プロローグ
プロローグ
日が暮れてきた事を示すように海が赤く染まる。
それを確認して遊びに没頭していた子供達の動きが止まった。
「イギル!もう暗くなってきちゃう」
その少女の声にイギルと呼ばれた少年が振り返る。
「そうだね、帰ろうか」
2人はそれまでしていた遊びを切り上げ、他の子供達と別れ家路についた。
今日の晩御飯は何かという話をしながら田舎の一本道を2人で歩く。
家にたどり着く頃には、既に辺りは暗くなってきていた。
見上げると一面の海。
別名アビス。
昔はそう呼ばれていたらしいが、今天上に見えているもの以外に海と呼べるものは見当たらない。
父が言うにはその事から、天上を一様に海と呼ぶことになったのだという。
遅い時間になったその海は濃紺へと姿を変え、海中に住む生物達が自らを発光させる。
そうして出来た光が自分達の歩いている道をほんのりと明るくしてくれた。
森を抜けたところで我が家が見えてくる。
白いレンガ造りの小さな家、壁につけられた貝殻は家を建てたときに皆で付けたものだ。
「アイル、競争しようか」
それだけ言うとイギルが玄関に向かって走り出す。
アイルもあわててイギルを追った。
『ただいま!!』
2人で声を揃えて玄関の扉を開ける。
先ず目に入ったのは赤く揺らめくペチカ。中からはスープの美味しそうな香りが漂って来ている。
しかしいつもその場にある母の姿が見当たらず、部屋を見回す。
「?」
視界に飛び込んできたのは部屋の奥を睨む父と母の姿。
そしてその奥には、
武装をした盗賊が数人立っていた。
「これは…黒い髪を持った子供とは…」
そう呟いたと思うとイギルを見る男の目の色が変わる。
「こんな山奥で隠居生活とは、どんな引きこもりが出てくるかと思えば…とんだお宝が出てきたな」
両親の表情が苦渋に歪む。
それだけで11歳の子供にも、これは奴隷狩りなのだ、という事が理解出来た。
田舎暮らしで奴隷商人に出会す事すら無かった。
その為か、今まではどこか遠くの存在として認識されていた奴隷狩りが目の前で行われている。
そう思うと、浮遊感にも似た目眩に襲われる。
そんなアイルの様子を知ってか知らずか、父が壁に隠していた真剣を取り出して言った。
「エリミナ、子供達を連れて逃げなさい」
父の低い声を聞いて少しだけ落ち着きを取り戻す。
父は剣を一見するとこちらの様子を伺っていた盗賊から脇差しを奪って先端を頭と思われる男に向けた。
いつも穏やかな父が普通では見ることの無い俊敏な動きを見せた事に驚く。
イギルとアイルが驚きで動けないでいる間に今度は母が動いた。 父の持っている剣を掴んでアイルに持たせ、子供達の手を取って外へと駆け出した。
走り慣れた道を走り抜ける。
自分の手のなかにある慣れない重みに息苦しさを感じながらも、背後で響く馬の蹄の音が怖くて足を止められない。
暫く走ると古びた教会が目に入る。
母は2人を連れて雪崩れ込むようにその中へと入っていった。
聖堂の前、教壇の下に母が入り込むと鈍い音がして隠し扉のような物が現れた。
「ここに入って、物音が全く聞こえなくなったのを確認してから出るのよ」
言い聞かせる母の声に呆然として頷く。
「それと、ここを出たら家ではなくて北にあるテントを探しなさい。ひたすら北に行けばある筈だから」
それだけ言うと母は扉を閉めてしまった。
2人で手を握り合い、息を殺してひたすらに待つ。
先程から母の声と共に男の声も聞こえてきていた。何か口論をしているようだが、内容までは聞き取ることが出来ない。
男が何かを叫んだと思うと揉み合うような音が聞こえ、やがて何も聞こえなくなった。
抱えていた剣をイギルに手渡して扉を押し開ける。
外の様子を窺うが、誰かがいる様子は無いようなので体を外に出した。
「お母さんを探しに行く?」
イギルが隠し扉を閉めながら聞いてきた。
アイルは直ぐに首を横に振る。
「お母さんの指示に従おう」 そう言って、外に出ようと扉の方へ歩き出した。
しかし直ぐに聞き覚えのある声に行く手を阻まれる。
「どこに行こうとしている?君達の向かう方向は母親の胸の中だろ」
「…!!!?」
先程迄母と揉み合っていた人物だ。
隣でイギルが剣をきつく握ったのがわかる。
隙を見せてはいけないと本能が警鐘を鳴らして男を思い切り睨む。
しかし体が強張ってしまって上手く動く事が出来なかった。
男が品定めをするような目で2人を見下ろし、酷く緩やかな足取りで近寄ってきた。
脇に差した剣をいつでも抜けるように手をかける。
恐らく逃げようとすればすぐさま切り捨てられるだろう。恐怖と現実味のなさに頭がくらくらする。
突然男が目を見開いた。
頭の上に疑問符を浮かべていると視界の隅に煌々と輝くものがあることに気付く。
横を向くと唖然としているイギルと目が合い、その手には光源が握られている。
父の剣が光を放ったのだ。
「………アイル…」
イギルの呼び掛けに体が反応した。
その鞘から鋭い本体を抜き取る。
その勢いのままに男が抜き取ろうとした剣を弾き飛ばし、遠心力に吹き飛ばされそうになるのを必死に堪える。
そうして空中で一瞬だけ静止した剣を振り上げた。
それから重力に任せて下ろされる剣が、男の頬から腿にかけてを深々と抉る感覚が手に伝わってくる。
悲痛な叫びがこだました。
アイルはその手にあるずっしりとした重みから血が滴るのを呆然と眺めている。
イギルはアイルの手を取り駆け出した。
母が託した場所を目指して。