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ヒュゥゥゥゥゥゥゥゥ…………。
妙に湿った風が通り過ぎる。
「シグマ、あんた、性懲りもなく、また来たのね!?」
「ふっ……。ミュー姉よ、当たり前だろう? オレ様にとっては、将来がかかってるんだからな」
「ふん、将来ねぇ……。そのわりに自分では手出ししないし、けしかけてきてた動物たちだって、わたくしの仲間たちに簡単に蹴散らされてたじゃない?」
「はっ、笑わせるなよ。今までのは、ほんの小手調べってやつさ」
「へぇ~? でも、近くにいる動物を操るだけじゃ飽き足らず、ペットショップから連れ出した動物まで使ってたみたいじゃない。わざわざ秘伝の薬も使ったんでしょう? それでも小手調べだったってわけ?」
「くっ……、バレてやがったのか。でもよ、もしそれでミュー姉を打ち倒すことができれば、それこそ儲けものだからな。小手調べにだって、いくらかの投資をしても構わないだろう?」
「そう……。まぁ、それはいいわ。で? 今日はどうしたわけ? 結局また、ひとりでは来ることができなかったお子ちゃまなあんたに、このわたくしが負けるとでも思ってるの?」
「ふん。強がっていられるのも今のうちだけだぜ? 魔界格闘技ナンバーワン決定戦、通称MK1でチャンピオンに輝いたんだからな、このガンマは」
「ウガーーーーッ!! オラ、強いんだな!」
シグマの声に合わせて両腕を上げると、ガンマは力こぶを作って強靭な肉体をアピールする。
「シグマ、あんた……。結局、自分じゃなにもできないってことを認めてるだけなんじゃないの?」
「うるさい! わざわざオレ様が出る幕もないってことだ! 今日こそは、ミュー姉を打ち負かしてやる!」
「諦めの悪い男ね。わかったわ、受けて立とうじゃないの!」
ザッ。
身構える両者。
緊迫感が、辺りを支配していた。
「……思わず見入っちゃったけど、向き合ってるのが猫同士ってのは、いまいち緊迫感を削ぐ気がするよねっ!」
「はっはっは、そうだなぁ!」
「確かに、なんだかお遊戯を見ているみたいでした」
「……猫のお遊戯……。楽しそう……」
「でもでもぉ~、本人たちは、至って真面目そうだったよぉ~?」
「ふっ……。猫だから、本人って言い方は間違ってるかもしれないけどねぇ~!」(ふぁさっ)
「ほら、バカなこと言ってないで、あたしたちも行くわよ!」
「ん、そうだね。……というわけで、お待たせ、ミューちゃん」
そこへ、ぼくたち肉球防衛隊のメンバーが、こぞって登場する。
放課後になったばかりの時間だから、中学生である羽浮姉ちゃんはまだ来ていないけど。
……というか、来るかどうかもわかっていないけど。
「みなさん!」
「なっ……! お前ら、いつからそこに!?」
喜びの視線を向けるミューちゃんとは対照的に、驚愕の表情をあらわにする黒猫シグマ。
「いつからって……。ミューちゃんが、性懲りもなくまた来たとか言ってた辺り?」
「さ……最初からじゃね~か!」
怯む様子もなく正直に答えるいちごに、シグマは怒りを乗せたツッコミを放つ。
「にゃはははっ! だってさ、ほら、三匹の猫が二本足で立って対峙して、しかもなにやら少年漫画チックに前口上を飛ばし合ってるなんて状況、なかなか見れないからさっ!」
「はっはっは! だからついつい、見入ってしまったってわけだ!」
夢ちゃんと拳志郎の、ちょっと小バカにしたような言い方に、シグマはさらに怒りの度合いをアップさせる。
もう、頭のてっぺんから湯気が立ち昇るような勢いだ。
「くっ……! ミュー姉は後回しだ! ガンマ! こいつらを、やっちまえ!」
「ウガーーーッ!! 合点だ、アニジャ!」
「……いや、兄ではねぇけど……」
シグマの控えめなツッコミは完全に無視し、ガンマはぼくたちに飛びかかってくる。
魔界格闘技ナンバーワン決定戦のチャンピオン、なんて言っていたし、猫とは思えないほどがっしりとした体格ではあった。
だけど、所詮は猫。
二本足で立った場合の背の高さからしたら、小学生であるぼくたちから見ても、半分ちょっとくらいしかない。
聞いた話では、一人間メートルは二猫メートルに換算できるとか。
そう言っていたのは羽浮姉ちゃんだから、きっと口からでまかせだとは思うけど。
そもそも彼らは魔界の住人だから、正確には猫じゃないわけだし。
と、さっきの微妙に緊迫感もない前口上のときの雰囲気や、ガンマの見た目などから、ぼくたちは油断しすぎていたのだろう。
「む……、うおっ!?」
ガンマが真っ先に飛びかかったのは、ぼくたちの中でも一番体格のいい拳志郎。
その拳志郎の胸倉をつかみ素早く体を反転させると、ガンマはいとも簡単に投げ飛ばしたではないか。
投げ飛ばされたほうの拳志郎も、なにが起こったのかわからない、といったような声を発しながら宙を舞う。
ズバーーーーン!
激しい音を周囲に響かせながら、見事に決まった背負い投げ。
拳志郎は、一瞬にして白目を向いていた。
☆☆☆☆☆
倒れた拳志郎を心配する余裕もなく、ぼくたちは次々と投げ飛ばされる。
ぼくや将流、希望くんだけならまだしも、ガンマは女子までも容赦なく投げ飛ばしていった。
拳志郎は打ちどころが悪かったのか、目を回してしまったけど、ぼくを含め、他の人は気を失ったりまではしなかった。
もっとも、気を失ったほうがマシだったかもしれない。
痛みに顔を歪ませ、うめき声を上げながら、ぼくたちは地面をのたうち回る。
拳志郎を打ち負かしたことのあるいちごでさえ、受身も取れずに苦悶の表情で地面に這いつくばっていた。
そしてぼくは、激しくひじから地面に打ちつけられ、あまりの痛みで声も出せない状態だった。
「ふっ……、口ばっかりで大したことねぇな、お前ら」
「あ……あんたはなにもしてないじゃないのよ!」
勝ち誇ったようなシグマに、ミューちゃんは負けじと言い返すものの、その声は焦りで震えていた。
さすがに自分の体格では、このガンマに勝てる見込みはない。
それをひしひしと感じていたのだろう。
だからといって、ひとりで逃げ出すわけにもいかない。
ぼくたちが今、こんな凄惨な状況に陥っているその責任は、自分にある。
ミューちゃんはそう考えているに違いない。
そんなこと気にしないでいいから、早く逃げて!
ぼくはそう言いたかった。されど、痛みで声も出ないぼくには、どうすることもできない。
このままミューちゃんが打ち負かされるのを、ただ黙って見ているしかないのか……?
痛みよりも悔しさで、涙が溢れる。
と、そこに、救世主が現れた。
「あれ~? あんたたち、なに寝っ転がってるのさ~?」
すっとんきょうなことを言いながら、羽浮姉ちゃんが歩み寄ってくる。
普通なら、ひと目見ただけで大変な状況だとわかるはずなのに、姉ちゃんはまったく気づいていない。
「あっ、見たことのない猫ちゃんだ。へぇ~、大っきいわね~。きゃはは、ブタ猫って呼び名がピッタリ! ねぇねぇ、このブタ猫、ミューちゃんのお友達?」
警戒心のカケラもなく、中腰になってまっすぐガンマへと手を伸ばす姉ちゃん。
うあ、救世主だなんて思ったぼくがバカだったかも。
キラリン! ガンマの目が鋭く光る。
その姿が――消えた!
いや、素早く姉ちゃんの背後に回ったのだ!
ガンマが両腕を姉ちゃんの腰から前に回し、ガシッと抱えると、そのまま持ち上げ、勢いに任せてエビ反りの体勢で背後の地面にたたきつける。
いわゆる、バックドロップというやつだ。
背の高さの違いなんてお構いなしに、姉ちゃんは綺麗な弧を描く。
そして――。
ドォーーーーン!
激しい衝撃音を響かせながら、むき出しの地面に後頭部から叩きつけられる羽浮姉ちゃん。
やっぱり、女性相手でも容赦がない。
あ~……。これはダメだな……。
ぼくは冷静に、そう思った。
でも、姉ちゃんは、
「なにするのよ、このブタ猫! 思いっきり腰を触られたわ! 許さないからね、このセクハラ猫!」
と、何事もなかったかのように立ち上がると、なんだかずれた方向に怒りを爆発させていた。
というか、頭のほうは大丈夫だったの?
……そいえば姉ちゃんって、すっごい石頭だっけ。
これはもう、石頭を通り越して、鉄頭と呼ぶべきなのかも……。
ぼくのほうも、ちょっとずれた思考を巡らせる。
……心外ながら、ぼくたちは紛れもなく、血のつながった姉弟だ。
それはともかく。
怒りをあらわにしている羽浮姉ちゃんに、ツッコミの声がふたつほど。
「相手は猫だし、触られたってべつにいいじゃない」
最初のツッコミはいちごだった。
受身には失敗してまだ少し表情は歪んでいたものの、痛みには慣れているのか、自分の役割とも言うべきツッコミは忘れないようだ。
とはいえ、いくら見た目は猫でも、こっちの世界に来ると猫の姿になるだけで中身は魔界の住人だと考えると、気にするなというのも無理な話なのかもしれない。
続けて、ふたつめのツッコミが、ガンマから入れられた。
「そんな、色気のカケラもねぇ体のくせに」
……的確なツッコミだとは思った。
ただ、歯に衣を着せず的確なことを言ってしまうのは、時として死を招く。
「ぬわんですってぇ~~~~!?」
虚ろな目を光らせた姉ちゃんが、ガンマにつかみかかる。
ともあれ力の差は歴然。あっさりとまた投げ飛ばされた羽浮姉ちゃんだったのだけど。
「くぅ~~~、このブタ猫! かくなる上は~~~~!」
サッ! なにかがポケットから素早く取り出された。
奇妙な形をした柔らかい容器の先端につけられたキャップを外し、その先端をガンマへと向ける。
「うりゃああ~~~~!」
雄叫びを上げた姉ちゃんは、その容器を両手でしっかり握ると、思いっきり押し潰した。
飛び出す、クリーム色の物体。
「うぎゃおっ!? 目が! 目がぁ~!!」
激痛にもだえ苦しむガンマ。
姉ちゃんが取り出したのは、マヨネーズだった。
そっか、姉ちゃんはマヨラーだから、普段から持ち歩いてるとか言ってたっけ。
……どうでもいいけど、ポケットに入れているっていうのは、どうなのだろう……。
ともかく、我を忘れた姉ちゃんは、目が開けられずにのたうち回っているガンマに馬乗りになり、マウントポジションで殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る!
みるみるうちに腫れ上がっていく、ガンマの顔面。
「くっ……! こんなバケモノがいるなんて、聞いてねぇ……! 退却だ!」
決断は早い。
シグマは言うが早いか、ガンマを見捨てて走り去っていた。
「うお~~~! アニジャ! 待ってくれぇ~~~!」
さすがに力の差があったからか、どうにか姉ちゃんの魔の手から逃れたガンマも、目が見えずにふらふらとした足取りではあったものの、シグマの去っていったほうにドタドタと足音を響かせつつ逃げ帰っていった。