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「サキ! ――サキ!」
(……水神様? ううん、違う。)
声を出そうとしてやけに体に力が入らないことに気が付いた。サキを呼ぶ声も低い男性の声ではなく女性の声だ。
「サキ、気がついた?」
薄く目を開けると茎葺きの天井が見えた。背中の感触から固い地面に寝ているのがわかる。
視界の中でぼんやりとした人影が写り、それはサキの意識が覚めていくのにつれてよく知った中年女性の顔になった。
「……母さん?」
二度とみることはできないと思っていた懐かしい母の顔だ。咄嗟に夢かと思ったが、サキの声を聞いた途端に母はサキの胸元でわっと泣き出した。周りが俄かに騒がしくなり人々の声が聞こえる。集まってきた人を見ると、村人のなかに父や弟、妹たちの顔も見えた。
「生きてたか!」
「何故戻ってきたんだ?」
「お前、水が退いた川に浮かんでいたんだよ。一体どうしたんだい」
「姉ちゃん! 今までどこにいたの?」
次々と声をかけられるが、サキには答えるのはひどく億劫だった。何しろ体中はあちこち痛み、倦怠感が辛いのだ。着ている着物や身体は乾いており、少なくとも川から運ばれていくらかは経っているのだろう。着替えさせたのか、ざらざらした感触から木綿の単衣を着ているのだとわかる。
「ちょっと待ちなさい。この子は目が覚めたばっかりなんだ。まずは休ませてやってよ」
涙を流しながらも母が声を張り上げると人々は一斉に口を噤んで散って行った。
(本当に母さんなの。皆もいたわ。私、帰ってきたのね。)
ここが家であることを認識し、安心したと同時に瞼から一筋の涙が零れ落ちた。心配していた家族は無事のようだった。続いて思い浮かんだのはサキが湖に落ちてから何故川に浮かんでいたのかという疑問だったが、疲れていた頭でそれを考えることをすぐにサキは諦めた。
そしてサキは再び眠りに落ちた。
数日が経つとようやくサキも床を上げることができるまでになり、生贄の儀から今までのことを母から聞きだすことができた。
サキが水神に召された翌日、村に雨が降り出したらしい。生贄が受け入れられたことを村人は喜んでいた。しかし雨はふた月経っても止むことはなく、勢いは衰えることはない。これはおかしいと巫女の祈祷が行われたが、人々の祈りもむなしく水害が次々と村を襲った。そこで仕方なく新しく生贄の少女を立てることにしたというのだ。
しかし、新しい生贄は結局洞窟へ入ることは叶わなかった。
「なぜ?」
「滝の裏側にあるはずの洞窟の入り口が消えていたんだよ」
神の住処へ人が入ることが拒否された。即ち水神は人々の願いを聞き入れるつもりはないということだ。―――と村人は解釈したのだが、なんとその後に雨は止んだ。村を覆っていた曇天からは晴れ間が見え、増水した川はみるみる水を引いてゆく。そこに美しい衣をまとった少女を残して。
「村のなかでは、お前が水神から加護を受けて戻ってきた神子だと噂する者もいるよ。お前が落ち着いたら村長も会いたいと言っていた」
「神子?!」
話が一区切りついて、母が出してきたのは白い衣だった。小花の地模様がある美しい絹布で作られたそれは、村では到底見ることのできないものだ。その衣をサキが着ていたのだから村人は慄いた。そのうえ寝込んでいてもサキの肌は白く柔らかく、頬は血色が良い朱色に染まっている。黒髪は揃い艶を増している。水神の元へ行く前とは別人のように容姿も違って見えるくらいだ。
その様子を見た村人から、サキが神子であると思う者が出ても不思議はないほどの変化だったのだ。
しかし、サキはその逆だと知っている。サキが水神の国で過ごした時間は穏やかだったが、ずっと水神の感情を読み取ることが出来なかった。初めてとらえた水神の感情は怒りであり、怖ろしい紅い目が忘れられない。水神を怒らせて返されたのだ。
水神に逆らってしまったという恐怖で背筋に冷たいものが走る。
「母さん、どうしよう……」
暗い顔で俯いたサキを見て、母は何も言わずサキを抱きしめた。
その3日後、国司の召集があったことを村長を通じて伝えられた。
神子の話が村だけではなく国司にまで伝わっていることに驚愕する。サキが知らぬ間に周囲は神子として祭り上げ、正式に巫女として扱うつもりのようだった。
サキが行方不明だった間のことは、誰に聞かれても洞窟内にいたと誤魔化していた。しかしサキがふた月洞窟で生き延びたことも奇跡であるとして、さらに神の加護を印象付けるだけだった。
「名誉なことだ。このまま都からお召があるかもしれないぞ」
村長が笑う隣でサキの父も笑い、酒を酌み交わしながら村の明るい未来について調子よく語っていた。川から戻ってからのサキの様子を知っている母だけは、サキの許を離れず静かに寄り添っている。
村長、それどころか国司の申し出を断れるはずもない。浮かれた村長や父は喜んでいるが、サキには不安しか感じられなかった。再度サキを掲げて水神が怒ったらどうするのか。今度こそ村は滅ぼされるのではないのか。しかしサキが何度父に加護などないと訴えたところで信じてはもらえなかった。加えて、サキが神子であると妄信し始めた村人を敵にまわすことができなかったのだ。
召集が伝えられた翌日には、サキは村の女たちの手によって髪を梳かされ白い着物を着せられた。サキが川から戻った際に着ていたものだ。それに三角文様のたすきをかけ、村の精一杯の宝玉で首輪、耳輪までつけて飾りつけられた。化粧として赤土で目元を塗られた巫女の姿だ。さすがに水神の元でされた化粧のように白粉は用意できなかったようだ。
国司からの迎えは黒漆塗りの立派な牛車だった。初めて乗る牛車に気後れしていると、付き添いの屈強な男たちが不躾な視線を送ってくる。
「さあ、サキ。乗るんだ」
喜色満面の村長に促される。それに呼応するように集まった村人たちが口々に喚声をあげた。
(嫌だ、国司の元へ行ってどうするというの。)
生贄になることを迫られた時よりも、サキは逃げ出したくてたまらなかった。もちろん村人たちがそれをさせるはずはない。国司の申し出を断ったとなればそれだけで大事になり、家族どころではなく村全体に影響する。それをわかっていてもサキは牛車に乗るのを躊躇っていた。
「娘、早くしろ」
焦れたように付き添いの男たちが乗車を促す。
「お前が気にいられて偉くなれば、出身のこの村も目をかけてもらえる。村を助けることができるんだぞ」
「国司に神の加護があることを訴えてくるんだ」
必死な村の人々からかけられる言葉が重く圧し掛かる。
周囲の村人の中には、緊張した面持ちの父と心配そうな母の顔が見えた。幼い兄弟たちは事態が呑み込めていないのか不思議そうに眺めている。
男たちがサキの腕を掴み、やや乱暴に牛車の方へ引いた。そのために足がもつれて前に倒れこみそうになる。思わず目に涙が滲むが男たちは構わなかった。
「サキ!」「何をしているんだ、早く!」「サキ!」「サキ!」
名を呼ばれるたびに身が竦むのだ。不釣り合いな期待をのせた人々の視線が怖ろしい。
重い足を引きずって牛車に向かう。その間に潤んだ目で視界がどんどんぼやけていく。泣きそうだと思った時には涙が一筋零れ落ちていた。