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ありあけ幻奇譚  作者: 浜月まお
第一幕 最初の冒険
4/51

幕間 本気で怒ってくれて


 四季の一巡りのうちで、春は最も好ましい季節だ。

 幼い時分より雪解けが待ち遠しくてならなかった。吹き渡る風の匂いが麗らになる頃にはとても城の中に収まってなどいられず、幼馴染と競って野で駆け回る日々を過ごしていた。

 清々しい空気が身体中に行き渡り、心が浮き立つ。思わず歌い出したくなる。梅や桃、桜に牡丹といった佳きものを次々と綻ばせる、しなやかな力に満ちた時。ものみなが目覚め、育まれゆく季節だ。


 手足が伸びきってからもその想いはいっかな褪せなかった。

 濃く茂った木々の合間から陽射しが柔らかに降り注ぐ様を目にしただけで、胸が躍るように熱くなる。

 野鳥のさえずる実り豊かな山岳。遠くどこまでも続く常盤緑の地。


 天狐の里、白碇城(はくていじょう)が最も清雅に映えるのもこの季節だった。

 山麓から振り仰ぐ城はひときわ鮮烈で美しい。(よもぎ)の新芽を摘む手をとめて、何度見とれたことか分からない。

 青々とした蓬の葉、籐籠いっぱい。これでまた乳母(めのと)が草餅を作ってくれるだろう。老いてなおも細やかに動くあの優しい指で、特製の餡を詰めて。

 ──父上と一緒に食べよう。そのあとで新しく習った舞をご覧に入れよう。やっと節回しを覚えた祭り唄も。それから、それから……



 *



 束の間のまどろみから覚めても、両の瞳はなかなか焦点を結ぼうとしない。

 やけにゆっくりと、泥沼から這い出るように浮上してくる意識。

 外からの光に照らし出されたのは見慣れぬ天井、粗末な庵。そして寝床に横たわる自分自身だった。

 頭が痛い。吐き気もするし、身体が重い。ひどく寒いのはなぜだろう。もう春のはずなのに。蓬の新芽で草餅を作れる時節なのに。

 視線だけ動かすと、太陽が高く昇っているのが感じられた。辰、いや巳ノ刻か。まだ昼にはなっていないようだ。

 光の中でしばし時を待つうちに、葛葉の脳裏を覆っていた厚い靄が少しずつ去っていく。


 禍々しき気配

  強烈な畏怖

    萎えた手足

 打ち倒された封印碑

   静寂に沈む城

  折り重なった屍


 ああそうか、と前後の記憶を汲み出した瞬間、鋭く軋みを上げたのは消耗しきった身体ではなく、心のほうだった。

 

 ──すべては、もはや取り返しがつかない。葛葉は独り遺されたのだ。

 眼から溢れた涙を拭う気も起きない。痛みに蝕まれ、呼吸すらままならず、のしかかってくる圧倒的な『現実』に、ただ項垂れた。

 あれから二回夜明けを迎えている。最初に意識を取り戻して以降、こうして眠りから覚めるたびごとに幾度となく打ちのめされるのだ。その繰り返し。


 ふと寝床の傍らに手桶が置かれているのが目に入った。そこに張られた新しそうな水と、手拭い。

 実直そうな若者の面影が胸中を過ぎる。敵対していた天狐族の姫御前である葛葉を匿い、手当てまでしてくれたあの奇特な人間の青年は、今どこに行っているのだろうか。


 千々に乱れた思考の波間に、いくつもの感情が混ざって消える。恐怖、悲嘆、焦燥。

 そう、怪異は解き放たれたのだ。幼い頃から聞かされてきた昔語りによれば、荒ぶる祟り神は猛毒の怨霊と化し、命を喰らうという。解呪の場に居合わせた者は全滅し、近寄っただけで穢濁の気に打たれてこの有様なのだから、昔語りは真実を伝えているに違いなかった。


 旧き時代、父とその朋友らは一体どのような手立てを講じたのか。あれほど強大な存在を倒して封印するなど、その威を目の当たりにした今では、いくら天狐族が妖力甚大とはいえども不可能に思えて仕方がなかった。

 ひりつくように痛むのは腕か、腹か、それとも背か。分からない。怨霊の毒気に当てられた身体は己のものではないように重く、力が入らない。疲れきっていた。


「父上……」


 しかしその一方で、葛葉はとうに悟っている。自分の成すべきことを。

 天狐族の偉大なる指導者であった白蔵大主の子として生まれ、これまで一族皆から至宝のごとく大切にされてきたのだ。

 だから。

 せめて今、瞼の裏に蘇る父の姿に恥じぬ振る舞いを──。



 *



「なっ、何やってんだよ!? まだ顔色真っ青だぞ!」


「離してたもれ。妾は行かねばならぬのじゃ。あれは……時が経てば経つほど命を喰ろうて強くなる。早うせねば」


 よろめきながらも起き上がって身支度をしようとする葛葉を、黒髪の若者が強引に押し留め、寝床に引き戻す。


「もう充分休んだゆえに問題などありはせぬ」


「大ありだ。全然回復してない。それじゃろくに歩けもしないだろ」


「……っ、しかし」


 葛葉ら人妖は人間よりも肉体が頑丈にできているのだが、穢れの影響をひどく受けやすい。毒気のただなかに身を置けば半刻もしないうちに倒れてしまう。そういう種族なのだ。

 寝かされて、寝具をかけられて。力自慢には見えない風体の若者なのに、その手に抗うだけの力を未だ自分は取り戻せていない。それが葛葉にはたまらなく歯がゆく、苛立たしかった。


「寝ている場合ではないのじゃ。これ以上は時を無駄にできぬ。急がねば」


 言いながら、なおも身体を起こそうとする。上手くいかない。もう一度。萎えた腕を叱咤し、震える指先を握り込んで。言葉もなく見据えてくる若者を、きりと睨んだ。


「妾しかおらぬのじゃ……妾が行かねば……、もう誰も……」


 苦しげにかすれた呟きが、粗末な庵の天井へと吸い込まれていく。

 無理をして動こうとした反動だろうか。激しい眩暈に襲われて、葛葉はずるずると寝具の中へ崩れ落ちた。荒い呼吸。冷えた五指は感覚が麻痺して何も感じ取れない。


「それなら」


 ややあって、ひどく静かな声が耳朶に触れた。

 視線を上げれば、真剣な色を湛えてこちらを覗き込む漆黒の双眸がそこにある。


「解放された化け物を、あんたが何とかするつもりなら、今はそんな無茶な真似をするところじゃないだろう。体調を立て直すほうが、先じゃないのか」


 ぶっきらぼうな物言いだ。焦燥に駆られた葛葉に辛抱強く言い聞かせるようでもあり、ひたすら呆れているようでもある。

 いや、やはり怒っているのだろう。若々しい眉間にきつい縦皺が寄っている。

 彼の落ち着いた声は、冷たい湧き水のように葛葉の胸に染み入った。


 そう。彼の言葉は的を射ていた。一刻を争う事態には違いないが、今ここを飛び出して怨霊を追っても、結局また一人で行き倒れるのは目に見えている。具体的な手立ても一切持ち合わせていないのだ。

 思わず唇を噛みしめる。

 自分を急き立てるのは己自身。冷静さを欠くと自覚してなおも止められないのは、ひとえに己の弱さゆえ。脆さの表れである。


 長く深い息をついた末、ようやっと喉奥から絞り出せたのは、たった二言だった。


「そうじゃな……おぬしの言うとおりじゃ」




 天狐の姫御前・葛葉。

 彼女が万全の体調を取り戻して怨霊封じに旅立つのは、これより数日ばかり後のことである。




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