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ありあけ幻奇譚  作者: 浜月まお
幕間
47/51

ヤマタノオロチ


 どうして。

 頭の中に渦巻くのはその言葉ばかりだ。

 どうしてあたしばかりがこんな目に遭わなきゃならないンだ。ひどくお腹が空いていて、寒くて、眠れる場所もなくて……ひもじすぎて気持ちが悪い。とうとう目の前がかすんできた。

 秋の実りを探して山へと彷徨い込んだのは失敗だったかもしれない。木の実なんて全然残っていなかったし、密集した木々のせいで昼間でも妙に薄暗い。おまけに、不規則に這い回る木の根で辺りいちめん地面がぼこぼこしているものだから、気を付けていたのに盛大に転んでしまった。おかしな具合に打ち付けた膝と転んだ拍子にひねった足首が、熱を持ってしきりに痛む。どうにもなりゃしない。

 なんで。どうして。

 涙は涸れ果ててもはや出ない。顔をこすればざりざりとした土埃が掌につく。水溜まりの泥水を啜ったときの汚れか、転んだとき落ち葉と共に跳ねた泥か。

 広げた両掌も泥と擦り傷だらけだが、もはや気にならない。気にしてなどいられない。絶望的にもつれて砂や泥が絡まってしまった髪よりも、粗末な草履の底が半分剥がれてきたことのほうが重大だった。

 不意にひんやりとした夕暮れの冷気に背を撫でられて、身体中がぞっと粟立った。もう本当に冬がすぐそこまで差し迫っているのだと、認めないわけにはいかなかった。

 足元から這い上がる暗がりは目を背けても濃さを増していくばかり。寒さと餓えは容赦なく、執拗にのしかかってくる。


 ──水神様とやらに喰われてしまえば。

 ──どうして、こんな。


 何度振り払っても、どす黒い思いが影法師のように忍び寄ってくる。

 まるで、どこにいるとも知れない存在がこちらに向かって長い長い手を伸ばしているみたいに。


 おとなしく最初から喰われていれば、こんなにも苦しい目に遭うことはなかっただろうか。楽になれたのだろうか。

 独りきりで、どんなに叫んでも誰もいない。

 脳裏に囁く昏い声は一刻ごとに強くなっていった。今ではもう頭が割れそうなほど大きく育ち、抑えることも無視することも難しい有様だ。

 今まで知らなかった激しい感情が、煮え立ち、弾ける。

 たまらず喉から漏れたのは、獣の咆哮そのものだった。



   *



 空に黒い虹が架かった日、養い親はあたしを“生贄”に差し出した。

 まるで団子や白菊を祭壇へお供えするかのように。

 一方的に。なんの説明もなしに。あたしは水神様へと捧げられた。


 どこぞの川岸に流れついて意識を取り戻した時、わけが分からず混乱した。

 見渡す限りの木々。音を立てる川の流れ。人も家も何もない。道も、明かりも。誰もいない。

 冷え切った身体に感覚が戻るまでは全く動けなかった。

 どうやら川に流されたようだけれど一体何が起こったのだろう。周囲は知らない景色で、そもそもこの数日は川には行っていない。

 身につけていたのは見覚えのない白い単衣で、泥と血で汚れている上にずぶ濡れだった。

 昔語りに聞いたことのある“人身御供”のいでたちだと気づいたのは、赤い首飾りがかけられていたからだ。複雑に編まれた飾り紐は、神様に身を捧げる者の証し。神様のものだと分かるように首に巻く──


 川の中で岩にでも当たったのか、身体中に擦り傷と切り傷ができている。じくじくと痛み、翌日にはもっと痛くなりそうな予兆がある。茫然と眺めた両手の爪は端が欠け、血が滲んでいた。

 棄てられたんじゃない。贄にされたンだ。

 理解が追いつく頃にはさらに全身傷だらけの泥まみれになっていた。途切れた記憶から汲み出せることも多くなく、状況を理解できても納得など到底できようはずもない。

 ただ無性にやりきれなかった。

 どうして。

 同じ年回りの女の童は里に何人かいた。

 養い子も珍しくない。本当の親が誰だか分からない捨て子だって他にもいたはずだ。

 いつでも養い親の言いつけによく従って、退屈な薬草摘みも頑張った。

 すぐに眠いとか遊びたいとか我儘を言う兄のぶんまで薪を集めた回数は数え切れない。

 不平をこぼさず、褒められなくても仕事をした。

 なのに。なんで。

 養い親が進んでそうしたのか、誰かの提案に仕方なく頷いたのかは分からない。けれど無断でないことだけは明らかだった。里の長の承諾なしにその養い子を人身御供にするわけがないのだから。

 よろよろと歩きながら、身体の中でありとあらゆる感情が出口を求めて暴れ狂っていた。

 人身御供なんて。

 頭の中で金切り声が響く。なにも考えられなくなっていく。

 よろめきながら森の縁を探し、餓えをしのげるものを探し、助けを探した。

 我を忘れ、時を忘れて。そうして何もかもを忘れたら、いつかどこかへとたどり着けるのだろうか。

 そんな考えが脳裏を過った瞬間、


 宙に投げ出された。


 声を上げる暇もない一瞬の浮遊感。衝撃が降る。遠くで鈍い音が響いた。

 何かに足を取られて思い切り斜面を転げ落ちたのだと分かったのは、新たな痛みが身体中をすっかり覆ってからのことだった。

 道も何もない深い山の中、湿った地面の上に血の出る身を投げ出して、おまけにもう夜が来る。

 動けない、と思ったときにはいつの間にか真っ暗闇の只中にいた。気を失っていたようだと悟ってぞっとする。

 ひどい怪我をしているに違いないと思うが、どこにどんな傷を負ったのか分からない。身体が熱い。浅い息を継ぐだけで精一杯だった。

 水の音が聞こえる。降りしきる冷たい雨。どうどうと地響きのような轟音を立てて流れる沢だ。

 ……川?

 さっき見た時はまだかなり高低差があったのに、と訝しむことはできなかった。そこへ不意に襲ってきた濁流に、一瞬で飲み込まれてしまったので。

 濁った水。圧倒的な質量。怪我をした痩せっぽちの子どもなどひとたまりもない。辺りをこそげ取るような激しい流れだった。

 生贄として川に流されて、打ち上げられた川岸から離れて山へと入ったのに、また川だ。転げ落ちた場所で水に攫われるなんて運がない。


 ……ああ、結局、水神様のところへ行くのか。


 濁流の中、上下左右めちゃくちゃに揉まれながら思い出す。

 それは二つの側面を持った荒ぶるカミだという。

 里の長老ミヨおばばが言うことには、はるかな昔から水神様は近隣の村人たちの畏敬を一身に集めていた。

 その尾はいくつもに股分かれして長く伸び、普段は地と人と動物を潤す慈雨を穏やかに垂れるけれど、ひとたび勢いづけば周囲の全てを薙ぎ倒して奪っていく。

 黒い虹は、水神様が反転するしるし。恐ろしいことがやって来る合図なのだと、幼子たちに言い聞かせるミヨおばばの語り口はひどく重々しく、さも見てきたかのように臨場感があった。

 暴威を振るう水が口を、鼻を塞ぐ。苦しい。痛い。理不尽だ。息ができない。何も見えない。


 くるしい。つらい。

 だれか。どうして。

 だれかたすけて。


 極限状態の最後の一瞬、意識が闇に沈む間際に、なにか大きなものに吸い寄せられたような気がして……

 自分の輪郭が、境界が天地が思考がほどけて広がり、溶け入って、そして全てが途絶えた。



   END


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