僕の純朴な心情 または僕が如何にして配慮するのを止めて差別主義者になったか
改稿しました。ほぼ別物です。元のバージョンは別作品に投稿。
僕はかつて朝日新聞を購読していた。慰安婦関連のことが載っているときも、それが誤報だとされたときも読んでいた。裏切られたとは思わなかった。僕は朝日だからというか、新聞だから読んでいたのだ。天気とかテレビとか、そういうものを見られれば十分であって、特別朝日に対して思うことなど無かった。どちらかと言えば愛していたのだ。お花畑と言われようが、一発だけなら誤射かもしれないだなんて言葉を。
そんな僕が朝日を憎むようになったのは、知り合いがかつて朝日新聞に勤めていたからだ。
「朝日新聞に復帰する? 今、慰安婦問題で揉めているのに」
そう、知り合いが朝日新聞に行くと言ったのは慰安婦問題のすぐ後だった。朝日新聞は仮にも大手新聞社であり、色々と繋がりがあった。新人にも確かに優しかった。恩を返せと朝日は云った。
「どうして?」と僕は問うた。知り合いは答える、「社員の入れ替えをやっているらしい」僕は言った。「社員の入れ替え」知り合いは「今回の件を受けての反省」と答えた。僕は知り合いの言葉を繰り返した。「反省」僕は続ける。「朝日に恩がある人物を呼び戻すことが反省」知り合いは「そうだね」と言った。
次第に僕は新聞もテレビも見ないようになってしまった。見る価値が無い。
僕の心は何処へ行くのだろう? 辿り着いたネットは右翼ばかりだ。少なくとも、そういう意見が目立つ。
「在日は死ねばいいのに」
「相変わらず韓国人は糞だな」
僕は……お花畑な国に住んでいるのだから、中々馴染めなかった。僕は果たして日本人だろうか? 彼らの言うことを聞いているうちに思う。君が代がつまらないと思うならば非国民ですか? 天皇の名前が言えなかったら非国民ですか。
そんな風に反発はしていたけれど。
「まあまあ、落ち着いて。そんなことを言っていると誤解されます。少しずつ目的の為に平和的手段で頑張っていきましょう」
僕はこれを偽物だと思った。貴方達はそんな連中ではないのだと、もっと醜いのだと。彼ら自身に穏健を求めていた僕が彼らの穏便を否定したのだ。それは僕の中で起った思想の萌芽。
安保法案が通ったとき、そこには暴力が在った。形だけの抵抗、或いは本気だったのか。僕は昔にもそんなようなことが有ったことを思い出した。戦前のことだ。でも、必死に抵抗したところで、結局法案は通る。そうして日本は戦争を始めた。
「戦争反対!」
ところで、良い戦争も悪い平和もあったためしがないとはアメリカ人の言葉だ。ならば僕らは戦争をするべきではないのだろう。平和を愛して戦争を嫌う。だけど僕は、戦争反対だなんて言いたくは無かった。安保法案に反対する人々と一緒には。
何かがおかしいという感覚があった。狂っている。賛成するか反対するかが問題なのか? 正しいか正しくないかが問題なのか? どうして間違ってはいけないんだ?
「明らかに憲法を違反している」
「憲法学者の大半が違反と指摘し……」
貴方達が一体何だってんだ? 僕の中に怒りが燻っていた。数が問題なのか? 学者の大半が違反だと言ったらそれは違反なのか? 壊憲なのか? 壊したら問題なのか?
「9条をノーベル平和賞に!」
「9条はアメリカに押し付けられたものだ」
誰が作ったかが問題なのか? 違う。9条が僕らの平和を保障したのか? 違う。僕らは戦争を賛美するのか? 違う。
違う! 何かが違う!! そんなことはこれっぽっちも、問題でない。誰かが論点を逸らしている!!!
そしてその誰かとは皆さま全員、可笑しなことにそれを解ってやっている人も混じっている。
僕はその誰かになることを拒否した。
僕は法解釈の専門家でない、学者ではない。安保法案が間違いなのかも分からない。でもそれは、誰にも分からない。正しかったかどうかなんて、のちの歴史家が判断したりすることだ。一介の市民である僕には、分からない。
分からないけれど。分からないからこそ。言いたいことがあって、貫きたいことがある。
「僕はただ『納得』したいだけだ」
本当に、それだけ。思えば常に正しさを求めて来た。中立を装ったりもした。僕が平和主義者だったのは単にそれが正しいと思っていたからで、僕がそれを捨てるのもまた別の正しさを知ったからでしかない。
そしてそれが成り立つのならば、そういう思想が戦争を教えたのならば、僕は、戦争を正当化するかもしれない。
「僕は改憲に賛成です」
戦争を行った僕の爺様にそんなことを言った。理由? 9条にノーベル平和賞なんて与えたくないから。僕は9条を絶対視しない、信頼しない。僕が信じるのは日本人だ。そうあるべきでしょう?
僕はそういう風に生きた、かった。
愚直に平和を叫びたかった。
でもそれが叶わないとしたら。
思想及び言論の自由が失われたなら、そういう訳にはいきません。
僕が平和を叫ぶためには、最低限平和を嫌う人が、反対意見が必要なわけですから、僕はまず、戦争賛成という意見を持つ人を探さなければなりません。
そのうえまともな人は日本の、現実世界の何処にいるのでしょうか?
僕が戦争を正当化しなければならないのでしょうか。他ならぬ僕が。
あんなにも平和を愛していた僕が。
「あなたは戦争で日本人を死なせるのか」
「あなたは友達が攻撃されているとき助けないのですか?」
感情論で語るな。
「美しい国をとりもろす!」
そんなもの何処にあったんだ。何時、日本が美しかった。教えてくれ、何時日本が美しかった。それが問題? …………違う、そうじゃない。何時日本は汚れた?
今の、日本は、少しも、美しくないのか!!
だとしたら笑える話である。僕はこのことをさっぱり言わなくなった首相に親しみを懐いた。
「子供が1%でも存在するのならば、この法案を通す訳には」
確かに。でもどうして今まで0%だった? こんなにも、賛成する人がいるというのに。どうして平和だったんだ? どうしてそういうことになっているんだ?
後ろめたさから発する言い訳、通したってそんなことにはならない。それも違う。
目に見えない恐怖が目に見える恐怖に変わるだけだ。
それが過剰反応として表れている。
政治家の失言を心待ちにしている誰かは、せめて沈黙すべきなんじゃないか?
誰もが政治家になっているような気がした。
「解りあうことが両国にとって最善の道だと」
嘘だ。日本人は関東大震災のときに朝鮮人を虐殺したんだ。こんなの、内底に差別意識がないと出来た芸当じゃない。それとも嘘なのか? 殺したのが嘘だっていうのか? 或いは、彼らが悪党だったから殺されたとしても仕方がないって?
なら朝鮮人は、日本人は、この数十年間で変わりましたか?
何も変わっちゃいない!
「日本人として恥じない行動を」
嘘だ。それを言う人々こそが恥を体現している。何故なら、言葉一つ一つに上から目線、同情という優越的感情が滲み出ているのだから。
「朝鮮人を守れ!」
嘘だ。本当に守りたいものは別にある。それさえ守れれば他はどうだっていいんだ、見捨てたって構わないんだ、嘘吐いたって許されるんだ。それはプライドなんだ、優しい人間であるという証明だ、差別主義者でないという、嘘つきの証明!
「女性の平等を」
公正を求めよ! はっきり言え。権力を下さい、地位を下さい! それか奪い取らせてください! 弱者の仮面を脱ぎ捨てろ!!
「でもそれっておかしいよね」
踏み潰せ!!
「聊かやりすぎではないかと」
壊せ!!! 僕の中で一つの思想が花開いた。中立とか正義とか平和とかそんなものはこの日本にあってないようなものだ。日本の編集者不足というのがようやく分かった。誰もが作者に、発信者になりたがっている。嘘も厭わない。
僕は気が付いた。痛みが足りない。
誰もそれを背負わない。……嘘の根源の一つだ。
議論というのは基本、同じ知識を共有したもの同士でやるべきものです。ソクラテスは云いました、私は知らないということを知っている。どういう意味なのかはさておき、僕は主張します。知らないことを知っていると言ってはならない。人はどう生きたって知らないことの方が多い人生を送ります。
噛み合わない議論というのは、多くの問題を一つの問題として扱ってしまうことによって起こると僕は思っています。僕らは常に一義的な見方しか出来ない、ですから他人の意見を取り入れたりするのですが、その時に選り好みをしていると当然のことながら偏ります。どうやったって偏ります。この時、知識の格差が生じます。
同じ意見を共有するもの同士で集まったところで、その人その人で知識の保有量に差があるのですから、噛み合わないこともあります。その時にやるべきことは、知識の共有です。すり合わせます。ところが上手くいかない。同じ意見を共有してはいなかったのです。
味方に足を引っ張られてはいませんか? 工作員が雑じっているのではないかと思いませんか? それだったら話は簡単です、その人は最初から味方ではないのです。敵です。徹底的に弾圧しなさい。受け入れられないことを受け入れた結果矛盾を起こしてしまうくらいなら。そして独りになりましょう。
あなたの意見をはっきりさせましょう。、叫びたいのか、叩きたいのか、守りたいのか、それとも平和を愛すのか。過程が抜けています。どうして、だから、つまり。
僕の意見ですか? コロコロ変わってますよ、影響を受けやすい性質で。それでも根っこは変わっていないと信じています。誰かを傷つけて死ぬくらいなら自分が死んだ方がマシです。僕は一貫して平和主義者です。別に僕は非武装なんか説いちゃいません。だって矛盾しているじゃありませんか、この思想を説くだなんて。これを実行した人が、傷ついて死んでしまったら、誰かを傷つけて死なせたのと同意でしょう? 本来なら誰かを殺して生き残るべきという事実に対し、弱さゆえに行う自殺で、自分への慰めになる、そういう我儘ですから。正しいことじゃないんです。
ガンジーは云いました、戦えるのに敢えて戦わ非暴力ず、それでいて従わない非服従というのが気高いと。最初から戦えないというのは論外ですね。
さて。
「センソウハンタイ!」
「アベハンタイ!」
「シネ」
「シネ」
「「「シネ」」」
僕は差別主義者であると今ここに宣言します。悪人であると宣言します。痛みを知れと言います、悪になれと言います。悪人なら救われるというのではありません、関係ない。
定められた歴史に反対する人々、社会に反抗する人々、その他反逆する人々。悪を自称せよ。正しいかどうかなんて、そんなの間違っているに決まっている。だから、悪を名乗れ。悪を実行せよ、悪逆せよ! 間違っているというのなら、間違っているのなら! 正しいとされてきた一切合切に対しての悪となれ! 正しさを自称するな! そんなのどうだっていいから!!
間違っているという痛みを抱え、それでも悪を邁進しろ!!!
だから僕はシールズを……
「民主主義ってなんだ?」
「とりま廃案」
「本当に止める」
何時かそのエゴを剥き出しにしてくれることを期待しています。
知識の深化が望めないのなら、二元論まで浅化させるしかない。安保法案が解りづらいのなら、それに対抗するものは、解り易さが求められる。
だから素直に、戦争に行きたくないって言って。それだけを愚直に。
その思想だけで十分です。理屈は必要ない。妥当性も、何も。