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薄く目を開けると、サキは着物にくるまり横になっていた。
(温かい…。)
辺りを見回せば、帳に囲まれた寝台の上だった。見慣れない家具に首を傾げるが、水神の屋敷にいることをすぐに思い出す。居心地の良い空間にまだ休みたい気持ちが沸き起こるが、どれほど寝ていたのかもわからない。サキはゆっくりと体を起こそうとした。
「起きたのか」
「―――っ?!」
かけられた声に振り返ると、脇息にもたれながら水神がこちらを見つめていた。
「水神様、いつからいらっしゃったのですか」
「さあ?」
寝起きを見られたことに恥ずかしさで顔が赤くなるが、水神は全く気にしていないようだった。それどころか眠っていたサキの傍にずっといたような風で、サキの問いに首を傾げてみせた。
いつの間にかサキは単衣になっているが水神の着物は変わっていない。
「ずいぶん寝ていたようだから、次は腹が空かないか」
「は、はい……」
水神の声掛けにどこからともなく女官が入ってくると、てきぱきとサキの身支度をすすめた。水神との間に几帳をたて、女官たちが素早く衣を着つけていく。
着替えた折に四肢の包帯をとると傷口が綺麗に消えていた。さらに今までの家事仕事で荒れていた手がすっかり白く美しくなっているのをみてサキはぎょっとする。ちらりと女官をみるが誰もが澄ました顔をしており、何も気にしていないようだった。神の薬なのだから、このような効き目もあるのだろうとサキは自分を納得させる。
(ここに来てから、驚くことばかりだわ。)
着替えがすむと膳が運ばれてきた。いつの間にか几帳が取り払われ、水神がこちらを見つめている。
(やっぱり、嫌ではないけど変な感じよね。)
気まずくはない。が、一人で食事をするのも寂しいものがある。しかしサキはそれを言うこともせず、黙々と食事を口に運んだ。
幾回か食べて寝ることを繰り返して、サキは屋敷での暮らしがとても暇であることに気がついた。両親を手伝い田畑を耕していた村での生活と大違いである。
さらにはこちらでは時間の感覚がわからない。屋敷の外は洞窟であり、霧ばかりでいつも薄暗いのだ。水神は食事や睡眠が不要であり、サキに合わせて生活しているくらいである。サキのお腹がすけば食事が用意され、眠たくなれば眠るだけの生活だった。身の回りのことはすべて女官が準備し、サキが動こうとすれば制止される始末だ。
サキは水神の傍でほとんどの時間を過ごしていた。ただ傍にいるだけの時もあれば、言葉を交わすこともある。話す内容は大抵サキの今までの暮らしのことで、干ばつなのに租税が増えて納められないだの兄弟の守りが大変だのと生活での苦労話がほとんどだ。さして面白い話はないだろうに、水神は相槌を打ちながら静かに聞いていた。
書物を読もうにもサキには字が読めず、遊ぼうにも女官たちは相手になってはくれない。盤上遊戯などは規則すらわからないのだ。自堕落な生活に居心地の悪さを感じずにはいられなかったが仕方ない。同時に、この退屈な空間でずっと暮らしている水神をサキは密かに尊敬した。それは暇つぶしに人間の小娘くらい拾ってみたくもなるだろう。
さらにどれほどかの時が過ぎたころだった。
いつものように主殿で水神とサキは過ごしていた。この頃サキは手慰みに絵や書を習うこともあり、文台に向かっていた。書かれたものはお粗末な出来だったが、水神は見ても大仰に頷くだけで鼻で笑うことはしなかった。この時もただサキの様子を水神が横から眺めているという光景だった。
「おや、何か来たようだ」
ふと水神が呟いた。サキが筆を止めて水神をみると、珍しくやや躊躇したように水神はサキを見返した。口元を扇で隠し、もともと表情が変わらず感情が読み取りにくいのが一層増す。
「入口にまた娘が来たぞ」
すぐには何のことかわからなかったサキだが、娘と言われて思い当たったことに顔が真っ青になった。
―――生贄の娘が洞窟に入った。そう水神は言ったのである。
「何故ですか?! もう雨は降りました。他に水神様へ何を願おうというの」
「止雨だろう」
干ばつで苦しんでいた村において、止雨を願うとはどういうことかという疑問をサキは呑み込んだ。
(もしかして、今ままでずっと雨が降り続いていたの?)
震えながらそのことを尋ねると、目をそらしながら水神は答えた。
「ふた月ほどになるか」
サキは眩暈を覚えて額に手をあてた。
確かにサキが生贄となって願ったのは、土地を潤す雨が降ることである。しかしまだ降り続いているとは思いもしなかったのだ。
水神はサキの手を取ると、濡れ縁まで行き高欄から身を乗り出した。すぐ下は湖であり、サキも水神に倣って湖を見つめた。すっと水神が水面を薙ぐと、揺れる水波のなかから懐かしい人々が浮かぶ。サキが屋敷へ来た日のように湖には村の光景が映し出されていた。
そこには大雨により氾濫した川、水に押し流された家屋や土地が見える。その悲惨さにサキが声も出せずにいると、徐々に映像は流れ山中の滝壺の光景となった。雨が降るなか必至に声をあげる人々の中心で白い着物の幼い少女が洞窟に向かって歩いている。その姿がサキは自分と重なって見えた。ただあの少女がサキのように水神の屋敷までたどり着けるとは思えない。
「水神様、お願いします。もう雨を止めてください」
「祈雨のためにお前を寄越したくせに、次は止雨を願うのか。勝手なものだな」
「限度というものがあります」
サキが水神を見据えると、水神もそらしていた目をサキに向けて返した。ふた月共に過ごしたからといって水神への畏怖は消えていない。今のサキはさながら蛇に見込まれた蛙のようであったが、震えながらも引くことはできなかった。
水神の言うことが最もであり、サキが既に用済みなのだとしても村をこのまま放っておくわけにはいかないのだ。村を――家族を救うことだけが生贄となるサキの最後の心の拠り所だったのだから。
「水神様、」
「くどいぞ。私に意見するのか」
続けようとした言葉を遮られてサキは思わず萎縮した。紅い瞳が射抜くようにサキを見据える。周りの空気が冷たくなる。今まで何事にも淡々としていた水神が怒っていると感じたのは、サキが来てから初めてのことだった。
恐ろしさに涙が出そうになるが懸命に堪える。
さっと水神が手を払うと、掴んでいた手が離れてサキがたたらを踏む。あっと思った時には遅かった。裳の裾を踏んだ足は身体を支えきれず、大きく後ろに倒れる。そのまま高欄に背中を打ちつけた。
「――――――サキ!」
焦ったような声が響く。肌触りの良い衣は高欄を滑り、するりと越えてサキは頭から水面に叩きつけられることになった。痛みと衝撃に息が詰まる。
長い着物が四肢に絡みつき手を伸ばすことさえできなかった。身体はゆっくりと沈んでいく。息が苦しくなり霞む視界の中で、そういえば水神から名を呼ばれたのは初めてではないか、という思考がサキの脳裏をかすめる。しかしそれ以上考えることはできず、そのままサキは意識を手放した。