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暖かな春の日差しが降り注ぐ中、通学路をふらふらとした足取りで歩いていく。
ぼくは猫宮降人、小学六年生。
ちょっと傷んで、ところどころ皮がはげちゃってる黒いランドセルを背負いながら、鼻歌まじりに学校へと向かっているところだ。
ふらふらとした足取りなのは、べつにケガをしているわけじゃなくて、ぼくの普段どおりの歩き方だった。
……できれば直したいのだけど、簡単に直るのなら苦労はしない。
小学校の最高学年となった今ではさすがに少なくなってきたけど、ぼくは足がもつれて転ぶことも多く、両足のひざ小僧にはカサブタができているのが普通だったりする。
と、そんなぼくの目の前を、通り過ぎるひとつの影。
「うひゃっ! かっわい~!」
ぼくは思わず声を上げる。
通り過ぎた影は、可愛らしい猫ちゃんだった。
無類の猫好きであるぼくは、思わずその猫ちゃん目がけて駆け出していた。
そして、
「わわっ!」
足がもつれ、
「ふぎゃあっ!」
思いっきり、ひざから地面に倒れ込んでしまった。
「うぐぐぐ……」
痛みでひざを押さえたぼくは、うめき声を漏らす。
通学路は固い土がむき出しになっていた。
アスファルトとかじゃないだけマシだろうけど、それでもぼくのひざ小僧のカサブタは割れ、血が溢れ出てくる。
でも、泣いたりなんかしない。だってもう、六年生なのだから。
一生懸命こらえながらも、涙がにじんできていたぼくの顔を、可愛い猫ちゃんが首をかしげて見つめていた。
とってもつややかで綺麗な毛並みの真っ白い猫。
サファイアのように澄んだ青い瞳をこちらに向けている様は、ディズニー映画のワンシーンかと思えるほど。
飼い猫かな?
だけど、首輪とか、してないような……。
涙で視界がぼやけてはいたけど、可愛い猫ちゃんにじっと目を向ける。
と、そんなぼくの背後から、音もなく忍び寄る魔の手が――。
魔の手は素早く、ぼくの首に絡みついてきた。
「えいっ!」
「ぐえっ!」
絡みついてきた手――というか、ゴツくて太い腕は、容赦なくぼくの首を締め上げる。
「うぐぐぐぐぐぐ……、ギブギブ! もうやめてよ、拳志郎!」
どうにか耐えようしてはみたものの、すぐに限界となったぼくは、慌てて叫び声を発した。
「はっはっは! 今日は三秒でギブアップか~! 相変わらず降人は弱っちぃなあ!」
「突然ヘッドロックかけられたら、誰だってすぐにギブアップするってば! しかも拳志郎、手加減しないんだもん!」
「はっはっは! おれってば、不器用だからなあ~!」
「不器用だからとか言いながら殺されかけたのが、いったい何度あったことか……」
「はっはっは! 過去なんか振り返るな! 未来を見据えて生きろ!」
「拳志郎は振り返るべきだ!」
「はっはっは!」
ぼくは首を押さえつつ、背後からランドセル越しにヘッドロックをかけてきていた大男に怒鳴りつけるものの、その大男からは「はっはっは」と笑い声を含んだ軽い言葉しか返ってこない。
こいつは虎間拳志郎。クラスメイトで、ぼくの親友だ。
昔からいつもふたりで、こうやってじゃれ合ったりしているのだけど。
拳志郎はとても体格がよく、さらに身長も高いから、小柄なぼくとしては死活問題だったりする。
そのたびに文句を言うぼくと、それをサラッとかわす拳志郎。
小学校に入ってすぐの頃に出会って以来、ずっとこんな感じなのだ。
「あはははは、ま、とりあえず、おはよう!」
「ああ、おはよう!」
挨拶がヘッドロックなんかより後回しなのも、ぼくたちにとってはごく日常的なことだ。
「ふっ……、相変わらず朝から落ち着きがないなぁ、キミたちは」(ふぁさっ)
不意に声が増える。
ふぁさっ……と長めの前髪をかき上げながらそんな言葉を向けてきたのは、拳志郎ほどではないけど結構背の高い男子だった。
拳志郎と比べると低いけど、その分細身だから、かなりの高身長に見える。
150センチをちょっと超えた程度のぼくだと、思わず見上げてしまうくらいだ。
くそ~、うらやましい……。ちょっと分けてほしいなぁ。
と、そんなことはどうでもいいか。
ともかく、新たに加わってきたこいつは、拳志郎と同じくぼくのクラスメイトで、獅子威将流という。
お金持ちの家で何不自由なく育ったらしく、人を見下したような物言いをすることが多い。
とはいえ、それほど鼻につく感じでもないのは、なんとなく間の抜けている雰囲気があるからだろうか。
実際、今現在の将流の家は、一般家庭より裕福なのは確かだろうけど、それほど飛び抜けて大金持ちという印象でもなかった。
あまり深く立ち入るべき話ではないとは思うけど、徐々に衰退していったとか、そんな感じなのかもしれない。
「降人くん、なにやら失礼な思念を感じたような気がするんだけど、どういうことかなぁ~?」
「え? 気のせいでしょ」
ぼくは臆面もなく言い放つ。
「本当かい? ふたりとも、どうもこのボクをバカにしてるように思えるんだよねぇ~」
「それは気のせいじゃないが」
「あっ、バカ、拳志郎!」
「むむむ! やっぱりキミたちはこのボクをバカにしてるんだね~!?」
「拳志郎、ダメじゃんか! 本当のことを言ったら話がこじれるだけだって、いつも言ってるでしょ? 将流みたいなのは、適当にあしらっておくのがいいんだってば!」
「な……っ! 適当にあしらっておくって、降人くん、それはいったい、どういうことだいっ!?」
あちゃ~……。
ぼくまで一緒になって余計なことを言い、火に油を注いでしまったみたいだ。
こうなってしまった将流は、ネチネチとしつこいんだよねぇ……。
あとは、天の助けを待つしか……。
と、そのとき。本当に天の助けが、ぼくたちのもとに舞い降りた。
☆☆☆☆☆
「あれぇ~? 将流くんたちだぁ~。ねぇねぇ、どうしたのぉ~?」
ほんわかしたのんびり口調の声が響き、思わず「へにゃ~」と気力が抜けたような空気になる。
「あっ、みるくちゃん! おはよう、清々しい朝だね~!」(ふぁさっ)
「おはよぉ~! うん、そうだねぇ~、清々しいよねぇ~! 思わず、はにゃ~ん、ってなっちゃうよねぇ~!」
清々しい朝じゃなくったって、この子は「はにゃ~ん」ってなってる気がするのだけど。
この女の子は、犬塚みるくちゃん。
拳志郎や将流と同じくクラスメイトの、「はにゃ~ん」としたみるくちゃんは、ちょっと舌っ足らずなところがとっても可愛く感じられる、我がクラスのマスコット的存在だ。
そして彼女がいるということは、必ずセットで現れる片割れが……。
「はにゃ~んとしててもいいけどさ、こんなところでお喋りしてたら通行の邪魔よ? もっとも、男子三人組は存在自体が邪魔な気がするけど」
やっぱりいた。
この失礼千万なやつは、犬塚いちご。みるくちゃんの双子の姉だ。
クラスは違うけど、妹が心配なのか、休み時間ごとにうちのクラスに来ているから、すっかり顔なじみとなっている。
「あっはっは、相変わらずいちごは冗談が上手いなぁ!」
いちごの登場に、拳志郎が声を上げた。
これは秘密なのだけど、拳志郎のやつ、いちごのことが好きらしい。
だから、普段は女の子と話すのは恥ずかしいとか言っているような性格なのに、必死に頑張って喋るのだ。
「え? 冗談なんて言ってないわよ?」
「あっはっは……」
真顔で返された拳志郎の笑顔は、明らかに引きつっていた。
体格のいい拳志郎は、格闘技もやっていて、すごく強い。
そんな拳志郎と本気で対決し、いちごはあっさりと打ち負かしたことがある。
女の子相手だからって、手を抜いていたわけじゃない。拳志郎は本気を出して、その結果、負けた。
だからこそ、その強さに惚れ込んだ、というのもあるかもしれないけど。
どちらかというと、いちごには頭が上がらないという感じなのだろう。
恐怖を感じてすらいるのかもしれない。
いちごの身長はぼくと大して変わらないし、体重はもちろんぼくより軽いというのに……。
「それより、あまりふざけてると遅刻するわよ?」
拳志郎を打ち負かしたという話を聞いただけだと、野蛮で粗暴な男っぽい暴力女っていうイメージになってしまうかもしれないけど。
実際のところ、いちごはそんな女の子ではない。
ちょっとつり目気味ではあるけど、マスコット的存在のみるくちゃんと一卵性の双子なのだから、同じように可愛らしい顔立ちをしているし、今のセリフからもわかるとおり、結構真面目だったりするし。
六組五組の学級委員をしているらしいから、人望も厚いと言えるのかもしれない。
もっとも、いちごは面倒見のいい性格だから、誰もやりたい人がいなくて押しつけられただけ、という可能性も否定はできないかな。
「あっ、そうだね。それじゃあ、さっさと学校へ……」
とぼくが先陣を切って歩き出そうとした、ちょうどそのとき。
「やっほぃ~! みんな、今日も元気に集まってるねっ!」
さらに明るい声が、取りとめもないぼくたちの会話に割り込んできた。
「あっ、夢ちゃん、おはよう!」
「降人くん、おっはよ~っ! 他のみんなも、おっはよ~っ! 風さんたちも、おっはよ~っ!」
それは、クラスメイトの豹堂夢ちゃんだった。
いつでも元気いっぱいってのはいいのだけど。ちょっと電波な女の子、というのが、周りの評判だったりする。
ぼくや拳志郎たちに対してだけじゃなくて、吹き抜けてゆく風にまで挨拶してるところからも、その片鱗が見て取れるだろう。
そういった変わった部分だって、夢ちゃんのいいところだと、ぼくは思っているのだけど。
「夢ってば、相変わらず元気ね~。あんまり飛び跳ねてると、見えちゃうわよ?」
「にゃはははっ! そうだねっ、もっとおしとやかにしないとだねっ!」
いちごの指摘に笑いながら答えるものの、ちっともおしとやかになんてならない。
それが夢ちゃんだ。
夢ちゃんは長いスカートをはいていたから、べつに激しく飛び跳ねたからって、パンツが見えてしまうなんてことはなかったのだけど。
「あっ、そうだ、夢ちゃん! そこに、綺麗な白い猫ちゃんが……」
「えっ? マジっ? どこどこっ!?」
ぼくの声に、夢ちゃんは噛みつかんばかりの勢いで食いついてくる。
夢ちゃんはぼくと同じで、無類の猫好きなのだ。
それで、さっきの猫を見たら絶対に喜んでくれるはずだ、と思ったのだけど。
「……あれ? いなくなってる」
「え~~~っ? や~ん、わたしも綺麗な白いニャンコ、見たかったなぁ~っ!」
「ごめんね……。騒いでたから、逃げちゃったみたい」
心底残念そうな夢ちゃんに、ぼくは思わず、しゅん、と沈んだつぶやきを漏らしてしまう。
「ううん、降人くんのせいじゃないよっ!」
ぱーっと明るい笑顔を向け、そう言ってくれる夢ちゃんに、ぼくの心もぱーっと明るくなったような気がした。
と、そんな中、微かに校舎が見える小学校のほうから、予鈴の音が鳴り響いてくる。
「ぐあっ、遅刻しちゃうじゃん! ほらみんな、急ぐわよ!」
「ほいさっ! みんなで仲よくBダッシュだねっ!」
「B……? まぁ、よくわからないけど急がないとね! 遅刻したくないし!」
「ふっ、ボクにダッシュなんて似合わないけど、遅刻なんてもっと似合わないしね~」(ふぁさっ)
「あっはっは、ま、ごちゃごちゃ言ってないで、黙って走るべし!」
「あう~、みんなぁ~、待ってよぉ~!」
こうしてぼくたちは、今日も慌ただしく小学校の正門をくぐるのだった。