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しかしいつまでも衝撃がくることはなく、サキは恐る恐る目を開けた。
水神は首を傾げると洞窟の奥に目を向けた。ゆるやかに霧が薄くなっていき、そこに湖の中に立つ建物が現れた。先ほどは暗闇でわからなかったが、今は明るい光が灯り照らされているようだ。
「あちらで休むといい。身体が冷えているのだろう」
サキが目を開くと大蛇の姿が消え、背後で人の気配を感じた。振り返りざまに驚き足がもつれて座り込みそうになる。それを支えたのは真っ白な髪をした青年だった。白い髪は周囲の光をうけて銀色に輝き、抜けるように肌は白い。丸い紅い瞳が不思議そうにこちらを見つめている。白を基調とした衣をまとった美丈夫が現れたことで、サキは大蛇が現れた時の比ではなく慄いた。
「もしかして……す、水神様?」
「ああ。お前はこの姿の方が話しやすかろう?」
畏怖しているを見破られていたらしい。しかしそれは大蛇を恐れたからではなく、水神は近くにいるだけで跪きたくなるほどの独特な雰囲気があるのだ。それを神気といい、神とはそういうものなのであろう。人の姿になってもそれが和らぐ様子はなかった。
水神はさっとサキの体を抱え上げた。生暖かい人肌のような感触にたじろぐが、それはサキの体が冷えきっているためであると気づく。
そのまま水神は湖に足を踏み出した。あげそうになった悲鳴を抑えてサキは両手で口を塞ぐ。水神は気にすることなく水上を進んでいった。どうなっているのか、足をついた所の水面が揺れるが沈みこむことはないようだった。
屋敷の前に来て、ようやく水神はサキの体をおろした。
サキは近くで屋敷を見、その荘厳さに息をのんだ。村長、いや遠目に見たことのある郡司の屋敷よりも何倍も立派である。ここは都の大王が暮らす屋敷のようではないかと思った。残念ながら実際の大王の屋敷を見たことはないので、これはサキの想像力の限界である。
入口から見ただけでも、この洞窟のどこにそんな空間があったのかと思うほどの広大な屋敷であった。高欄のついた階段を登れば主殿があり、その主殿の両側にはそれぞれ渡殿でつながれた対の屋が見える。主殿の奥にも建物があるようだった。床は美しい白木の板の間である。
「水神さまのお屋敷……この世のものとは思えません。まるで天に昇ったかのようです」
「そうだな」
肯定されて息をのむ。
(もしや、知らないうちに私はもう死んでいたの。)
顔を伏せると水神から言葉が続けられた。
「正確には高天原とも言えん。だがそなたが言うのが人の世であるならば、ここは中つ国でもない。それらを繋ぐ空間であるとでも思えばよい」
「そうなのですか」
ぼーっと屋敷に見とれて動かないサキを見て、水神の目が細くなる。
水神に促され濡れ縁に足をかけようとしたところで、サキは自分の手足が汚れていることを思い出した。水神を見ると、サキを抱えたため立派な衣が泥で汚れており、思わず小さく悲鳴がこぼれた。
「申し訳ございません! お召し物が汚れ、汚れてっ!」
「うむ、着替えてくるか」
焦ったサキをよそに事もなげに水神は言う。
濡れ縁を渡って衣擦れの音が聞こえたことに気づくと、そこには数名の白い小袖姿の女性たちがいた。皆、美しい黒髪で肌は水神のように白い。人ではないのは確かであり、女性たちも蛇の化身なのだろうか。
女性―――女官たちはにっこり笑うと、躊躇するサキに構わず屋敷へ入るよう手を引いた。主殿を渡り奥へと進んでいく。美しい板の間が泥で汚れるのが申し訳なく、ちらちらと後ろを振り返ってみるが誰も気にしている様子はなかった。
屋敷の端にある湯殿に連れて行かれたサキはあれよという間に着物を脱がされ、お湯をかけられ、綺麗に洗われて新しい着物を着せられていた。せいぜい行水しかしたことのなかったサキは、大量のお湯を見てその贅沢さに目を回しそうになった。そのうえ女官たちはサキの髪に香油を塗り、丁寧に櫛で梳き、薄く化粧まで施している。先ほどまで自分の死を覚悟していたのに、都のお姫様顔負けの扱いをされているのはどういうことか。
怪我をした四肢には薬を塗られ白い包帯が巻かれた。見た目は痛々しいが、薬のおかげか痛みはそれほど感じなかった。
支度が終わると女性たちに連れられ再び主殿に案内される。先ほどサキが落としていったはずの回廊の泥は綺麗になくなっていた。
主殿には着物を着替えた水神が待っていた。先ほどと同様の地が白い着物だが、薄水色で刺繍がされている。白髪は深藍の布紐でゆるく一つにまとめられていた。
「ほう、なかなか様になるものだな」
水神が口端を釣り上げて薄く笑った。
サキは白い衣と裳を穿き、肩から薄紅の領巾を纏っている。髪は両耳にかかる髪をそれぞれ赤い絹紐で結い、腰まである後ろ髪はそのまま垂らしていた。持たされた団扇はサキには扱いきれず、ただ胸元で握りしめている。
貧しい農民のサキがこのような着物を着たことはなく、裳を踏まないように緊張しながら近くの畳へ座った。主殿に置かれている屏風や几帳、蒔絵の厨子などの壮麗な調度品もサキには全く馴染みのないものである。
サキが座ったのを見届けて女官たちは部屋から去り、水神とサキの二人だけになってしまう。しばらく無言が続き、耐えきれなくなったサキは疑問を口にした。
「あの、水神様。私の生贄としてこちらへ来たのです。何故このように親切にしてくださるのでしょうか」
「私は別に人の命などいらん」
「しかし、私に免じてと……雨乞いを叶えていただきました」
「人の身で高天原に近い私の元まで来れたのだ。その褒美だ」
ひとまず水神がサキを害すことはないようだった。だからといってこの状況を素直に受け入れることはできなかったが、水神はそれ以上の説明をするつもりはないようだ。
話が一段落ついたところで女官が食事を運んできた。空腹を忘れていたはずだったが、温かい食事をみるとお腹が鳴る。一汁一菜、ひどいときはそれすら食べられなかった今までの食事に対し、出されたものは白米、漬物、蘇、汁物や干した魚など豪勢だ。玄米ではなく白米である。果物までついている。膳が置かれたのはサキの前だけで、水神はそれを見ているだけであった。
「私は人の食べ物は食べないのだ。遠慮するな」
「……ありがたく頂戴します」
空腹感に負けたサキは黙々と食事を始めた。水神もたまにサキの方を見るだけで無言であった。何をするわけでもなくただ座っている。水神への畏怖の念はあるものの、不思議と気まずい思いは感じないことにサキは安心していた。
空腹が満たされると次にやってくるのは眠気である。状況に安心したこと、疲れも相まったためだろう。女官が膳を下げにきたことは覚えているのだが、いつの間にかサキは寝入っていた。