6
「―――サキ」
サキの耳に遠く低い声が響いた。どこか気だるげなその声には聞き覚えがある。
(水神様? まさか。)
声が聞こえるわけがないと思いながらも、姿を探すように周囲を見回してしまう。
「―――これは私のものだぞ」
ふと村人たちの声が止んだ。
静かになったのもつかの間、俄かに激しい地鳴りと轟音が響く。焦ったように人々は顔を見合わせたが、事が起こったのは状況を認識する暇もない一瞬の出来事だった。
どこからともなくうねった水流が人々に襲い掛かった。その水流の動きが大きな蛇と重なって見え、サキは目を見開く。川が氾濫したにしては不自然な水流に人々は叫ぶが、すぐに水にのみこまれて沈んだ。
「す、水神様っ?! やめてっ……!」
水流にまきこまれたサキは必至にもがくが、抵抗もむなしく押し流された。あまりの勢いに意識を失いかけるがなんとかこらえる。
(これでは、皆死んでしまう!)
やはり水神を怒らせた、これで村は滅ぼされるのだと諦めにも似た感情がサキの心を満たした。恐怖と同時にどこかほっとしているのを感じ、すぐに罪悪感に責められる。
「なんだ、国司のもとへ行くのが嫌だったのだろう?」
水中にいたのは数分、いや数秒だったのだろうか。ふっと水の勢いが緩み、サキは放り出された。身体を打ち付けるがそれほど痛みを感じず、目を開いてそこが板の間の上であることに気づく。サキの全身はぐっしょりと濡れており、衣から垂れた滴が床に水溜りをつくっていた。
「神の加護がなんだと都合よく……人はやはり勝手で欲深なものだな」
独り言のようにつぶやかれた言葉に、恐る恐る視線を向ける。そこには別れた時とは変わらぬまま、高欄にもたれて水神が座っていた。その光景から、いつの間にかサキは水神の屋敷へと戻ってきたのだとわかる。
水神はサキの頬に手を伸ばすと、顎を上げさせてじっと顔を見つめた。サキは目を逸らすこともできず見つめ合う。
先に視線を外したのは水神だった。
「怪我はないか」
「はい」
サキの返事に、僅かに水神の口角が上がる。その表情が笑ったように見えて、もしやとサキは驚いて固まった。しかし気を持ち直してすぐに口を開く。
「……あっ、水神様。村はどうなったのですか!」
水流にのまれた人々の中には家族もいるのだ。勢い込んで尋ねたサキに、水神は眉根を寄せた。
水神がゆっくりと湖に視線を動かす。それに合わせてサキも湖面を目を凝らして見つめた。
そこにぼんやりと映し出されたのは呆然と佇む村人たちの姿だった。そこに身を寄せ合うサキの家族がおり、全員無事であることを確認して安心する。
「ありがとう……ございます」
一先ず水害が去っていることに対してお礼を言う。災いの張本人に対してお礼を言うのも可笑しな心持ちであるが、水神の言葉を聞けばサキを助けてくれたらしい。水流も一瞬だったのだろう。被害がないわけではないが、光景をみればそれほどひどくはなさそうだ。
なにより水神は怒ってはいないようだった。
「何故私を助けてくださったのですか」
「……何故だろう」
サキの問いに対して心底不思議そうな顔で首を傾げた水神に、サキは緊張で強張っていた身体の力が抜けた。
「お前はもう怒っていないのか」
「私が?」
今度はサキが首を傾げる番だった。水神ならともかく、サキがいつ怒ったというのかわからなかった。水神に対してはいつも畏怖の念をもって過ごしていた。湖に落ちて村へと戻る前は確かに村のことで意見し、サキにしては強く主張した。しかし水神の怒りの方が怖ろしかった印象だ。
「怒っていません」
「そうか」
一瞬、水神が眉尻を下げて優しげな表情になる。今まで無表情か不思議そうな顔しか見せなかった水神の、その変化にサキの頬が染まった。しばらくぶりに顔を合わせ、随分と柔らかい表情をするようになったことに驚かされる。
水神はサキの腰に手を添えると、ゆっくり抱え上げた。そのまま屋敷の奥へと歩を進める。慌ててサキは水神の肩にしがみつくが、サキの体から滴る水で水神が濡れてしまっていることに気づく。
「水神様、お召し物が濡れてしまいます!」
「着替えればよい。湯も使おう、身体を冷やすぞ」
全く意に介していない様子に、サキは初めて屋敷に来た時のことを思い出した。あの時も、泥で汚れているにも関わらず水神はサキを抱え上げたのだ。
あの頃からしばらく水神と生活を共にしたものの、サキにはそれほど2人の関係が変わったとは思っていなかった。神が相手で、常によそよそしく過ごしていたのだから当たり前だ。仕えるというには遇されてきたが、サキは退屈しのぎの慰み者のはずだったのだ。
いつの間にか、水神の後ろからは女官たちが静かに続いていた。
「水神様」
「何だ」
「私は、ここにいてもよいのでしょうか」
村へ返されたと思っていたが、サキは水神の許へ連れ戻された。他でもない水神の意志だ。
尋ねずにはいられなかった。
「無論だ。……中つ国への未練があるのか」
「思い残すことは……いえ、正直、家族と離れるのは寂しいです。しかし私は初めてここへ来た際に一度死んだも同然です。村へ戻った私は、もう私ではありませんでした。だから、水神様がここにいてもよいと言っていただけるのなら嬉しいのです」
「……そうか」
未練がないわけではない。正直に想いを伝えれば、サキを抱える水神の力が強くなった。
「お前がいなくなってから……お前が来る前に戻っただけのはずだったのに、寂しいものだった。帰ったお前は村で泣いていた」
顔をそらした水神の表情は見えなかった。
「私も、サキが傍にいてくれるなら嬉しい」
これが、何故サキを助けたのかという先ほどの問いの答えなのだろう。
サキは気恥ずかしくなって衣の袖で顔を覆い隠した。顔に熱が集まっていくのがわかる。
顔を隠していることを水神が気づいたのは、しばらく歩いてからだ。そこで袖を退けられ、サキの様子に不思議そうな顔をする水神を見て、サキはひどく安心したのだった。
(完)