第二章 8
めろんの離脱という重い事実を突きつけられようとも、現実は考える時間など与えずに当然のように朝日が昇る。
牛若丸の住処に集まった狂志郎達は昨夜の出来事を話した。
「なるほど、姫様が今日居ないのはそういうわけか。それで、これからどうする?」
「無論、光のを救出する。だが、同時に妖怪退治も行う」
「どうしてだ? 戦力は分散できるほど多くはないぜ?」
「分かっている。だが酒呑童子は炎のを誘っていた。つまり、竜の力に対する対策を練っているに違いない。竜の力が通じないとなれば俺たちに勝ち目はない。だから別の手が必要となる」
ことかが言う。
「私が妖怪を食えばその力を取り込める。京の都を騒がせているような大物じゃよ、取り込めれば間違いなく戦力になるよ」
「妖怪退治は多分私一人でなんとかなるから、天羽君たちには先に鬼の所に向かってもらって後から追いつくよ。上手くいけば三日後の夜には十分間に合うと思う」
「ふむ、聞いてる限りはなんとかなりそうか。私らは敵に気づかれないように移動するから進む速度を考えると三日後の夜は結構ギリギリだな」
頷いた牛若丸は言う。
「よし、弁慶。善は急げだ。早速鬼退治に向かうとするぜ」
「この俺がなんでこんな目に…………とほほ」
「天羽流、その恰好じゃ目立つ。山伏の衣服を用意してあるからそっちに着替えろ」
「分かった」
着替えと準備を終えると狂志郎達は外に出た。恰好が恰好なので数が集まっていると異様な光景である。
「それじゃ天羽君、三日後までに」
「無理はするなよ、天羽。お前は頑張りすぎる嫌いがあるけぇね」
「お前達なら心配はいらないと思うが、油断はするな」
三人は顔を見合わせると決意を秘めた表情で頷き、それぞれの方向へと歩き出した。のかな達を見送った所で牛若丸は言う。
「じゃ、私たちも行きますか。天羽流、方向はどっちだ?」
「どうして俺に聞く? お前の方が詳しいだろう」
「勿体ぶらなくていい。知っていれば教えてくれ」
狂志郎は呟きを漏らす。
「……洛外の西北、『大江山』が奴らの潜んでいる所に違いない」
「なにぃ? 何を根拠にしてそんな事が言えるんだ?」
「弁慶、その質問は意味が無い。なぜなら私たちは証拠をもらっても理解できないからだ。そうだろう? 天羽流」
狂志郎は参ったとばかりにため息をつく。
「食えんヤツだ」
「そうじゃなくちゃやっていけないんでね。大まかな見当がついていれば期限までには何とか隠れ家を見つけ出せるだろう。奴らに気づかれないようゆっくり急いでいくとしようか」
一同は京を出て山へと入る。険しい山道を警戒しながら進む最中、狂志郎は考える。これまでとこれからを。
誰も口にしなかったが、そもそも“黒幕”とやらを倒した所で世界が元通りになるのだろうか。この変容が『スタンス』の伝染による物であるのなら、おそらくは無理だろう。
それでもなんとかしようとするのは進み続けなければ潰れてしまうからと、これが自分たちの『スタンス』だからだろう。
世を乱す悪を駆逐する、ただその為だけに存在しそれ以上の意味を持たない。象徴にこそなりはすれ、あまりに抽象的で英雄などには程遠い。
まるで『伝説』だ。語り継がれるにつれ荒唐無稽に成り果て現実味を失った。
ついていけないと狂志郎は思った。現実に生きる者に『伝説』は必要ない。どこの誰が空を飛び、海を割ったとしても明日が良くなるわけではないのだから。
その『スタンス』の“ズレ”は時間が経つごとにひどくなっていく。のかなはコンスにおびえず、狂志郎は恐怖した。神話の中に不思議はあっても現実ならば精神病だ。どちらも正しく、あるいはどちらも間違っている。絶対的な物など存在しないのだから。
のかなやコンスは力を否定した。それ以上の何かを持たなければならないと主張した。清らかで正しい意見だ。しかし、現実に生きてはいない。
その力すら得られなかったからめろんは闇へと堕ちた。現実では誰もが強いわけではない。
のかなが答えを求めるように狂志郎も答えを探していた。現実に生きる人間として、たとえ思い通りにいかなかったとしても出した答えが泥にまみれていたとしても、時には妥協しながらでも、前に進んでいかなければならないと思っていた。
道すらない樹海を切り開き、時には休み、また進んだ。息をひそめて敵が傍を通り過ぎるのをやり過ごし、自然と一体となって進んだ。まるで草原を流れる風のように穏やかでありながら、それは着実に嵐の呼び水となる。
「なんとか間に合ったか」
三日目の夜が訪れる。目の前には鬼達の隠れ家である大きな屋敷があり、偵察をちょうど終えた所だ。警戒こそされているものの今までの潜入のおかげで敵にはまだ気づかれておらず、攻め入るには絶好の状態と言える。だが、のかな達は間に合わなかったようでギリギリまで待っていたがもう余裕もなく見切りをつけざるをえないようだ。
「鬼共が何匹居るのかは分からないが、こっちよりは多いだろう。まともにやりあったら負ける。ここは姫様奪還したらとっととずらかるぜ」
「分かった。潜入は事前の手筈通り俺一人で行う。サポートは任せるぞ」
「さぽ? ……ってなんだ?」
「……『手伝い』を任せるぞ」
「分かった。あと専門的な言葉は使わないでくれ、私たちには分からん」
「承知した」
頷いた狂志郎は音も無くその場から姿を消すと隠れ家へと一気に距離を詰めた。山の中にこれほどまでの屋敷があるのは不自然というよりは不気味だが、道理を説いても仕方ない。警戒こそ厳しいものの、センサーやカメラも無い油明かり程度の環境では忍び込むのは容易い。
体術に長けた狂志郎は闇の中に蠢く影と等しく、音も無ければ目を凝らしても見破ることはできない。
めろんの捕まっている部屋の前の見張りを一撃で昏倒させた狂志郎は中へと踏み込む。
「……誰?」
「俺だ」
感情の無い声でめろんは言う。
「今更来てどうするの? 私を無視しておいて、都合が悪くなったからって取り繕うの? 帰ってよ! あなたの顔なんてみたくない!」
「光の」
狂志郎は深く頭を下げた。
「悪かった」
「天羽……くん?」
信じられない物を見たという表情のめろんは怒りも忘れて黙り込んだ。その間に狂志郎は正直に話し出す。
「俺は怖かったんだ、段々と正気じゃなくなっていくのが。お前の顔で幻覚が見えて、俺はそれを遠ざける事でしか自分を守れなかった。お前が傷つくことは分かっていたのに俺は自分の事しか考えられなかった。全ては俺の弱さのせいだ。すまなかった」
「…………」
めろんは悲しみに満ちた声で言う。
「そんな事言われたって、私はもう戻れない。私はもう…………」
「!」
月明りが部屋に差し込み、狂志郎はめろんの頭部から生えるおぞましい角を見た。それはまだ途中なのか片方しか生えていないが、だからこそ歪でより不気味に感じられる。
狂志郎は驚きに言葉を一瞬失い、そして絞り出すように言った。
「だからどうした…………」
何かに対して怒るように狂志郎は語る。
「俺にこんな事を言う資格が無いのは分かっている。どうにかするなどと無責任な事は言えないし、仕方の無い事だと吐き捨てる事もできない。俺は弱者なんだ。しかし、俺だけではない。誰もが弱さを抱えている。それを克服なんてできるほど人間は強くなれるわけじゃない。だとしても俺たちは生きているんだ。ならば、きっと生きる事を諦めてはいけないんだ。お前は俺に気持ちを伝えろと言った。これがお前の本心なのか? そんな事があるはずがない。本当の気持ちを教えてくれ、言わなくちゃ伝わらないんだ! 俺はここに居る、俺はここで聞いている!」
めろんは瞳から涙を流し、叫ぶように言った。
「助けて、天羽君!」
狂志郎はめろんを縛る鎖を殴りつけ、それを破壊した。そして、めろんを抱きとめると優しく微笑みを漏らした。
だが、安堵もつかの間。どこかからパチパチという拍手の音が聞こえてくる。
「いやぁ、感動感動。素晴らしい三文芝居でございましたねェ。台詞が臭すぎて耳が腐るかと思ったぜ」
「酒呑童子!」
姿を現した鬼は不敵な笑みで聞く。
「化け物女はどこだ? 飼い犬みたいに待たせてンのか?」
「見え見えの罠にかかる馬鹿などいないという事だ」
「ふーん…………」
興味を失った顔をしたかと思った次の瞬間、弾丸のような勢いで狂志郎に襲い掛かった。
「キシャシャシャシャ!」
めろんを庇ったせいで回避の遅れた狂志郎は壁をぶち抜いて中庭へと着地する。周囲の暗がりでは鬼達が酒やつまみを片手ににやにやと戦いを見守っている。
「天羽君!」
「おっと、アンタは人質や。おとなしくしいや」
茨木童子にめろんを捕らえられた狂志郎は圧倒的不利な状況に焦りを覚える。
「チィ…………」
「どうした、顔色が悪いぜ色男」
「貴様に心配されるほどではない」
「この状況でまだ軽口を叩けるか。いいねェ、今すぐにでもその顔を歪ませたいねェ!」
酒呑童子が鎖を飛ばす、まるで生き物のように自在な動きを完全にかわしきることはできない。手元のバリアで弾きながら狂志郎はなんとか命をつなぐ。
「なかなかやるがいつまで持つかな?」
「くっ」
鬼と人間では元々の身体能力に差がありすぎる。その気になれば酒呑童子は一瞬で殺す事もできるだろう。それをしないのはのかなをおびき寄せるためだ。狂志郎は分かっていたが、しかしどうする事もできないでいた。
(このままではジリ貧だ。あの現象をもう一度起こす以外に手はない!)
クララが技として使っていたあの現象のみが狂志郎にとっての最後の活路だ。だが、やり方など分からず、背後に何者かの気配を感じるという事も無い。
(どうすればいい? どうすれば“あれ”に触れられる?)
あれほど嫌悪し、遠ざけていたコンスを今は渇望した。正気でなければ人間ではない、狂気でなければ生きてはいられない。
(コンス、どこだ、どこにお前は居る? 俺に死なれたら困るのではないのか? ならば、俺をこの状況から救って見せろ。例え俺が俺でなくなるとしても、俺は…………こんな所で――――マケルノハイヤダ)
何かがフラッシュバックする。
『狂志郎、今日から私達は家族です』
『しかし…………』
『立場上は上でも敬語も遠慮も要りません。苗字じゃなくて名前で呼んでください。私の名前を』
『………………』
「!」
はっ、と正気に戻った時、反応が遅れた狂志郎は地面に転がった。
「弱い、弱いナァ。人間ってヤツは。これじゃ姫様が失望するのも仕方ないってもんだネ」
「………………」
狂志郎は痛みをこらえて立ち上がる。
「だとしても貴様には負けん」
「あらー、まだ元気みたいじゃないの。もうちょっとだけ楽しめそうだなァ!」
打たれながら狂志郎は幻覚を見ていた。
顔も名前も分からない誰かと会話をしている自分。確か大切な人だったような気がするのに何も思い出す事ができない。記憶でも奪われたかのように欠落している。自分がいつからこうだったのかさえ今思えば不確かだ。
それでも心が震えるのはどこかに思い出が残っているからなのだろう。忘れるわけにはいかないと誓ったからなのだろう。
「ぐはっ!」
「天羽君!」
膝をついた狂志郎を酒呑童子は見下ろす。
「あっけないね、前菜程度にもなりゃしない」
「…………はぁはぁ……コンス、俺の……記憶は………………」
「もう飽きた、死ね」
瞬間、
「GAAAAAAAAAA!」
「!」
飛び込んできたのかなが酒呑童子を殴り飛ばした。
「大丈夫!? 天羽君!」
「……遅いぞ」
「ごめん、ちょっと手こずっちゃって」
「よし! 反撃開始じゃよ!」
共にやってきたことかはまさに蜘蛛と人間を合わせたような化け物で辺りに蜘蛛の糸を展開し、見物気分だった鬼共を恐怖のどん底に陥れていく。辺りに響く悲鳴を聞いて邪悪な笑みを浮かべる様子はどちらが悪者か分からないほどである。
「これはまずいどすなぁ、ここは人質を使って…………」
「そうはいかないぜ」
機会をうかがっていた牛若丸と弁慶が割り込み、茨木童子の手からめろんを救出する。
「ちぃ、人間風情が!」
「おう、人間様による鬼退治の時間だぜ」
のかな達の登場で一気に形勢は逆転した。だが、壁に叩きつけられた酒呑童子は不気味に笑みを浮かべている。
「くくく………………」
(なんだ、あの笑みは…………追い詰められたという風ではない)
のかなは気づいていないのか、飛び出すための準備姿勢を取る。
「あの鬼、一気にとどめを刺してやる!」
「待て! 炎の!」
静止の声もむなしくのかなが近づいた刹那、
「ニィ」
酒呑童子の手から光が放たれ、悲鳴と共にのかなとことかは倒れた。その光の意味を理解した狂志郎は信じられないという表情で呟く。
「アンチサーキットか!」
魔法制御回路を持つ者に対抗する兵器として作られたそれは発動すれば広域にわたって作用し、身体改造をしている回路所持者ですら行動不能になるほどのダメージを与えるという。デバイスがあればある程度は軽減されるが、逆に言えば無い状態で食らえば一溜りもないだろう。
「どうして貴様がそんな物を…………。それは失われた技術のはずだ」
酒呑童子はあざ笑うように語る。
「親愛なる『お母様』が俺に授けてくれたのサ。あの化け物共にはこれが効くってな」
「お母様だと? お前達の親玉が生物工学に長けた未来人である事には違いなさそうだな」
「さあね、冥土の土産にくれてやろうにも俺は何も知らねぇ。まあ、ここから地獄は近所だ。土産なんてなくても気にはしないだろうぜ!」
「くっ!」
狂志郎は倒れたのかなの前に躍り出ると酒呑童子の攻撃を受け止める。ことかの方にも援護に行きたいがあいにく体は一つだ。ここで死んでも分身が居ることかは最悪なんとかなると割り切り、迷わずに応戦する。
「どうした? いつかみたいにそいつを見捨てたりはしないのか?」
「お、俺は!」
「聞こえるぜ、お前の心の声が。苦しい、投げ出したいってな。意地なんか張らずにそいつを諦めればほんの少しだけ長生きできるかもしれないぜ? 俺はな、人間なんてどーでもいいんだ。力も弱いし、すぐ死ぬ。ほんのちょっと目障りなだけでその気になれば無視できる程度の存在だ。けど、その化け物は駄目だ。鬼の絶対的な力を揺るがす。そいつは最優先で殺さなくちゃいけない。だから、素直にそこをどけばそいつが死ぬまでの間、お前に逃げる時間ができるだろう。俺はどこに行ったかもわからない人間を血眼で探すような趣味は無いから、それで無罪放免ってわけだ。どうだ? 正しい選択ってヤツがどれなのか考えなくても分かるよな?」
「………………くくく」
狂志郎は声をあげて笑った。
「ふふふふ、ハハハハハハ!」
「分かったならそこを…………」
鋭い眼光で狂志郎は言った。
「正しい選択とは貴様を倒し、こいつを守る。ただ、それだけだ!」
「そうか、人間ってヤツはそれに加えて馬鹿なのか! 救い難いな!」
死を前にして狂志郎は微笑んだ。後悔はなかった。体が痛んでも、心が痛まなければそれでよかった。殉教していけるのがむしろ清々しいくらいだった。
(俺は一人では死なん…………。せめてこいつだけは道連れにしていく…………!)
覚悟が決まると共に一切の邪念が消えた。恐怖も、欲も、愛も、命すら無かった。深淵の虚無の中に閃光が走った。それを消し去ろうと手を伸ばした時、声が響いた。
「待って!」
「!」
集中の乱れた狂志郎はすんでのところで攻撃をかわしたが、浅くないダメージにまたも倒れこむ。
声を割り込ませためろんは邪悪な笑みで言う。
「ねぇ、酒呑童子。その化け物は私にやらせてよ。私がこうなったのも全部そいつが悪いんだ。私が殺してやらなくちゃ気が済まないよ」
「………………」
それが演技であるのはさすがに分かっていたが、その行動を面白いと思った酒呑童子は愉悦に満ちた笑みを漏らした。
「いいぜ、お姫様。好きなだけ殺しなよ、ククク」
めろんの凶行に牛若丸は焦りを覚える。
「なに考えてんだ、あの姫は! 早く止めないと!」
「おっとどこ見てはるんですか? あんさんの相手はあっしですわ」
茨木童子に邪魔されて牛若丸はその場を離れる事ができない。
「ちぃ、弁慶!」
「無茶言うな、こっちも手一杯だ!」
めろんは山刀を抜き、ゆっくりとのかなの元へと近づいていく。狂志郎は何とか止めさせようとするも体が言うことを聞いてくれない。
痛みと焦りで荒い息の狂志郎にめろんは言う。
「天羽君、もういいから。もう十分だから。もう救われたから。だから…………」
「光の…………」
「私、間違っちゃった。今までずっといい子で居ようって間違えないようにしようって生きてきたけど、全部台無しになっちゃった。私、もう駄目だよ。もう取り返しがつかない。ここで終わりなんだよ」
「終わりなんかじゃない。終わりになどさせない」
めろんは泣きながら言う。
「終わりにさせてよ! 私は苦しいの! これ以上、誰かが傷つくくらいなら私はその人を殺す。だって、もう誰にも苦しんでほしくないから…………!」
酒呑童子は声をあげて笑う。
「アハハハハハ! こいつは傑作だ、苦しんでほしくないから殺すとは。なんとも狂っている、素晴らしいネ」
「………………」
めろんは言う。
「天羽君、今の内に逃げて。ここには助けるべき人間は居ないから。おぞましい化け物しか残っていないから。この罪は私だけが背負っていくから」
「―――――――!」
狂志郎は痛みすら忘れて立ち上がっていた。感覚が無くなったわけではない。それ以上に虚無感が胸を包んでいた。
(ああ…………)
壊れてしまえと思った。こんな無常な世界なら、こんな空しい事を見逃す自分なら。もがいてもどうにもならないとしても、このままではいられない。なんでもよかった、この状況をどうにかできるものなら。奇跡など期待してはいない。現実は諦めと妥協の連続だ。それでもこのままでは終われない。
――――――あの日に、約束をしたのなら。
『狂志郎、あなたは何故ここに立つのですか?』
どこかで聞いた声を今ははっきりと耳で聞いた。
「…………愚問だな」
狂志郎は淡々と語った。
「あなただってここに立っているだろう」
明後日の方向を向いている狂志郎は現実の風景を見ていなかった。遥か遠くの何かに焦点を合わせ、それをまっすぐに見つめている。
雰囲気の変わった狂志郎を見て、不思議に思った酒呑童子は一撃で倒された事でおぼろげにしか覚えていなかったあの現象を思い出し、顔を青ざめる。
「や、やめろ! 変な動きをするな! 今すぐに殺して……ぐえっ!」
「天羽君! 私たちに気にせずに打って!」
酒呑童子は自らにしがみついてきためろんを振り払うようにもがく。
「このアマ! このための時間稼ぎか、この卑怯者がぁ!」
狂志郎は光へと手を伸ばした。他の誰にも見えていない幻覚の光。だが、誰にも触れられていないからこそ清らかだ。それを握り潰すと照明が落ちたかのように世界は暗黒に満ちた。一筋の光さえもない完全な漆黒の中にいくつもの雑音が入り込み渦を形成していく。
『誰も私から逃れる事はできない』
『そうかい。じゃあ、死ね!』
『私が居なくならせてあげる』
『邪悪ですわ!』
『何ふざけた事言っとるんじゃ、殺すぞ!』
それはやがて怪物と化して狂志郎を飲み込もうと襲い掛かってくる。怯むことなく真正面からそれを打ち砕くと、光と影は反転し、解放されたエネルギーは激しい嵐となって世界に反逆する意思となる。
「おおおおおおおおおおおおお!」
殴りつけた手の先から体が崩れていく。だが、体が枷になるというのなら必要ない。全ては一瞬のために。誰よりも早くたどり着くために。
「きゃっ!」
「させるかぁぁぁぁぁぁ!」
めろんを振り払った酒呑童子が迫る、だが一瞬早く自由になった狂志郎の力はまるで引き寄せられるようにそれへと襲い掛かる。
「うぎゃあああああああああああ!」
抵抗する間も無く、触れられた場所からぼろぼろと酒呑童子の体が解けていく。不思議な事に血の一滴も出ずに分解された破片は煙となって消え去ってしまう。断末魔が上がったと思った次の瞬間にはすでにそこに鬼の存在の痕跡というものはひとかけらもなくなってしまっていた。
「これはまずいどすえ、さっさと逃げましょ」
隙を見てしれっと逃げ出した茨木童子に牛若丸は憤る。
「あっ、くそっ! 待て!」
「牛若丸! あんな奴に構ってる場合じゃないぜ!」
「ちぃ…………!」
ドーム状に広がり始めたエネルギーは鼓動を早め、やがて激しい爆発を起こして全てを吹き飛ばした。鬼の屋敷や辺りの木々、生物、地面、果ては空間その物にすら干渉し、そのバイアスのままに変容させていく。
やがて世界は力の行使に耐えられなくなったかのように軋み、崩壊した。




