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ありあけ幻奇譚  作者: 浜月まお
第一幕 最初の冒険
2/51

「猛、毒」


 そうして住み慣れた城砦が視界に入るや否や、だった。

 葛葉は不意に疾走をやめて踏み留まる。全身の肌が粟立ち、鼓動が一気に跳ね上がった。言いようのない強烈な畏怖が手足を痺れさせ、呼吸すらままならない。

 考えるより速く知った。忌まわしい何かが起こったのだ、と。

 周辺一帯に立ち込める、この禍々しい空気はどうしたことだろう。まるで災いの坩堝(るつぼ)に放り込まれたような、あまりにも濃密な――そう、これはまさに穢れ。穢濁。

 出陣前までは確かに清雅な佇まいだったというのに、一昼夜もしないうちに鳥は落ち、草木は立ち枯れ、戦の最中とはいえ尋常ではない。

 彼女は本能的に怯んだ己を叱り飛ばし、這うようにして城門の内へと、父がいるであろう場所へと進んでいった。絶望的に気脈が乱されており、気配を捜し当てることは難しかったが、それでもなお一門の主である父の姿を求めて。

 やがて花殿の奥、梨園に続く通路にさしかかったところでついに耐え切れず膝をついた。ぬるく粘ついた空気が城全体に満ちていて、それが身体からどんどん力を吸い取っていくのだ。萎えた手足、朦朧とする意識。猛毒の海を渡ろうとしてもがいているような錯覚を覚えた。

「猛、毒」

 無意識に呟いたと同時、脳裏に閃くものがあった。

 そこここに投げ出された敵味方の屍。傷跡や血痕がひとつもないのはなぜだ?

 強靱な生命力をもつ人妖の、最後の砦たるこの城自体が抵抗した様子もなく息絶えているのは……一体なぜ?

 見開いた眼が痛む。けれど確認せずにはいられなかった。彼女はよろめきながら梨園の深奥に向かって踏み入った。

 一歩ごとに瘴気が強まり淀んでいく。歩みを進めれば進めるほどに確信が固まる。そして一際多くの骸が転がるその場所に辿り着いたとき、確信は極まり衝撃へと形を変えたのだった。

「封印碑が……打ち倒されておる」

 厳重に守られていたはずの石碑が見る影もなく壊されていた。周辺には吹き飛ばされた格好で絶息した仲間と敵兵が累々と。

 すがるように握り締めていた鉄扇が、鈍い音を立てて地に落ちた。

 封印碑。あれは“殺生塚(せっしょうづか)”という名の石碑だ。人妖らが長い年月をかけて鎮め、封印し続けてきた忌まわしき存在が、抑えを失くして解放されたに違いなかった。

 “毒を噴き出す災厄の化身”とも“命あるものに仇なす怨霊”とも言い伝えられ、破滅の代名詞とされている存在が、再び世に解き放たれたのである。

「父、上!」

 口伝によれば、その毒牙を突き立てられた者は全て死に至るという。偉大なる白蔵大主もまた例外ではいられなかった。

「ちちうえ、父上……ああ、ああッ、あああ――ッ!!」

 死の静寂に浸された城の奥棟に、魂を揺さ振るような悲鳴が響き渡る。

 彼女は急速に視界が蝕まれていくのを感じながら、なおもその場を離れることができなかった。



 *



 次に目覚めたとき、葛葉がまず感じたのは意外さだった。

(まだ、命があるとはな)

 身体は泥に浸かったように重く、意識はぼんやりとしておぼつかない。それでも生き長らえているのは確かだった。

 横になったまま、呆然と見知らぬ庵の天井を眺めていると、不意に横手から光が差し込んできた。ひどく眩しい。衣擦れの音と人の気配。現れた者がこちらを一瞥して息を呑むのが分かった。

「気がついたか」

 安堵と警戒が入り混じったその声は意外に若い。霞む目を凝らして見つめると、声の主は人間の青年であることが見てとれた。

「ああ、まだ起きないほうがいい。ここなら誰も来ない。大丈夫だ」

 若者は彼女の額から濡れた手拭いを取り上げて、たったいま汲んできたばかりらしい桶の水に浸ける。それを器用に絞ると、彼女の額に再びあてがった。何度もそうしてくれたのだろうか、妙に手慣れた様子だった。

 沈黙と、冷えた額が心地いい。もう少しこのままでいたいという気持ちと、一刻も早く状況を確認しなければという気持ちが拮抗して、彼女は若者を眺めた。

 介抱してくれるその腕には、幾重にも巻かれた包帯。ごく新しい。見つめてくる目には労りと怖れが浮かんでいる。

「おぬし……戦に出た者か」

 唇から漏れた呟きは、存外に擦れて弱々しい。若者の肩が跳ね上がったのを、彼 女はまるで他人事のように見つめていた。

「――そうだ。徴兵があってな。あの城を攻め落とすには鎮護の石碑を壊せばいい、と」

 だけど、と若者は膝の上で拳を握り締めた。

「塚を壊した途端、敵も味方も倒れちまったらしい。俺が駆けつけてきたときにはかろうじて虫の息の奴がいたんだが、塚の下から物の怪が出てきた、と言って息絶えたよ。それからあんたの声が聞こえて、だから」

 葛葉は目を閉じた。深く重い嘆息が漏れ出る。

 人妖と人間、双方の部族の軍が全滅。そして怪異は解き放たれた。それがあの戦の顛末ということだった。

「あれの名は殺生塚という。猛毒の怨霊を、旧き時代より封じておったのだ。鎮護などではない、封呪の石碑だったのじゃ」

 絞り出した声は震えている。怒りか悲しみかも判然としない。ただもう、やるせなくて、虚しかった。

 目を開けると若者と視線がかち合う。

 言葉がまるで意味をなさないこともあるのだと、彼女はこのとき初めて実感した。




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