作りの間にまあ馴染むだろう。
まずは果物の皮を剥き、食べやすい大きさに切っていく。イグニスの手を借りて、煮沸消毒した大きめの瓶へ種類と彩り良く投入。
そこへオリーブオイルとバルサミコ酢、それから砂糖と白ワインを合わせたマリネ液を入れて、最後に薄荷を散らしたらあとは待つだけだ。
「……お野菜のマリネも作っちゃおうかな?」
私は果物用のマリネ液よりも酢を利かせ、塩胡椒も少々加えたマリネ液を作る。そこへ豊作だった甘唐辛子 に白茄子、赤茄子、蔓無南瓜を放り込み、薄切りの檸檬も入れてみた。
「よし。美味しくできますように……!」
そう祈り、私は十個の瓶に蓋をし保冷庫へ仕舞った。
「ルルススくん、そっちはどう?」
「できたにゃよ! ルルスス上手にできたと思うにゃ!」
踏み台の上で胸を張るルルススくんの前には、見事に丸く成形されたパン生地が。この短時間でこれだけの数を成形するなんてさすが!
「うん! やっぱりルルススくん上手だね! じゃあイグニス、発酵お願いします……!」
基本的なレシピはいつもの『田舎風パン』や『キューブパン』と一緒。だけど酵母も違うし具材も入っている。本当なら発酵時間に気を遣うところだけど……。
「はいは~い! まかせて~!」
イグニスに任せておけば安心だろう。だってこの自信! もう立派なパンの精霊さんだ。……炎の精霊のプライドを傷つけてしまいそうだから言わないけど!
そして生地が赤い光のキラキラに包まれて、ふっくら膨らんだ。
「で~きた~!」
「にゃんだかいつもより早いにゃ?」
私もそう思う。それになんだか、イグニスの魔力が強くなってるような……? さっきの光が前よりも強かったし、キラキラの粒もより輝いて見えたのだ。
「ほんとぉ~!? くふふ~……ぼく迷宮でがんばったからかな~? ちょっと強くなったかも~って思ってたんだぁ~!」
「そうにゃか? そういえばちょっと大きくにゃったかにゃ?」
「ええ~! 本当~!? ね~ね~アイリス~、ぼく成長したぁ~?」
くりっくりの円らな瞳で見つめられ、私は思わず大きく頷いた。大きくなったと言われればそんな気もするし、変わっていない気もする。
でも、だけど、こんなキラキラした期待の眼差しを向けられて裏切れる私ではない。
「ちょっと尻尾が伸びたかな? ヒラヒラも大きくなってるかも?」
「ほっ、ほんとぉ~!? わぁ~うれしいな~!」
ああ、どうしよう。ちょっと胸が痛い。嘘は言ってないけど、私の中では誤差とか気のせいかも? と思える程度の違いだ。それなのにイグニスはこんなに喜んで……。
「よかったね、イグニス」
「うん~! ぼく早く大きな竜になりたい~!」
「えっ」
「にゃるんにゃか?」
「ええ~? なれるでしょ~?」
上機嫌のイグニスは、竜を真似て「がお~!」と火を吹き尻尾をフリフリ――あ、やっぱりヒラヒラが少しゴージャスになってる気がする。色もなんだか濃いかもしれない!?
そして驚く私たちを見て気を良くしたイグニスは、ぱちん! と可愛いウィンクを飛ばす。
「ルルススくん……私、炎の精霊である炎竜は最初から竜なんだと思ってたんだけど……」
「ルルススもその辺はよく知らにゃいのにゃ。精霊は隣人にゃけど、商売相手にゃにゃいからあんまり勉強しにゃかったにゃ」
妖精と呼ばれるルルススくんが分からないのなら、ただの人である私に分かる訳がない。精霊は、契約はしてくれるけど、自分たちの世界のことはほとんど話さないからだ。精霊がどう成長していくかなんて文献にも残っていない。私の膨大な【レシピ】の中の蔵書にも、当然ながら見当たらない。
「くふふ~ぼくは竜になれるよぉ~! だってぼくのママは竜だもん~」
私とルルススくんは顔を見合わせ、そして私は目を見開いた。
「い、イグニス、ママがいたの!?」
「たぶん~! あ、アイリスに会った時は~どこかに行っちゃってたけど~……ぼくの記憶の中にね~ママはいるよ~!」
「そうなんだ……!」
村でお祀りしていたのはイグニスのママの……竜なんだろうか? どうしよう全然知らなかった……! そうだ、でもレグとラスは双子だし、お姉さんもいるみたいだし、てことは親がいるってことだ。
「私……精霊ってこう、魔素から生まれてるのかなって思ってたかも……」
というか、それが定説だ。
「ん~そうでもあるんだけど~ママと~ぼくは~一緒なんだよぉ~」
「んにゃ? ルルススにはよく分からにゃいにゃ」
「私も驚きがすごくて訳が分からない……! 先生に聞いてみようかなぁ?」
イグニスは秘密をしゃべっちゃった~! となんだか楽しそう。悪戯が成功した子供のようで可愛いけれど、この小さなイグニスが本当に竜になるのだろうか。……なってしまうの?
「ほんと、びっくり情報すぎるよイグニス」
「えへへ~」
イグニスのママ……どこにいるんだろう? ご挨拶してみたいな。でも、見習い錬金術師のままじゃなんとなく畏れ多い気がしてしまう。
だって、炎竜は炎の精霊の中でも上位の精霊だ。他には不死鳥も上位の精霊として有名だけど、やっぱり頂点は竜だと思う。
「そう考えると、迷宮の炎竜って本当に気になるよね……」
「気になるにゃ。大きいはずなのににゃぁ?」
竜も、あの鳥籠の中にいただろう誰かも……本当に、どこへ消えてしまったのだろう……?
◆
「はいは~い! アイリス~焼けたよぉ~!」
色々私が考え込んでいる間に、イグニスは二種類のパンを見事に焼き上げてくれていた。
「わぁ……! これ、葡萄の香りだね! んん~!」
私はたまらず大きく鼻から息を吸った。すると嗅覚を震わすほど濃厚な葡萄の香り。爽やかさもあるけれど、王様葡萄のあのたっぷり果汁が濃縮された、甘く芳しい夏の香りだ。
「甘いかにゃ? フワフワかにゃ!?」
「おいしそ~だねぇ~! でも~……ちょっと多くない~? アイリス~」
「うん、今日は多く焼いてみたんだ!」
私は天版から丸い田舎風ライ麦パンを下ろし、キューブパンも引っ繰り返し型から出してやる。ああ、ホカホカの湯気すらほのかに甘くてバターの香りもして……ああもう幸せ。
「作り置きにゃか? すごい数にゃ」
アチチっとお手玉をしながら、ルルススくんも焼き上がったパンを並べてくれる。
焼き上がった『田舎風ライ麦パン』は十個。『干し葡萄とクリームチーズの甘じょっぱいパン』はその数五十個。壮観だ。
「どうせ午後からは街へ行くでしょう? それなら忙しい騎士団に試食も兼ねて、差し入れしようかなって。果実のマリネもお裾分け!」
ポーション効果はばっちり付いているだろうけど、お祭り直前の騎士団は忙しいだろうから……まぁ、いいんじゃないかなって。携帯食セットの納品もしたし、そろそろ迷宮探索隊の全員が食べる頃だろうしね。
「さ、イグニス、ルルススくん……お楽しみの試食です!」
私は焼き立てホカホカ、フカフカのパンを木のカッティングボード上で切り分けた。ああそうだ、レグとラスも呼ばなきゃね!