89.帰らないで
玄関のドアを開けると、真っ暗だった。
黛がヒヤリとしてと後ろを振り返ると、七海が腕を組んで不審な視線を向けていた。
「ちょっ、何だその目は」
「……誰もいないんじゃない」
低い声に黛は慌てた。先ほど『嘘は吐かない』と断言したばかりで、これでは更に怒らせるだけだと彼は焦って弁解した。
「さっき、メールが入っていたんだ。絶対いる……!」
「だって真っ暗……、私帰る」
クルリと踵を返す七海の腕を、黛は思わずガっと掴んで止めた。
「ちょっと待てっっ!きっと、寝てるだけだ。―――いや、待ってくれっ!」
命令口調を懇願に言いかえると、七海の態度が軟化する事に黛は気が付いた。
立ち止まりはしたが振り向く様子の無い彼女に、イチかバチか黛はゆっくりと言葉を選んで再度頼み込んだ。
「スマン、ちょっと待ってくれ。今確認してくるから―――それで本当にいなかったら家に寄らなくていい。送って行くから」
すると七海は少し黙っていたが、やがて諦めたように肩を落として振り向いた。
「わかった、待ってる。お父さんいなかったら帰るからね」
「勿論」
黛はしっかりと頷いて、灯をつけて玄関に七海を残して居間へ向かった。
パチリと蛍光灯を付けると、広いリビングが明るくなる。やはりここにはひと気は無い。更に奥の部屋へ向かい、重量のある思い扉を開けると―――カウチにだらしなく寝転んでいる壮年の男が目に入り、ホッと胸を撫で下ろした。
大きなオーディオセットからガーシュウィンが流れている。きっと疲れて帰って来たのだろう。昂ぶった気持ちを落ち着けるため音楽を聞いていて―――いつものように彼は寝落ちしてしまったのだと黛は推測した。
部屋に常備されているタオルケットを拡げて、疲れた顔をしている父親の体に掛けると、黛はすぐに玄関に取って返し七海を招き入れたのだった。




