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暗闇の中、焚火が燃え上がる。辺りに響くのは炎が爆ぜる音と滝の水音、低い祝詞の声だ。人々が幾重にも囲む円の中心に少女はゆっくりと歩を進めた。
足取りは重く表情は暗い。裸足に岩肌は冷たい。ぼんやりと空を見つめるその先は岩の合間にある滝壺、そしてその奥にある洞窟だった。
滝壺の川べりで少女を中心に人々は淡々と祝詞をあげていた。白い着物、青葉の髪飾りをつけた黒髪の少女は人々の先頭まで歩くと、優雅に腰を折った。それに合わせて人々も洞窟に向かい頭をたれる。
「さあ、サキ」
祝詞が止まる。人々の中から壮年の男が進み出て洞窟を指し示した。人々の中心にいた―――サキと呼ばれた少女はぐっと湧き上がる恐怖を抑えるように唇をかみしめた。
「さあ、神の元へ」
急かすように男が言葉を重ねる。
サキは一歩一歩ゆっくりと洞窟に向かって歩き出した。滝の近くまでくるとさっと全身に水しぶきがかかる。滝は大人三人分の高さしかなく流れ落ちる水の勢いも激しいものではない。しかしサキには近づく者を阻むような威圧感が感じられた。同時に後ろから頭を下げているはずの人々の視線を感じる。その視線に含まれるのは人々の期待だ。それと少しの憐れみ。
そんな人々の視線をうけ、いつまでも躊躇していることはできなかった。滝の下をくぐり洞窟の中に進む。もともと暗い夜の闇、焚火と人々が持つ松明くらいしか灯りはない。洞窟の中を数歩進んだところでサキの視界は闇に閉ざされた。
「さあ、どうすればいいのかしら。」
立ち尽くす。サキが村の大人たちに聞いたのはここまでだった。あとは神が迎えに来てくれるのを待つだけだ、と。そう、神。村に祭られる水の神。
サキは水神の生贄だった。
村を干ばつが襲ったのは2年ほど前からだった。雨がほとんど降らず、川は枯れた。そのため田に作物は実らない。実らないまま冬が来た。国に治める租税も払えず、それどころか人々は食べるにも困るようになった。
毎年紅葉の頃になると村の豊穣を願って水神に対し祈りをささげる祭事は行われていたが、干ばつが深刻になると村の巫女は神殿で連日神に祈りをささげた。それでも雨は降らず土地は潤わない。人々は神への供物として生贄を捧げることを決めた。土地が災害に見舞われるたびに生贄として差し出されたのは年若い少女たちだった。
この村を守護しこの地に住むのは村の北の山の水神であった。水神は雄神であるといわれており、男が住処に入ると祟りをおこすのだと村には伝えられていた。何百年もの間そうして少女たちは神の贄になってきた。そしてサキが今入った場所、この洞窟が水神の住処である。
「神よ、どうぞ村に雨を降らせてください。哀れなこの身を神の元におつれください」
凛としたサキの声は静かな洞窟内によく響いた。しかし何か反応が返ってくるわけもなく、ただ立ち尽くすしかなかった。
サキが思い浮かぶのは神への恐怖、そして両親や幼い弟、妹たちの姿だった。
村のなかでも貧しい一家からサキが生贄として選ばれたのは仕方のないことだった。生贄は神の意志として巫女が選定するが、いつの時代も大抵は貧しい家の少女だ。少なくとも村長の娘が生贄になった試しはないだろう。しかし神の意志として選ばれた少女は拒否することはできない。できなければ親兄弟だけでなく親類までもが村からつまはじきにされるのだ。
サキは選ばれてすぐ是の返事をしたが、後ろで両親は泣き崩れていた。その光景はサキの脳裏に強く残っている。あの泣き声はサキの心の支えだった。だからこの洞窟まで逃げ出さず歩いてこれたのだ。
しばらく立ち尽くし、サキはようやく一歩を踏み出した。ここにいても神が迎えに来てくれる可能性は低い。そもそも神が受け入れてくれるのかもわからない。どうせ暗闇の中で飢えて死ぬなら…とサキは前に歩き出した。
普段ならば立ち入り禁制の洞窟はどこで行き止まりなのかもわからない。入ったものは生贄だけだ。生きて帰った者はいない。その生贄が神に受け入れられたかさえわからない。
滝のしぶきで着物はぐっしょりと濡れていた。洞窟内は冷たくかすかな風が吹いている。
(寒い。これでは飢餓よりも寒さで死んでしまうわ。)
それに、寒気と恐怖を紛らわせるためには身体を少しでも動かしていた方がいい。
水神は火を嫌うというため灯りを持たせてはもらえなかった。頼りになるのは周囲の冷たい岩肌の感触だけだった。