縁定の姫 前
前・後編です。
中つ国が暖かい季節になった頃、高欄にもたれて水神がふと呟いた。
「挨拶に行かねばならんか」
珍しく語気が弱弱しい。
サキが様子を窺えば、水神は虚空をじっと見つめている。いつものように表情は読み取りにくいが、やや眉根を寄せているように見えた。
近くで顔を見ようとサキが水神の隣に座ればさっと腰を引き寄せられる。おかげでサキは水神の胸元に顔を埋める形となり、近すぎるため余計見えなくなってしまった。
「挨拶とは、誰に、でしょうか」
「北の霊山があるだろう。そこの女神だ」
サキも耳にしたことがある。霊山の女神は高天原に住む天津神の流れを汲み、この国では一之宮とされる大きな神殿に祀られているという。サキの村からへは山を3つほど越えていかねばならないが、信仰の厚い者は一生に一度はと参りに行きたがっていた。
「はい、行ってらっしゃいませ」
女神のことは知っていても、水神の意図が読めないサキは気の抜けたような返事をしてしまう。
「サキも行くのだぞ」
「私も?」
まだ水神以外の神には会ったことはなかった。畏れ多くて会えるものでもないと思っていたため、水神が当たり前のように言うのをサキは驚いた。
「はあ、今から行くか」
そう言いながらも水神はどこか気が進まない様子だった。
挨拶の理由も水神の気が進まなさそうな理由も教えてくれる気はないらしい。水神はゆっくりと立ち上がるとその姿を白蛇に変えた。背に乗ることを促され、サキは躊躇いながらも水神の体に腕をまわした。落ちないように力を入れる。
「目を閉じていた方がいい」
言われた通りに瞼をぎゅっと閉じる。すぐに身体がふわりと浮いたような気がした。
人の理では山3つ分の距離でも、水神にすれば瞬きの間だった。
甘い香りがして、サキは花畑の中にいることに気づき目を開けた。空は青く、一帯に柔らかい日差しが降り注いでいる。澄んだ気配からここが中つ国ではなく高天原へ昇ったことを悟って、サキは身震いした。
花畑を抜けた先に、手入れが行き届いた広大な庭園が表れる。庭の池にはいくつも小舟が浮かんでいた。やっと暖かくなった頃だというのにもかかわらず、桃や橙、杏など季節がばらばらであるはずの木々の花が咲いている。その中央に立つ屋敷は水神の屋敷よりもさらに大きいだろう。青緑色の屋根に、柱などはすべて朱塗りだった。その美しい光景は夢を見てるようだ。
門前でサキを背から降ろすと、水神は白蛇の姿のまま迷いなく門をくぐった。サキも離れまいと寄り添ってついていく。屋敷から7,8歳に見える女童が出てくると、水神とサキの訪問に驚いた様子もなく静かに一礼し、2人を先導して歩き始めた。
案内された主殿には、中央の倚子(椅子)に女性が一人座っていた。
(なんて、綺麗な人。)
サキは女神の美しさに思わず感嘆の溜息が漏れた。水神も美しいが、女神も格別だ。不躾だとわかっていても目が離せなくなる。
見ただけではサキと同じ年頃の少女にも見える。女神は翠髪を高く結い上げ、いくつもの玉簪をつけていた。遠目から見てもわかる白い肌、唇には真っ赤な紅を引いている。衣は鮮やかな色糸を使って菊文様が刺繍されている豪奢なものだった。
サキの視線に女神は口の端をあげて薄く笑った。その瞳が真っ直ぐ水神を見つめいている様子は勝気な気性を感じさせ、女神というたおやかな女性を想像していたサキは、予想とは違うようだと理解する。
「やっと来たか。聞いているぞ、人の娘をもらったと」
鈴を転がしたように可愛らしい声が響く。
サキは自己紹介をしようと口を開きかけるが、水神がサキを隠すように前に立つ。
「だから挨拶に来たのだ。名はサキという」
サキは恐縮し、せめてもと頭を下げて礼をした。
女神への挨拶はサキの顔見せのためであったらしい。同時に水神が女神の許へ行くのを渋ったのもサキはわかったような気がした。女神は面白がるような目で水神とサキを見ており、気性が合わないのであろうことはなんとなくわかる。ただ一之宮として祀られる女神の方が神格は上であり、義理を立てるためサキの顔見せは行っておかなければいけなかったということだ。
しかし訪問理由くらいは事前に教えてくれても良かったのではないかと、言葉の足りない水神をつい恨みがましく見てしまう。その思いをわかっているのかいないのか、水神はサキにも女神の紹介をした。
「一之宮の祭神、縁定めの神だ。俗に結姫と呼ばれている」
「娘、固くならんでも良いぞ。結は別にお前らが仲良うするのを反対したりはせん。どれ、縁定めの神らしく祝福でも授けてやろうか」
結姫は立ち上がると、軽やかに歩きサキの許まで降りてきた。そして自然にサキの腕を取る。そのまま奥の扉まで引いて行こうとすることに慌てた。
どうすれば良いかと水神へ視線を送ると、無表情のまま水神は固まっていた。さっと男女混じった数人の童が出てきて、水神を取り囲んでいるのが見える。
「待て。長居はしない」
「不作法な奴だな。陰気なお主の屋敷では退屈であろう。せっかくなのだから女同士で話でもさせぬか」
結姫相手では水神も強く出られないようだった。水神が引き留められないものをサキが逆らうわけにはいかない。隣の部屋まで静かに着いていくしかなかった。
緊張と動揺で大人しいサキを見て、結姫はからからと笑う。扇で口を隠すこともなく女神にしては豪快だ。
「反対はせんと言っただろう。水神が人間を気に入るとは面白いことだ。お前も幸せそうであるからな。それに、結は人間に優しいのじゃ」
「いえ、その。お心遣い感謝いたします」
「本当だぞ。最近は国司からの縁結びの祈祷も多くての」
サキが水神の屋敷にいることを反対されるのではないかと萎縮していると思ったのだろう。結姫は念を押すように話す。
しかしその中に引っかかる言葉を聞いて、サキはきょとんと結姫を見返した。
「……国司?」
思い出すのは村での苦い記憶だ。神子として差し出されそうになった恐怖はまだ記憶に新しい。
興味を示したことに結姫が満足そうに笑う。サキの顔が陰ったのを気に留めることなく結姫は言葉を続けた。
「ああ、国司だ。今年から赴任して、なかなか信心深い男だぞ。貢物も多くてな」
「国司が縁結びの祈祷を?」
「表面上は一之宮として国の安寧を祈っているが、結にはわかる。……どれ、顔でも見に行ってくるか?」
サキは大きく首を横に振った。国司など会いたくもない。しかし結姫はふんと鼻を鳴らす。
(どうしよう。あんまり行きたくないのだけど。)
助けを求めようにも水神は傍にいない。抵抗もできず、あれよという間に外に連れ出されたのだった。