旅立ちの日に
春、Snow Whiteは開店休業だった。新生活への期待と喜びで、切実な願いなど生まれないのだ。まぁ、社会人はあまり変わり映えしないとは思うが、異動やら何やらがあって慌ただしいのは確かだろう。
社会が忙しいのに反比例するように、この季節のSnow Whiteはお客が来なくて一日中暇だ。
「暇ですね―…」
「それ、今ので五度目ね、サキさん」
テラステーブルでダラけるサキを横に、店長はカウンターの中を雑巾掛けしていた。
「だって暇なんですもン。暇で暇でつまんないですぅ」
「だったら手伝ってくれても良いんだけど?」
「やーですよ、私の範囲終わりましたもン。店長が遅すぎるだけですよ、カウンターの中しかないのに…」
「丁寧と言ってください…」
晴れて去年の冬、つまりはつい3、4ヶ月前、晴れて正社員見習いとなったサキは、この春休み、一日中店に居る。正社員見習いと言っても、未だバイト扱いは変わらないので特に変化はないのだが…
「ひまぁ…」
「…サキさん、いい加減にしないと、明日の予定を取りやめるよ?」
この言葉に、サキはビクッと身体を起こした。
「ややや、それは、それは勘弁ですよぉ! この暇の中、それだけが楽しみで今日まで生きて来たんですからっ!」
わたわたと、大げさな身振りはとても面白い。店長は思わず吹き出してしまった。
「ちょ、何笑ってんですか! 笑い事じゃないですよぉ…」
サキが泣きそうになってきたので、店長はさらに可笑しくなって、でもこれ以上は可哀想になった。
「ほんの冗談ですよ。前々からの予定だしね、ドタキャンなんてしたら私が怒られてしまいます」
「ふぇぇ… びびび、びっくりしましたぁ…」
目じりがかすかに潤んでいたが、また突っ込む面倒なので、店長はあえて何も言わなかった。
「てんちょー、悪趣味ですよー…」
「わるかったよ。それより、今更だけど、親御さんの許可は得られたのかい?」
「ええ! ばっちりです! 友達と旅行行くことにしたんで!」
サキは目を輝かせて、良い笑顔で言った。
そこに、パシっと良い音で店長の叩きが入る…
「って…」
「なに嘘で許可もらってんの。駄目でしょう」
パシパシパシパシ…
「でもでも。バイト先の店長と旅行なんていって、赦してくれると思います? いてて…」
「旅行じゃなくて、研修です。正社員見習いA、もっと自覚しなさい」
パシパシパシっ!
「そんな事言っても…いててて」
「全く…どうするんですか、ばれたら」
店長はやっとサキの頭をパシパシするのをやめた。
「その時は…そのときっす! 店長が何とかしてくれるって信じてます!」
「…まったく、しらないからね」
「へへへ…♪ て、てんちょー、この手は何ですか?」
依然として、店長の手はサキの頭の上だった。
「さぁ? 案外、よからぬ力を送っているのかもしれないよ?」
「またまたぁ…」
「さ、今日はもう帰って、明日の準備をしてきなさい。明日は早いですよ」
「は~い。了解です!」
店長の手は大きくて、なんか安心できた。取りあえず、去り際にポンポンと撫でてくれたのがちょっと嬉しかったりするサキだった。
♪
朝…
まだ太陽が昇り切っていないような時間。店長は既に店を開けていた。
ビルの間から光の閃光が射してくる。それは雷のように力強い輝きではないけれど、とても優しくて、包み込んでくれるような、銀色の…虹。
眠らない街東京と言えど、この瞬間だけは、街が沈黙する。それは、この美しい光景に、息をのんでしまっているのか…
「都会も、美しいものさ」
店長は店の前で一人ぼやいた。
美しい都会…
例えば、夜明け。
例えば、夕暮れ。
例えば、雨上がりに射す太陽。
例えば、雲の切れ間からさす光。
それはすべからく、変化、その瞬間。
朝から夜に、夜から朝に、雨から晴れに…
瞬間の魔法…人が最初に魅せられた、決して追いつくことのない刹那の魔法。
見つけた瞬間、それはもう変化した後になっている。
だからこそ、美しいのかもしれない…
「さて、感傷はここまでとして」
店長は店にもどり電灯を付ける。南向きのお店なので、今はまだ電灯なしでは暗すぎる。
少しだけ眩しくて、目を瞬かせるが、そんなものはすぐになれる。彼は、店の奥、厨房へと入り、そこのさらに奥へと向かった。
店長の私生活空間へとつながる廊下の途中に、それはあった。
以前、サキが見つけた時は、開かずの間、と言う事にしておいた扉…
しばらくその前に立っていて、やがて深いため息をついた。いや、深呼吸と言った方がいいかもしれない。
意外と緊張しているようで、そんな自分に店長は少しだけ驚いた。
カラン…――――
遠くで、扉を開けるベルの音が鳴った。
「ふぅ…」
「何してんるんですか?」
「なっ!?」
店長はグリンと背後を振り返った。そこには不思議そうな顔をしたサキがいる。
「いった… いや、いくらなんでも早すぎやしないかい?」
さっきベルが鳴ったばかりなのに。しかもちょっと首を捻って痛い…
「えー? 一応、もう五分前ですけど?」
サキは意外ときちんとした性格で、5分前行動が当たり前だった。待たせた事は…あるけど、時間までには絶対来る。
瞬間移動もかくやのサキの移動に店長は内心、頭を捻っていたが、考えても意味がないので忘れることにした。
「そういう意味ではないんだけど…それで、忘れ物はないかい? しばらく帰れないからね」
「大丈夫ですよ! キャリーバッグに全部詰めてきましたから!」
そういうサキの後ろに、大きなキャリーバッグが置いてあった。取りあえず、一か月旅行にでも行きそうな勢いだ。実際は、1週間もないのだが…
「荷物は邪魔になるって言ったのに…」
「細かい事気にしちゃダメですよぉ。それで、これからどうするんですか?」
サキは目を爛々と輝かせていた。この日を待ち侘びていたのだ。そう、この研修と言う名の旅行を。
店長は苦笑を浮かべる。
「まったく… 自分で持ってくるんだよ。これから、空港さ」
「じゃあ、品川駅まででて、小田急ですね!」
「そんな電車なんか乗らないよ。すぐだし」
「えっと~… まさかとは思いますけど…」
サキは店長越しに開かずの扉をチラ見する…
まさか、ねぇ…
しかし、店長は予想にたがわない行動をした。
開かずの間の扉が、ゆっくりと開かれる…
薄暗い廊下に、扉の隙間から光が差し込む。やがて少しの話声と、独特のアナウンスが流れてきた…
光は眩しくて、視界を白く染め上げる。ただ、音だけが耳をくすぐる。
「この店一番の不思議要素かな」
そんな店長の、深く響く声がとても心地良かった。
視界は徐々に慣れ、扉の向う側が見えてくる。
そこは…
「…くうこぉおおおおおおおおお!?」
成田空港の国際便受付前が目の前に見えていた。
この扉はあってないようなものらしく、誰にも認識されていない。
「いうなればどこでもドアだよ。空間と空間を扉という媒体で繋いだんだ。といっても、理屈じゃわからないだろうけど」
「ぜんっっっっっっぜん、わかりませんっ!」
「何だいその溜めは」
「驚きと突っ込み最大表現です!」
ぎゃあぎゃあ叫んではいるものの、サキは子供のようにはしゃいでいた。
こんな驚きが、新鮮さが、いきなり待っているとは思わなかった。
なんだか、此の先いっぱい面白い事が待っていそうな気がする。
「じゃ、搭乗手続きしに行くよ」
「はいっ」