24.〈彼女〉と〈彼女〉
〈彼女〉は薄闇の自室に座り、星図を模したドーム天井を見上げていた。
その灰色の髪が徐々に染め代わり赤銅の輝きを帯びていく。
頭を包む燃えるような灼熱感は、人の身に人ならざる技術を取り入れた咎への罰だろうか。
だがこの髪は神と深く繋がるために必要な神依りの神器。
医者ならフェイクダーマルを応用した毛髪衛星アンテナとでも言うのだろう。
彼女にはただ神器という言葉で全てが事足りる。
白い指先を北極星にかざし、彼女はこの世のどこにもなく、そして全てに宿った神からの気まぐれな星詠みに耳を傾ける。
やがて脳裏におぼろに結ばれたのは、敵意と害意を両の翼に乗せた灰色の鳥。
それが水平線の彼方から彼女を目指して海面を薙ぐ。
「……そう、また破滅の星詠みね」
ささやきかけてくる声に、彼女は笑った。
「大丈夫よ。またあの娘たちが救ってくれるでしょうから」
彼女、石動菫花は神話的な微笑を湛え、円形のベッドにたおやかな裸体を伸ばす。
海行く鉄の居城を透かして、微かな波の音を聞きながら。
***
〈彼女〉は暗いパイプの中を這いずり抜け、爆発で開いた穴から音もなく鉄板床に飛び降りた。
汚水よけに着ていた白衣を脱ぎ捨て、そして安物のスーツも脱ぎ捨てた彼女は、身体にピッタリとした防刃防弾スーツの機能を入れ、体型と筋肉に高機能繊維をアジャストする。
――見破られるのは予想外。だが大枠に違いはない。
どのみち彼女の役目は強奪時のサポートまで。
回線を本部に渡した段階で彼女はいつだって逃げる事ができた。
余興を楽しむのは悪いクセの一つだが、それで計画を潰した覚えはまだない。
「人生、お遊びが大切」
彼女は影のようにひっそりと、そして素速くコンビナートの複雑なキャットウォークを走り抜ける。
目指すのは廃液浄化プラントの排水口。
複雑な防水扉を一つ開け、二つ開け。いよいよ最後の扉をくぐった彼女は、排水が滝を打って流れる巨大排水路のサイドウォークに出た。
――そう、お遊びといえば重機係だったか、彼らの仕事は実に面白そうだった。
あれぞお遊びの極地だ。
使えるか使えないかはともかく、あれだけの業績を町工場みたいなハンガー一つで、しかも誰にも誇らずにやってる辺り彼女たちにすら通じる。
敵が自然であれ事故であれ、そして戦争であっても。人命をやり取りする現場は真剣なる児戯の場なのだ。
飾られた難しい言葉を取り払えば、残るのはただの玩具遊びに過ぎない。
「――だから楽しいゲームを続けよう」
「ゲームオーバーだゴラァ!」
パイプラインの陰から啖呵と共に繰り出された拳を、彼女は裏拳で払って構えを取った。
独り言に無粋な横槍。鼻に感じるオゾンの香りに彼女は顔をしかめた。
「スタングローブ。特捜補」
「はっ、大当たりだ!」
暗闇の中でスーツの女刑事が繰り出す空手を、彼女は身に染みついた軍隊格闘の手さばきで絡め取る。
後ろ手を極め首筋に肘を当て、あとは一押しで頸椎を砕けるだろう。
――銃もナイフもないが、刑事の一人なら素手でも殺せる。
そう彼女が思った矢先に、後頭部にコツンと何かが触れた。
「はい、そこまでよ」
「……誰かと思えばハナか。契約不履行はともかくイスルギの味方?」
「どちららかというと警官のまねごとね。一度ぐらい手錠をかけてみたかったの。それにしてもまあ、ずいぶんとイメージを変えたものね」
ハナの口笛を合図に、女刑事と彼女に何条もの光が浴びせられる。
闇に浮かんだ彼女の顔はシノンのそれだが、表情はまるでナイフのようにギラつき、背筋は鋼の棒のようにピシッと伸びて技術屋の面影はない。
「……オタク女の変装は骨だ。気に入った服があっても買えない」
「ケッ、余裕な所悪いが……さっさとこの手ェ離して縄に付きやがれ!」
女刑事の荒れた言葉に軽いため息を吐き、彼女は応じるフリをしてわざと重心を崩した。
瞬時に女刑事と自分の身体を入れ替え、ハナの銃に女刑事の顔を押しつけると彼女は状況を素速く把握する。
――包囲は少ない。
判断は一瞬。
彼女はブーツの踵をコンクリートに打ち付け、自身は耳と目を覆う。
途端に薄型スタングレネードが靴底を焼き、周囲の人間から視覚と平衡感覚を奪い去った。
胸元から簡易ボンベを装着した彼女は、躊躇なく水路にその身を投じる。
彼女は――ペッパーの名で呼ばれる名も無き工作員は、ライトに照らされた水面を一瞥すると深みを目指して潜っていく。
――全ては予想の内。
***
空の高みを、蒼い投げ矢が音を突き抜けて飛んでゆく。
雲と大気を貫き、飛行機雲を引いて。
尖った先端が狙うのは水平線の遙か向こうを飛ぶ灰色の鳥。
ジリジリとその距離は縮まっているが、まだ互いの姿が一枚の画になる事はない。
「北への逃亡は目くらましです。イスルギでの行動も陽動だったと見るべきでしょう」
モード・ダートとなって超音速巡航するスワローバードの操縦席。
後部座席に収まるメーテルはミツルたちとの通信に不安を漂わせる。
「目標は最初からただ一人。イスルギ・コーポ戦略室室長、石動菫花氏だったんです」
マスターから送られた情報を元に、彼女は推論エンジンをフル回転させて事態の把握と整理、そしてグレイバードの動きの予測に努めた。
その結果がこれだ。
イスルギ側がグレイウルフに手間取っている間にグレイバードは洋上を転進。
おそらくは南太平洋を航行中の〈アイオライト〉に自爆特攻をかける気だろう。
彼の鳥の意図に気付けたのも、その姿を見つけられたのも、全てはスワローに改設計によって与えられた天の目、衛星通信モジュールがあったればこそだ。
二機のPDJを捨てて選ばれた緊急用の装備が、いま勝機となってメーテルたちに味方してくれている。
『206便から全ては繋がっていたわけか』
長距離を渡って戻ってきた電波には、ミツルの声の他に轟々という雑音が乗っていた。
『いや、むしろ206便は失敗しても良かったんだろう。そのキンカとやらをビビらせて動きに制限をかけ、出航する〈アイオライト〉に乗せられたら御の字、といったところか』
レンの声にも同じ雑音が被っている。二人は一緒に行動しているのか。
メーテルはまだイスルギに残った彼らの行動を把握していないが、何かアクションを起こしている事は確かだ。
「そちらは移動中ですか?」
『ああ、キャシーがツテがあるとか言っててな。実行犯たちに逃げられた今、俺たちにできるのはそっちのテロを止める事ぐらいだ』
イスルギの現状はメーテルのクラウドにも届いている。
ランナバウトを操っていた謎のテロ実行犯たちは、いずれも鮮やかな手並みで非常線をくぐり抜けた。
けして安くはない機材を使い捨てにする辺り、明らかにプロの手際が垣間見える。
ともかくミツルたちが何らかの手を打っているという事実に安堵しながら、彼女は報告を続けた。
「すでに〈アイオライト〉に警告は出しましたが、寄港できる島が近くに無いそうです。保安部隊は乗船していますが、対装甲火器も対空火器も装備していません。グレイバードに飛び込まれたら打つ手はないでしょう」
「先ほどは提案を聞いていただき感謝していますが、素直なところ私たちも追いついてからの有効な手だてがあるわけではありません」
前席のアオイが参加する。
彼女の機能の大半はスワローの制御に取られており、今のは精密な予測とというよりは愚痴に近いものだった。
『グレイバードの20ミリ機関砲は脚部に搭載されていますわ。背面を取り続ければ射界にはいる事はありません』
キャシーだろうか、少しマイクから遠くその分雑音がひどい。
だが同時に送られてきた図面情報に、メーテルは彼女の評価を改めた。
「思ったより死角が大きい。ありがとうございます入谷準陸尉、このデータは使えそうです」
『……礼は結構よ』
聞き取れる下限ギリギリの声に、メーテルはキャシーの反応を想像して思わぬ笑みをこぼした。
――この人も照れたり恥じらったりするんだ。
「それ以前に間に合うかどうかが……燃料も心許ないですね」
「アオイさん、もう少し高度を上げますか?」
「いえメーテル。今から送る計算をやってもらえないですか」
慣れない機体制御で手一杯のアオイからメーテルに物理と引力、そして空力の複雑な計算が回される。
彼女はそれを解き、アオイの意図を理解するや瞬時に解答を引き出した。
「いけます。このまま大気圏を突っ切るより時間も短縮できるかと」
「決まりですね。ティーチャ、アオイとメーテルはこれから少し無茶をします。了承していただけますか?」
『なんだかわからんが人命が掛かってる。壊れない範囲の無茶なら俺が許す!』
「ありがとうございます」「ではティーチャ、ちょっと行ってきますね」
二人の返事が声として完結する前に、アオイは一時的に高度をぐっと落とす。
今飛んでいる高度ではエンジンを最大に噴かすための酸素が足りない。
「軌道計算完了。アオイさん、目標方位と角度送ります」
「PDJブースターとタービンの安全器を解除しますよ。メーテル、しっかり掴まってくださいね」
「はい!」
最後のは冗談だったのだろうか。
メーテルはアオイの余裕を羨ましく思いながら、目指す蒼穹へとキッと視線を上げた。
「スワローバード主機リミット解除。〈長距離弾道跳躍飛行〉行きます!」
アオイが吠えた瞬間、スワローバードは暴力的な加速を得て天へと飛び込んでいく。
並の人間なら圧死するだろう荷重に押しつけられながら、メーテルは空が蒼から黒に変わる様に処理できない意味を、美や調和に類似する激しい概念を感じ取る。
そして彼女は、微笑しながらそれに命名した。
――これが感動ですね。
大気の軛を突き破り、スワローバードは星と空の間に打ち上がっていった。