3.突然のお誘い
「お先に失礼します」
そう言って廊下に出た時、七海のスマホが震えた。
この間放置して新に怒られたばかりだった事を思い出し、七海は慌てて鞄からスマホを取り出した。
「えっ、今?」
何とメッセージを送った主は外で待ち構えているらしい。
事前に連絡くらい入れて欲しいものだと七海は溜息を吐いた。
(まあ忙しいから仕方無いか)
すぐに諦めて、七海は少し早足でエレベーターに飛び込んだ。
会社のビルの前で、ムッツリと機嫌の悪い男が立っている。
ジーンズに白いボタンダウンシャツと言う簡素な装いに、ワンショルダーのリュックを背負っている。傍らには黒いフレームの軽そうなクロスバイク。
何と言う事も無い普通の格好なのに、とてもキラキラして見えるのは何故なのか。
久し振りに会う『友人その二』を目にして、七海は首を傾げた。
「遅い」
と低い声で言われたけれど、こっちはついさっきスマホにメッセージを貰ったばかり。ちゃんと早歩きで降りて来たのに文句を言われる筋合いは無いと、七海は胸を張った。
「そんな事ないよ。どうしたの、仕事は?」
「終わった―――終わらないかと思ったけど。腹減ったからなんか食おうぜ」
黛は、そう言って渋面を崩しニパッと笑った。
高校を卒業して八年、美少年は凛々しい美青年に成長した。激務が続く所為か少し頬がこけて精悍さが増したようで七海はクラクラしてしまう。
「いいけど……」
黛の容姿は七海の好みのドストライクなのだ。
衒いの無い笑顔を向けられると、つい思考が麻痺してしまう。
七海も久し振りに会えた友人を追い返すような真似はしたく無かったので、眩暈に耐えながら押し切られるように頷いたのだった。
黛と七海は高校一年生の時から友人関係にある。
七海が黛に告白した事が切っ掛けだった。黛は名前も知らない七海の告白をアッサリと承諾し、付き合う事になった。当時クラスメイトだった七海に全く関心が無かったのにも関わらず。
七海は違和感を感じ二週間で付き合いを解消する事を提案した。しかし以来、何故か友人関係が続いている。
七海は重度の面食い。そして黛の『顔』は七海の好みそのものだった。
黛は幼馴染の彼女で小学校からの同級生、鹿島唯を好きだった。
元々お互い恋愛感情が無い事に気が付いたのだ。
それから黛に連れられて唯と話すうちに、七海は唯の方と仲良くなってしまった。今では一番の親友と言えるくらいだ。
医大に進学した黛は三月に国家試験に合格し、晴れて大学を卒業した。
現在は研修医として大学病院に籍を置いている。大学時代も寝る暇も無いくらい忙しかったようだが、就職してからは更に忙しそうだった。現に七海は黛と一ヵ月ほど顔を合わせていなかった。メッセージアプリでも数回連絡を取っただけ、それも寝惚けたような唐突なメッセージが来て返事を送っても反応が無いと言うもの。
「なんか、大変そうだね。クマが出来てますよ」
七海が目の下を差すと、黛は笑った。
「寝てないし。ご飯食ったら寝落ちするかも」
「え!私非力だからタクシーまで運べないよ。新君も呼ぼうか」
新は昔からゲームで遊んでくれる黛の事が大好きなのだ。
「新は飲み会。任せられるのはお前しかいない」
黛が七海の肩にポンと手を乗せた。七海はイヤーな顔でその手を見る。
「唯も英語教室だしなぁ。そうだ、信さんを……」
「信と一緒に飲んだら、女が寄って来て大変だから嫌だ。ただでさえ疲れているのに」
「まーねー……」
七海はその可能性を否定できなかった。
結局二人は黛の家から歩いて十分の焼き鳥屋に向かう事になった。七海が帰る時のタクシー代を黛が持つと条件を付加し、合意に至ったのだ。七海は地下鉄で黛はクロスバイクで黛のマンションの最寄り駅で落ち合う事に決まった。
その場で別れると言ったのに、黛は駅まで七海を送り届けてから再びクロスバイクに乗って走り去った。
相変わらず無駄に親切だなぁ、と七海は思った。
黛は時折このような優しさを見せる。
婦女子の心を射抜くシステムが本能に組み込まれているに違いない、と七海は確信した。
しかし何故かつなぎとめるシステムは持ち合わせていないらしい……大学時代も聞くたびに彼女が変わっていた。もういつどんな子と付き合っているか覚えていられない程だ。
駅へ連れ立って歩くそんな二人を見ながらヒソヒソ話しているのは、またしても七海と同じ課の女性達だった。
そしてまた七海は自分が見られているなどと気が付かないまま、その場を後にしたのだった……。