94.加密列のお茶と髪に飾った白ばら
抱き留められたまま見上げると、ものすごく顔が近い。
そしてなんだか、急に恥ずかしくなって……でも、その胸を押し戻すのも気恥ずかしいし、やっぱりもう少しこのままでもいいかなと思った私は、折衷案として顔を背け、その胸に頬を預けることにした。
「……ところでアイリス、何か甘い匂いがしてるよね?」
「え?」
お茶のことならさっき言ったけど……? と首を傾げて横目で見上げた。
「ああ、そっちじゃなくて髪から――」
スッと手が伸ばされ、私の髪を一房梳く……が、毛先が絡んでいてピン! と引っ張られてしまった。
「イッ……!」
「わっ、ごめん」
「い、いえ……寝起きだからそのままで……!」
手櫛も通していなかったから絡まってるんだ……! ずぼらがこんなところで露見してしまった……!
「もしかして私の頭ぐちゃぐちゃですか?」
「いや、ちょっと乱れてるくらいでそれほどは……ああ、やっぱり髪からだね。甘い香りがしてる」
「あ、さっきのあの人が白ばらを髪に――」
「え?」
「……え?」
レッテリオさんの眉間に盛大な皺が寄せられた。
「えっと、確かに知らない人から貰ったものを髪に挿すなんて迂闊だったとは思うけど、でもここで採取できる花だったから大丈夫かなって……」
「そうじゃなくて。……初対面で本当に何なんだ? その男は」
「レッテリオさん、本当にあの『薔薇色の髪の人』に心当たりないんですか? 王都の人じゃないかって話でしたけど……」
「ない。この迷宮が俺の管轄だとは公表していないけど、コスタンティーニ家と錬金術研究院がなにかやってるのは分かるようにしているんだ。それにその前にね、ヴェネスティ侯爵の土地だと思われてるこの迷宮に横から手を出すなんて普通はしない」
「そうなんですか。最深部に潜るのって……その、横から手を出してることになるんですか?」
「なる。通常なら最深部は迷宮の『核』がある場所だよ? 城で言ったら玉座。落とされたら終わりなんだ。制御不能の暴走している迷宮じゃなくて、ここのように採狩場として運営されている場合、『核』は領主によって厳重に管理され、保護されているものなんだ」
ああ、そういうことか。迷宮素材は大切な資源だし、騎士団や商業ギルドも関わっているし、入り口前には街のようなものまでできていた。
「商業的に重要な場所……ってことですか?」
「うん。領内だけでなく、国の経済にも関わってるのが迷宮採狩場。ここはまだ攻略されてない迷宮だから、扱いは余計に微妙なんだ。だから転送陣の使用管理も徹底されている。入場名簿があるだろう? あれは軽度の魔力登録魔術が施されているから、名前や身分の偽装なんかは分かるようになっているんだ」
「へぇ……」
だから『追跡させる』って言ったんだ。単純に入り口の騎士さんが追いかけるのかな? と思ってしまってた。
「明日ここを出る頃には何者なのか分かっているだろうけど……」
レッテリオさんが妙に不機嫌だ。
「アイリス、もしかしてその男のことが気になってる?」
「え? まぁ……変な人だったなーとかスープのポーション効果出ちゃったかなー……くらいは気になりますけど、なんでですか?」
「……『白ばら』を髪に飾る意味って知ってる?」
「いえ?」
「ああ、やっぱりか……」
レッテリオさんはハァーっと大きな溜息を吐き、そしてそっぽを向いて項垂れた。
「意味があるんですか?」
レッテリオさんは軽く睨むように目を細め、私の背に添えた手でぐっと抱き寄せ、耳元で言った。
「白ばらを髪に飾るのは祭りのパートナーがいるっていう印。だけど貰った相手の目の前でそれをつけたなら――『私はあなたの恋人です』って、赤ばらを返したのと同じ意味だよ」
「……えっ!?」
「王女の白ばらのお話にあやかって、だからね。物語の中にそういう下りがあるんだけど……」
「し、知りませんでした! ルルススくんに粗筋を聞いただけだったんで……」
その意味を知った途端、未だ髪に残っている甘い香りが気持ち悪く思えてしまう。
なんなのあの人……!?
「だろうね。知ってて『髪に挿しました』なんて言ったなら、どうしてくれようかと思った」
「ど、どうしてくれようかって……」
にっこり。レッテリオさんは無言でいつにも増して深い笑みを見せた。
……私、どうされるんだったんだろう。
「――あ、そうだ。あの人、白ばらを渡したい人がいるって言ってたんです……! ちょっと変ですよね? それなら私の髪に飾る……なんてしないですよね? 普通」
「しないね。この時期にあの花を採る男で、しかも相手がいてだろう? 普通はしない」
「……普通じゃないってことでしょうか」
「どう聞いても普通じゃないね。なにもかも」
「れ、レッテリオさん……」
どうしよう。貰ってしまったあの花が急に怖くなってしまった。あの花は普通なのだろうか? いや、普通じゃない。あの香りの強さも大きさも艶も輝きも、どれも品質的には飛びぬけて高い。
「あの人、あの白ばらをどこで採取してきたんだろう……?」
「多分、三十八層。最下層だね。――でも、俺たちが今日見た花とは違ってるから、本当に少し前に採取してどこかに閉じ込められていたんだろうな」
「違ってるんですか……?」
「うん。その話は明日の探索にも関わるから、朝になってから改めてするよ」
「……はい」
静かな迷宮の夜の中、私は得体のしれない何かを感じ、思わずレッテリオさんの服をギュッ握りしめる。
――なんだか、嫌な感じだ。
「大丈夫。あの男の追跡はさせてるし、ちゃんと俺が守るから」
レッテリオさんは私をもう一度抱き込んで、背を撫でながら言う。
「……ッ」
一瞬で、顔が熱くなった。
レッテリオさん、色々話したら何だか急に、真っすぐに言いすぎじゃない……!?
なにか言わなきゃと思うのだけど、急に心臓が早くなって言うべき言葉が出てこない。そんなことを考えているうちに、レッテリオさんの腕が緩められた。
「……そろそろ時間かな」
イグニスの炎が少し小さくなっている。随分と話し込んでしまっていたみたいだ。加密列のお茶もとっくに冷めてしまっている。
レッテリオさんが胸から銀の懐中時計を取り出した。
ああ、あの銀時計! やっぱり見事な細工だ。きっと模様に隠しながら、色々な錬成陣が組み込まれているのだろう。
「……なんだ、これ」
レッテリオさんは険しい顔で時計を睨んで言った。
――文字盤になにか?
「どうかしたんですか……?」
「時計に変化が起きている。こんなのは初めて見たな……アイリス、分かる? これ」
私に「分かる?」って……錬金術師として知ってるか? ってことだろうか。
私は恐る恐る時計を覗き込む。
「えっ?」
目にした時計は、文字盤と針がかなり妙だった。
一から十二までの数字があり、長針と短針が付いているところまでは普通の時計だ。だけどその文字盤は、『十二』から『七』までが赤く染まり、短針は『七』を指し、長針は『十二』から『一』の間をゆっくりと動いているように見える。
「元々の文字盤の色は全部が白。針の色は銀のままで変わっていない」
「……今、まだ朝七刻じゃないです……よね?」
「違うね。多分まだ朝五刻くらいじゃないかな? この長針もおかしい。こんなにウロウロ動くわけがない」
私たちは顔を見合わせる。
「……とりあえずランベルトを起こそう。いつからこうなのかはハッキリしないけど……早く相談したほうがいい」
「はい」
ぬるりと動く長針と、じわじわと赤く染まって行く盤面。また得体のしれない何かを感じて、私は背中をゾクリと震わせた。
そして髪からは、あの重くて甘い香りがじんわり漂っていた。