0.メーデー206
この物語はフィクションです。
フィクションですが、半世紀後の未来においては定かではありません。
真夏のチリ。灼ける暑さのサンティアゴ、アルトゥーロ・メリノ・ベニテス国際空港を飛び立ったオール・ニッポン・インターANI206便は、地球を半周する大圏音速飛行を終え減速しつつあった。
〈彼女〉はファーストクラスのリクライニングソファーに横たわり、エアバスA481クルーザーの天井に映る黒い空が、徐々に蒼を取り戻していく様を眺めている。灰色の髪、赤い瞳。人形のようにただじっと。
偽物の天空を透かして、彼女は星を見据えていた。
『当機はこれよりイスルギ国際空港への着陸アプローチを開始いたします。
到着予定時刻は四十分後、出発地より日付変更線をまたぎまして、二月一日午前十一時五分ごろの予定でございます。
ファーストクラスのお客様はソファーを、ビジネスクラス、エコノミークラスのお客様はシートをお戻しになり、安全のためにベルトをお締めくださいますよう――』
機内アナウンスが流れ、彼女は緩慢に手を伸ばすと軽く操作パネルに触れる。
ソファーは歪んだ繭のような形から、乗客を守る椅子本来の姿へと復帰した。
彼女は耳の奥でささやく声に微笑む。
「ええ、時計も季節も正反対だわ。イスルギもまだ寒いでしょう?」
その問いかけに答える者は誰もいない。206便のファーストクラスは彼女のためだけに貸し切られているのだから。
それでも彼女は誰かの返答に笑みを深める。
「コートは必要ないのね。ありがとう」
彼女は六時間の眠りから覚めた身体を伸ばし、雪の彫像を思わせる細い指でベルトを探す。
まさにそのときだった。ふわりと身体が浮き、次いですぐにソファーに強く抱き留められる。瞬時に血の色の瞳が引き締まる。
「…………そう」
誰にともなくそう言いって、彼女は静かに目を瞑る。
「死ぬには悪くない日だわ」
周囲から空が消え、後には白く薄暗い壁面のみが残った。
***
「どうなってる!?」
ANI206便のコックピット。機長が彼と副操縦士を取り囲むマルチコンソールに向かって吠える。
表示は混乱し、十面あるパネルには警告メッセージが幾重にも重なっていた。
「オートパイロット、オートスロットル共にオフ、速度がマッハ1.1から上昇中、高度6万3千フィートから変わりません!」
うわずった副操縦士の返答に、機長の額には薄く脂汗がにじむ。
しかし、すぐに無機質な声が場の緊張を打ち消した。
『イマージェンシー・フライトガイド・アクティベーテッド』
機体の異常に反応したか、あるいは二人の動揺を感じ取ったのか。
コントロール・パイロット、PCAが機体を緊急事態モードに切り替えたのだ。
この機に限らず今日の旅客機には、三人目のパイロットが乗っている。
高度に進歩した情報工学と知能工学の結晶。人工知能という名の最も冷静で、最も腕のいい自律型ロボットが。
その姿なき三人目は状況判断ルーチンで即座に状態を把握した。
異常な計器数値から故障の原因を読み、飛行補助ガイドラインをヘッドアップディスプレイに表示。音声で伝える。
『フォロー・オグジュアリ・ライン』
「緊急モードの起動を確認、ヒヤヒヤさせやがる。おい、緊急事態宣言を出せ。海のまっただ中だと代替着陸なしか、かえってありがたいぜ」
操縦機器に重なるガイドラインを見て、機長は制服の袖で汗をぬぐうと副操縦士に指示と、やや不謹慎な軽口を飛ばした。
すでに操縦桿もスロットルも勝手に動きだしている。静圧系、つまり計測システムの故障が原因だという分析表示もあった。
「やれやれ、こういうときはエージェント様々だな」
「そうですね……こちらANI206、緊急事態を宣言します。静圧系が故障。現在第一から第三まで全ての対気速度計と高度計がアウト。CPAの誘導で飛行中です……」
副操縦士が無線で呼びかける間に、機長はCPAと共に緊急チェックリストを立ち上げる。
オートパイロットの技術は、過去の人々が想像だにしない方向に進歩していた。
発達した人工知能は古今全てパイロットよりも上手に飛行機を操れる。だからといって全自動化はされす、未だに人間のパイロットはその席を守り続けている。
『ATI・ADI・ASI・モード・オルト』
「コンファーム。静圧系から光学系へ」
全ては責任の所在ゆえだ。
人工知能の判断が間違っていたときに誰が責任を取るか。
これに、最終判断を人が堅持するという設計思想が明快な回答を導き出した。人工知能は判断を下さず、ただ診断と自動制御に徹する。それにより責任を人間の手に戻すのだ。
「飛行安定を確認です。いやあ、この速度域で操縦なんて勘弁ですよね」
もちろん、昔ながらの手動制御も組み込まれてはいる。
だが実際のところ、危機に際してそれを使うような事はほとんどない。誰よりも冷静なパイロットがいるなら、人間の仕事はその判断を評価するだけで事足りる。
この設計思想は二〇六三年の現在、あらゆる自動制御機器に共通のものだ。
多少の違いはあるが、航空機も車両も船舶もほとんどがこの方式で動いていたし、人間も順応していた。
「……おい、なんだこれは!」
順応していたからこそ、それが崩れたときに問題はより深刻となる。
わずか数分で安定飛行が途切れた。
突如として両操縦士のヘッドアップディスプレイがブラックアウトする。計器パネルに警告が復活し、操縦桿やレバーも停止した。
「そんな……CPAがフリーズなんて……」
とっさのことに呆然とする副操縦士よりは、まだ経験の長い機長の方が動きは早かった。操縦桿を握り直し、左へ流れようとする機体を辛うじて直進に戻す。
だが機体の不規則な揺れは人間にはどうしようもない。揺れる機内で機長は副操縦士を叱咤する。
「馬鹿ヤロウ計器から目を離すな! すぐに下へ状況を送れ!」
「は、はい! メーデーこちらANI206、CPAがフリーズしました。自動操縦全解除、至急対応を……」
「畜生!」
悪態をつきつつも機長は水平線や雲を頼りに機体の姿勢を必死に維持する。だが彼にしたところで、この飛行機を完全手動で飛ばした経験は数えるほどしかない。
「速度を落とす。ASIとATIを読め!」
「はい……速度マッハ1.3、高度6万3千……えっ?」
二人の目が、あり得ないと言っていた。
下がったはずの速度や高度が計器の上では戻っている。副操縦士が確認してみると、頼みの綱だった光学系の計器からデータが来ていない。
「もう一度切り替えろ!」
「無理です! 光学系はCPAに連動してる!」
機長はかぶりを振って副操縦士に計器を頼み、自分の判断と手足に全ての命運を託した。レースカーで雪道を走るような無謀な操縦だが仕方がない。
幸い静圧系が故障していることはわかっている。不正確な情報からでもある程度の真実は読み取れるだろう。
「落ち着け、速度は下がってるんだ速度超過はない。高度は……マズい雲が!」
いつの間にか高度が下がり、飛行機は厚い雲の中にゆっくりと滑り込んでいく。
これが最後の混乱だった。
人間は感覚の生き物、小さな計器よりも視界いっぱいの灰色が視覚を騙し、飛行機の挙動で簡単に重力を誤認する。
「機長左です!」
「左にやってる!」
「違う左だ!」
混乱した人間には言葉すら凶器だ。
左に流れているのか、それとも左に傾けるのか。二人の認識が食い違ったまま、クジラをを思わせる超音速旅客機は徐々に左へ回転をはじめ……。
『ANI206、機体が左方向へロールしています。今すぐ右へ立て直してください』
救いの声は、だしぬけに二人のヘッドセットに届いた。
『時間がありません。あと十秒で高G旋回が始まりますよ』
落ちついて、しかし強く促す少女の声に、機長は慌てて操縦桿を右に傾ける。
間一髪で超音速旅客機は横倒しを免れ、機長はパニックを脱した。
「こちら206、あなたは?」
二人と乗客を救った緊急周波数の主に副操縦士が呼びかける。
返ってきたのは、二人が考えもしなかった言葉だった。
『こちら広報331。イスルギ民警、機動広報三課、救命重機係所属です。
イスルギ航空管制からの要請で、そちらの誘導のために合流しました』
「〈イスルギ民警〉って……民間警察?」
『はい。コールサインはスワローとお呼びください』
緊張をほぐすような優しい呼びかけの奥に、二人は自機とは別のエンジン音を感じる。この雲の中、誰かがすぐ近くを飛んでいる。
『206、こちらスワロー。現在そちらの左前方を飛行中です。誘導のためにライトを点灯しますので雲を抜けるまで追尾をお願いします』
そして力強い点滅が、雲のグレーを切り裂いた。
それは航法灯の緑でも着陸灯の白でもなく、回転灯の赤であった。