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ありあけ幻奇譚  作者: 浜月まお
第三幕 不浄なる痕
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「弔ってやろう」


 朽ちている。

 大きな樹だ。けれどもうこの樹からは生命の息吹が感じられない。

 葉や花どころか、枝先から根もとまで樹木全体が決定的に萎びてしまって、地に崩れ落ちてこないのが不思議なほどの有様だった。

 桜だ、と葛葉は気づいた。張り出した枝、しめ縄の巻かれた太い幹。人妖である葛葉よりも長い年月を生きてきたに違いない、堂々たる桜の神木だ。──その、なれの果て。

 ほんの数日前まで可憐な花々がいっせいに咲き誇り、春の盛りを高らかに歌い上げて、さぞかし絢爛たる美観だったのだろう。それが今では無残にも枯れ衰えて、変色し、死骸と化している。

 常軌を逸した光景だ。

 静まり返った広場には、かつて命を宿していたものたちの残骸が、そこかしこに累々と横たわっていた。樹木、野鳥、そして人間さえも。

 神木に供え物を捧げに来たのだろうか。苦悶の表情で事切れた女が一人。その足元には、土にまみれた団子が転々と散らばっている。干からびた顔や手足から年齢を推測するのは難しいが、清楚な小花模様の着物からして、きっとまだ若い娘だったのに違いない。

 地脈がかき乱されて、周囲の空間ごと淀んでいるのが手に取るように分かる。糸を引きそうなほどに粘つく空気。おぞましく濃い、穢濁のあと。

 戦場跡よりも余程むごかった。これらはみな、猛毒の怨霊によって一方的な殺戮がふるわれた証である。どんな生き物とて直撃を受ければひとたまりもないという、荒ぶる祟り神が残した爪痕だ。

 葛葉と清白は無言。清白は遺体に短く黙祷を捧げ、葛葉は穢れを防ぐ覆面の下で細く息を吐いた。

 地に倒れ伏した娘に、かけてやる言葉が何ひとつとして思い浮かばない。理不尽に命をもぎ取られてしまった者に、せめて哀悼の言霊を送りたいのに。

 小花模様の描かれた薄紅色の着物。その場違いなまでに柔らかな色合いが、なぜだろう、ひどく胸にこたえた。

「……弔ってやろう」

 黙祷を終えた清白の眼差しに促されて、ためらった末に、葛葉はおもむろに扇を広げる。

 優美な曲線を備えたその鉄扇には、武器らしからぬ精緻な絵が描かれていた。扇の図柄としてはとても珍しい、黎明の風景画である。月と太陽が空を共有するほんのわずかな夜明けの一時を、目もくらむような桜吹雪が鮮烈に彩っている。どこか切なさを感じさせるその情景を葛葉はことのほか気に入っており、彼女のために工匠が丹精こめて鉄扇の絵柄として描いてくれたのだった。

 この扇は、今となっては父から贈られた最後の品でもある。葛葉の指先に力が込められた。

 風が、動く。扇の動きに従って、大気にほんのかすかな小波が起こる。

 戦場で見せた、あの苛烈な乱舞とは打って変わって穏やかな所作だった。拍子を整え、腕をさしのべ、ゆぅるりと波紋を広げるように扇をひらめかせる。

 死者に捧げる舞。そっと慰めるような……何かを一心に、切なく(こいねが)うような。

 葛葉が長い袖をひと振りするたび、虚空に蒼い火球が忽然と生まれて、娘の亡骸をやさしく幾重にも取り囲んでいく。

 ひとさし舞い終える頃には、小花柄の着物は幻惑的な狐火の中に音もなく包み込まれていた。

 災厄の毒によって命を失った者を葬るのに、一番良いのがこの方法だった。通常どおりに埋葬すると、毒気が大地に染み込んで気脈をさらに穢し、やがて取り返しがつかないほどに狂わせてしまうのである。

 自然界に自浄作用があるとはいえ、その力は万能でも無限でもない。あまりにもひどく傷むと、土地が死んでしまう場合もあるという。三千世界を巡る大きな流れから繋がりを絶たれ、そうして滅んでいった地がかつて実際にあった、と老賢者である刑部姫が言っていたのだから、そういうことなのだろう。切迫した危惧である。

 けれど、この不運な娘に縁者はいるのだろうか。怪異が過ぎ去り、騒ぎが収まって、それでも娘が帰ってこなければ探しに来るかもしれない。通りすがりの自分たちが勝手に弔ってしまっては……。

 とはいえ、近辺の里にも甚大な被害が出ていることは想像に難くなく、迎えが来ないという可能性は高い。遺体を捨て置かれたままでは、娘があまりにも不憫だった。

 炎が逆巻く。

 人間の娘を弔いながら、しきりと葛葉の脳裏に浮かび上がってくるのは故郷の城のことだった。

 みどり深き白碇城(はくていじょう)に暮らしていた、あの温かく頼もしかった家族たち。

 解き放たれた怪異の犠牲となり、城ごと息絶えた彼らを、父を、きちんと葬ってやれなかった。心残りでないと言えば嘘になる。合戦の日、毒気にあてられて昏倒し、清白に助けられて事態の顛末を悟り……体調が回復した後はすぐさま封じの旅に出立してしまったのだ。

 血族が死の牙を突き立てられた場所に立ち戻るのは、正直なところ、怖い。けれど同胞たちの弔いを我が手で成したいと思う気持ちは、怖れよりもずっと強かった。



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