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ありあけ幻奇譚  作者: 浜月まお
第十幕 星の乙女
32/51

「生き返るのう……」


 火明(ほあかり)の始祖。

 かつて幾つもの人妖種族を束ねて一大勢力を成した『神代を継ぐ者』。その存在は今となっては口伝に残されるのみで、詳細を知る者はほとんどいない。

 ただ彼の遺した十種の瑞宝は、一族の離散とともに各地へと渡り、現在もひそやかに眠っているという。



 ──… * * * …──



「生き返るのう……」


 思わずそんな言葉が唇からすべり出る。

 湯に浸かり、頬をくすぐる湯気を楽しんでいると、疲れや緊張でこわばっていた身体がゆるゆると解きほぐされていくようだ。

 陽はまだ天上を過ぎたばかりで、夕暮れまでだいぶある。


 なんと贅沢なことだろうか。木漏れ日のもと、鳥のさえずりや川のせせらぎに耳を傾けつつ身体を温めるなんて。


(ばあやがいたら腰を抜かすやもしれぬがの)


 優しくも口やかましい乳母が息災だったなら、姫君が山野のただ中で裸身をさらすなどもっての他だと騒ぎたてるところだろう。

 のどかな山中で、川沿いに湧き出た温泉を見つけた時は驚いた。

 一部が冷たい川水と混ざってちょうど頃合いの温度になっており、湯やその周辺も人の手が入っていないわりには綺麗な状態である。旅麈を落としたいと言い張る葛葉に同意するかたちで清白と雲取も足をとめたのだった。


 葛葉が温泉に浸かっている間、男どもは夕餉のために山菜の類を探すと言っていた。辺りは心地よい静寂に満ちている。雲取の際限ないおしゃべりが消えたおかげに違いない。

 飽きもせず勝負をふっかけてくる雲取をあしらいながら歩く清白の姿を想像すると、自然と口元に苦笑が浮かんでくる。追い払おうという努力もむなしく、なんだかんだと言いながらあの仕様のない鴉天狗はここまでついて来てしまったのだ。きっと一方的に清白と競って食材を探し、野山の恵みをたくさん抱えてきてくれるだろう。


 吐息がこぼれ、湯気を揺らす。

 何不自由ない白碇城(はくていじょう)での生活はもはや取り戻せないにしても、身体を清められるのは単純に嬉しかった。

 旅に出てこのかた、人里の旅籠でタライの湯を使えれば上等なほうで、野宿の場合は泉や小川で水浴びが関の山、時には濡れ手巾で簡単に拭う程度で済ませることもあるのだ。

 木霊たちの住まう穂積の里で沐浴してから丸二日。身体はすっかり埃で煤けてしまっていた。


 上機嫌で長い髪を洗い、つま先まで丹念に清めた後、さて早く湯から上がって身支度をせねばと思うものの、理性に反して身体はなかなか動いてくれなかった。もう少し、あとほんの少しだけ……


 目を閉じれば水面を揺らす風がいっそう心地よく感じられる。

 束の間の休息。


 みどり鮮やかな山野、色とりどりに咲く花や鳥の歌声などに接するたびに、葛葉の脳裏には凄惨な光景が繰り返しよみがえる。

 死に絶えた故郷。

 そして桜の神木と共に枯れ果てた娘の亡骸。


 どちらも周囲を包んでいたのは痛いほどの静寂。そして濃厚な毒気の残り香だった。

 踏み込んだ途端に力が吸い取られていくような、あのおぞましい感覚は、忘れようにも忘れられない。

 解放の場となった白碇城を除けば、特に怨霊の気配が強く残っていたのは刑部姫の住まう殿舎(やしろ)付近、そして桜の神木があった山麓の広場だ。

 こうしている今も、祟る猛霊は無数の命を吸い散らかしているのだろう。手当たり次第に貪り食らい、少しずつ力をためていく。放っておけばすべてを覆い尽くしかねない大きな災厄。

 正面きって相対したら、一体どれほど圧倒的な存在なのだろう──。


 湯煙が揺らめく。


 葛葉の物思いを中断させたのは、背後に生まれた強烈な気配だった。

 何か考えるよりも速く身構える。振り返ったそこには、悠然と佇むひとつの人影。紅に彩られた艶唇が、ひどく不穏な笑みを湛えていた。


「何者じゃ」


 思いのほか第一声が尖ってしまったのは、相手の視線が不躾にも素肌の上を撫でたからか。

 いや、何よりもその表情。とっさに湯の中に立ち上がった葛葉を見て、闖入者は口端の笑みを深めたのだ。

 まるで獲物を搦め取らんとする女郎蜘蛛のような、毒を秘めた微笑。羞恥よりもまず嫌悪が湧いた。


「湯に浸かりに来た……というわけではなさそうじゃな」


 肩に張りつく濡れ髪を手で払い、葛葉はきっかりと得体の知れぬ相手を見据えた。



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