13.夜霧の髪の女
なんだか白いものと黒いもの、そして灰色の何か。
モノトーンの塊が彼の意識を通り抜け、ちょっとくすぐってから離れていく。誰かの指が頬を撫で、それから唇とのど仏を通ってうなじへと……。
「――っはぁ!」
失神の厚い帳をはらって彼は目をかっぴらいた。
モノトーンの塊に黄色と青が宿り、さらに白に暖かな光沢が乗る。
「大丈夫ですかティーチャ」
それは彼の顔を逆しまにのぞき込んだメーテルだった。
「呼吸と体温、脈拍も正常。おそらく脳震とうなので、まだ動かない方がいいと思います」
とっさに声が出ない彼を、メーテルが優しく枕に押しつける。
――枕?
若干ひんやりとしていて、中央のくびれが後頭部にジャストフィット。
首筋に感じる感触が滑らかで心地よい。
これが枕だろうか。彼は確かめるべく手で探り――。
「ひゃっ? だ、だめですよティーチャそんな」
「……ま、さか」
まさかでなくとも、枕は枕でも、それはメーテルの膝枕であった。
彼が何気なく探ったのはホットパンツの裾から奥であり、指先に当たるなにがしかの布は……つまりはそういう事だ。
「すまんっ」
とっさに手を引いたミツルに、メーテルは真っ赤になった頬と口を両手で覆う。
「い、いえ、こちらこそ驚かせて済みません」
「いいんだ、いやよくないが……じゃなくてお前、恥ずかしかったのか?」
「はい、恥ずかしいというか、そういう反応を要求される場面だと……マスターが常々『女の子にはそういう場所がある』ものだと教えてくださるもので」
「……さすがハナ、どっかの係長とはえらい違いだ」
手本のルーズさを受けて羞恥を理解できない三人娘との差に、改めて教育方針の違いを見せつけられたミツルであった。
ともあれ心頭滅却色即是空。
ホッと息をついた彼は辺りを見回した。
場所は昏倒前と変わらずハナのリビングで、彼はソファーに寝かせられていた。
いるのはメーテルだけ。ほんの少し残った雑念が、すわシャワーかと囁くが、耳を澄ますと聞こえてきたのは話し声だ。
「……せっかく良いところだったのに、相変わらず無粋だわ」
「そっちの事情なんか知ったことかよ」
よく通るソプラノボイスがハナとして、彼は張りの強い男勝りの声にも聞き覚えがある。というかよく知っている。
「メーテル、状況を説明してくれ」
「はい、ティーチャがマスターに詰め寄られて転倒したすぐあとに、特別捜査補助二課の鞠井恵梨香捜特員がいらっしゃいました。いま、マスターと向こうの部屋で話しておいでです」
「エリが? ていうと事件がらみか」
ミツルが起き上がれば、二人の声がより一層はっきりとする。
「――二〇五一年の四月にインドのバンガロールで起きた企業テロ事件。関与したペッパーと名乗る日系人女性。多数の事件で関与が噂されるコイツがお前にも接触したって事だろ」
「よく調べたわね。でも答えられないのはもう承知でしょう? わざわざ確認のためだけにここに来たのかしら?」
「その面を拝みにな。確信が持てたぜ――」
漂ってくる直接的な捜査情報に、立ち上がったミツルは足音を潜ませた。
そのまま部屋を出て行こうとする彼をメーテルが止めるが、彼は口の形で言葉を伝える。
「(なんだか取り込み中のようだしな。このままタヌキ寝入りしててもハナに襲われそうだし、今日は帰るよ。ハナに美味かったって伝えといてくれ。あと、手当ありがとうな)」
答えは壁面パネルに無音のメッセージとなって表れる。
>:いえ、どういたしましてですティーチャ。マスターには私から報告しておきます。それと念のため、あと二時間ほど安静にしておいてくださいね。
「(ああわかった)」
ミツルがこっそりと部屋を出ると、ニッコリ笑ったメーテルがドアを無言で閉じた。
自室に引き上げた彼は、手持ちぶさたに周りを眺める。
まだ時刻は九時を回っていない。わずかな時間だったが、出る前と比べると寂しさが薄らいだ気がするのは、きっとメーテルのおかげだろう。
――断じてハナの貢献とは思いたくない。
まだ寝るには早いと、暇つぶしを探して彼は着用端末に触れた。
着用端末は現代を象徴する機器で、ノートパソコンや携帯電話などのポータブル情報機器の子孫筋に当たる。
かつての機器と違う点は山ほどあるが、なんといっても一番の違いは内部に演算機構がほとんど入っていない点だ。
大ざっぱには曲げ伸ばし自在の有機プラスチックパネルに入力機能と光による発電、蓄電機能が一体となり、それにクラウドネットの通信コンポーネントがついていれば着用端末と言える。
つまりは持ち歩ける画面でありタッチパッドなわけだ。入力方法も何でもござれの状態で、足りないセンサーは周囲環境が補う仕組みだ。
ここまで来ると着用の意味がほとんど無いのだが、さすがにそこは人間の道具。 いかに住環境や街そのものが情報機器の役目を果たそうとも、人類に往来でアダルトコンテンツを壁面に流す勇気はまだ備わっていない。
少し言い過ぎたがそんなものだ。
「新発表のゲームでも……いや、ちょっと待った」
彼の声にゲームネットを漁ろうとしたエージェントが、動きを止めて次の指示を待つ。
「検索、二〇五一年、インド、バンガロール、日系人、ペッパー」
彼はエリの言葉を検索した。捜査関係者の彼女なら記録に残せないだろうが、一般人の彼がたまたま検索した程度で捕まるとは思えない。
ほどなくエージェントがまとまったニュースグループを壁面パネルに表示し、概要サイトをピックアップした。
「なになに……二〇五一年四月三十日、インド、カルナータカ州の州都バンガロールにて、オムニインフォ社の中央技術センターに爆弾が仕掛けられたとの通報。周囲は一次騒然となったが、これは後に陽動であった事が判明。
州警察に協力した同社警備部隊にあらかじめ犯人グループの一味が潜入しており、爆弾処理のためにセキュリティが解除されたところ、突如小銃を発砲して州警察職員十数名を射殺。っと」
それまでの政府や民間人をターゲットにしたテロが「東アジア汎テロ紛争」という一大抗争の末に下火になってからというもの、テロ行為の目標は徐々に大企業へとシフトしていた。
いまや世界を牛耳っているのは世論でも政府でもなく大企業に他ならないからだ。経済と切り離せない企業体を相手取れば、恐怖だけではなく実益すらも見込める。
「公式の見解では、敵対的買収行為へのスリランカの某情報企業による報復という見方が有力。しかし今も件の企業は関与を否定しており、詳細は不明」
概要サイトの扱いはあっさりとその程度で、ミツルは興味に任せて二級の、つまり噂やゴシップまでも含めたニュースソースに手を出す。
「……犯人の目的は恫喝ではなく試作軍事ソフトだった? 犯人グループを謎のランナバウト集団が支援? 犯人の潜入を助けた謎の日系人美女――これと、これをピック」
ミツルが指示した地元ニュースネットの三面コンテンツがピックアップされる。
そこには犯人たちを警備部隊に斡旋した国際軍事会社と、その窓口となった女性のイメージが載っていた。
「ジンバブエのアカツキ・アームズコーポ……ダミー会社と判明。この女が通称ペッパーと目される女性……はて、どこかで見たような」
税関で偶然撮られたとされるイメージはぼけていたが、長い髪を後頭部で複雑に結った人物が写っていた。肌は小麦色に日焼けして唇の赤がよく目立つ。
どこかで見た気がする理由を探って記憶に投網した彼は、やがて忘れようもない印象を引っかけた。
「この髪の色、206便の女性――か?」
夜霧のような濃いグレーはそうそうある髪色ではない。
だが思い当たったのは良いが、そうするとミツルでも不合理な点に気がつく。
「普通、自分の乗った飛行機にテロは無いよなあ」
仮に同一人物だとしてパラシュートでも持ってない限り、いやイスルギが太平洋の孤島であることを鑑みればそれでも自殺行為だ。
あの状況の緊迫度合いからすれば、墜落しないと高をくくったという考え方にも無理がある。
「とするとテロ屋同士の抗争とか……いや、さすがに俺にはわかんねぇわ」
もともと考え事ができるような状態でもなく、彼はそうそうにお手上げして呼び出した記事を畳む。
と、彼はその中の一枚を閉じようとして手を止めた。
写真に写っているのは、まるで直立したカエルのような不格好な機械。
「これがランナバウトか」
ランナバウトはけだし解説のしづらい機械だ。
いちおう種別としては装甲車に属するが、その形態はおおむね人型をしている。
といって救命重機のように完全人型でもなければ、そこまで大きくもない。
縦横三メートルほどのたいてい寸詰まりのプロポーションで、ドタ足はタイヤを収めた自由稼働サスペンション、細っこい腕は機関砲や対戦車ロケットランチャーなどを収めた砲塔。胴体のほとんどは対弾装甲を施された操縦席となっている。
不整地における高速展開を目的に南アフリカで開発された局地戦兵器で、世情不安な国の政府や企業、そしてテロ屋にも大人気という軍用装備である。
政治的不安定とは無縁の日本、そのなかでも抜群の治安の良さを誇るイスルギでお目にかかる事は滅多にない。
これを使ったプロスポーツがあるとも聞くが、本場はロシアだそうでまだ日本では馴染みが薄かった。
「パトカーで体当たりすれば壊れそうな感じだな。ま、その前に機関砲でハチの巣にされるだろうが……」
想像しようと思ったが現実感に乏しく、したところで何の得があるわけでもない。
ちょうどよく眠気が回ってきたミツルは、エージェントに検索記録の消去を命じると寝室へ向かった。