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婚約破棄された途端、"ヒロイン視点の物語補正"が消えました——どうやら悪役令嬢だったのは私ではなかったようです

作者: カルラ
掲載日:2026/05/12

舞踏会の夜は、いつも嫌いだった。

煌びやかなシャンデリアの光、甘く重なる香水の匂い、笑顔の裏に貼り付いた計算。

そういったものが苦手というわけではない。

ただ——こういう夜には、決まって"あの感覚"がやってくるから。

また、この流れだ。

そう思った瞬間、広間の中央で声が上がった。

 

「イザベラ・ヴォルテール!」

 

セドリック王太子殿下の声は、広間全体に響いた。

よく通る、凛とした声。

普段なら好ましいと感じる声質なのに、今この瞬間だけは違う。

私はゆっくりと振り返り、彼と目を合わせた。

金の髪、青い瞳。

国中の令嬢が憧れる容姿。

そしてその隣に寄り添う、栗色の髪の少女——ルミナ。

ああ。やはり、そういう夜だった。

 

「君とのことは、今夜限りで終わりにする。婚約を、破棄する」

 

広間がしん、と静まり返る。

予想していたはずなのに、声を聞いた瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。

痛みではない。

もっと奇妙な感覚——まるで台本通りのページをめくるような、既視感の鈍さ。

 

「理由を聞いても?」

 

私の声は思いの外、落ち着いていた。自分でも少し驚く。

 

「君はルミナをいじめていた。侍女を使って嫌がらせをし、舞踏会への招待状を何度も握り潰し、彼女の評判を傷つけようとした。それだけではない。君は冷酷だ。公爵令嬢という立場に溺れ、弱い者を踏みつけにすることを何とも思わない。……そんな人間を、私の妻にはできない」

 

周囲がざわめき始める。

扇を口元に当てた令嬢たちが視線を交わす。

老齢の貴族たちが眉をひそめる。

そしてルミナは——ルミナだけは、悲しそうに目を伏せて、それでも殿下の腕にそっと手を添えていた。

絵になる光景だと思う。心の底から、そう思う。

 

「……それが、全てですか」

 

「十分だろう。イザベラ、君には失望した」

 

また、この言葉。

私の唇が、かすかに動いた。声には出なかった。ただ内側で、静かにそう繰り返した。

また、この展開。また、この感覚。

いじめの証拠とやらを、私は見たことがない。侍女に命令した記憶もない。招待状を握り潰した事実も——当然、ない。

それでも"そういうことになっている"。

いつからだろう。こういう理不尽を前にしたとき、怒りより先に奇妙な冷静さが来るようになったのは。

世界が、少しだけ——ずれている。

そう感じ始めたのは、確か三年前のことだった。

 

「——承知しました」

 

私は深く、礼をとった。公爵令嬢として恥ずかしくない所作で。震えも、涙も、なく。

 

「婚約破棄、謹んでお受けいたします」

 

その言葉を口にした瞬間——世界が、止まった。

いや、正確には止まったわけではない。舞踏会の音楽はまだ遠くで流れている。人々の息遣いも聞こえる。

でも何かが——外れた。

それは音ではなかった。光でも、衝撃でもなかった。

強いて言うなら——ずっと肌に張り付いていた薄い膜が、音もなく剥がれ落ちたような感触。

思わず、自分の手を見た。何も変わっていない。白い手袋、その下の指。

でも、確かに何かが変わった。広間の空気が、変わった。

最初に気づいたのは、ざわめきの質だった。

婚約破棄の発表直後は「まあ」「やはり」「可哀想に」という囁きが満ちていた。

それが——数秒のうちに、別の声色に変わり始めた。

 

「……証拠は?」

 

誰かが言った。老齢の侯爵夫人の声だった。

 

「殿下、ご令嬢のいじめとは——具体的にはどのような?」

 

「それは……ルミナから聞いている。彼女が苦しんでいたのは確かだ」

 

「聞いた、とは——証拠書類や目撃者があってのことでしょうか。公爵令嬢への告発です。相応の根拠があってのことかと存じますが」

 

周囲が、また静まり返る。

さっきとは違う静まり方だった。先ほどは劇の幕が下りたような静寂。

今度は——人々が、初めて舞台を外側から眺めるような、覚醒に似た沈黙。

私はそれを、奇妙な距離感で観察していた。

何かが確かに変わった。婚約破棄が成立した——その瞬間に。

ルミナを見る。彼女はまだ殿下の腕に寄り添い、悲しげな表情を保っていた。

でも、その瞳がわずかに泳いだ。それを、私は見た。

今まで見えなかったものが見えた——というより、今まで見ていたのに認識できていなかったものが、初めて像を結んだ感覚。

 

「……殿下」

 

私は静かに口を開いた。

 

「証拠がないのであれば、この破棄は不当ということになりますが——そのご認識は?」

 

「イザベラ、君は今更——」

 

「今更ではありません。ただ確認しているだけです。私はいじめをしていない。証拠もなければ、事実もない。——であれば、これは公爵家への侮辱と取られても仕方ないことでしょう」

 

殿下の表情が揺れた。今まで見たことのない揺れ方だった。

確信に満ちた怒りではなく——本当に、初めて疑問を持つような、あの顔。

その変化が、私の中の仮説を確信に変えた。

世界が変わったのではない。"補正"が、消えた。

そう、と私は心の中で呟く。

三年前から感じていた違和感の正体。証拠が消える不思議。あり得ない偶然が重なる奇妙さ。どれだけ真実を語っても、なぜか私だけが悪く見える——あの理不尽の根源。

全部、繋がった。

この世界には、ある種の"力"が働いていた。

誰かを中心に、世界が都合よく動く力。人の判断を歪め、偶然を操り、結果を書き換える——目に見えない、でも確かに存在した、物語の補正。

そしてその中心は——ルミナだった。

私の記憶が、するすると蘇ってくる。

三年前、ルミナが初めて学園に現れた日。それまで私と仲の良かった令嬢たちが、翌週にはなぜか私を避けるようになっていた。理由を聞いても誰も答えなかった。ただ「イザベラはちょっと……」と目を逸らすばかりで。

半年後、殿下との茶会の席でルミナが泣き出した事件。私は何も言っていなかった。ただそこにいただけだった。なのに気づけば「イザベラ嬢に意地悪を言われた」という話が広まっていた。

一年前、私宛の手紙が何通か届かなかった件。後になって「誰かに握り潰された」とわかったが——その"誰か"は最後まで不明のまま、なぜか私の評判だけが傷ついた。

おかしい、とは思っていた。でも「おかしい」と声に出すたびに、周囲の視線が冷たくなった。「言い訳をしている」と見られた。どれだけ事実を並べても、空気は私に不利に傾き続けた。

——それが、補正の仕業だったとすれば。全部、説明がつく。

証拠が消えたのは、補正が消したから。あり得ない偶然が重なったのは、補正が引き寄せたから。どれだけ真実を語っても私が悪者に見えたのは、補正が人々の認識を塗り替えていたから。

そしてその補正は——婚約破棄という"強制イベント"の成立と同時に、役目を終えて消えた。

なんと、単純な話だろう。

私はゆっくりと息を吐いた。怒りは、不思議なほどなかった。悲しみも、然り。

あるのはただ——長年抱えていた違和感が、ようやく正しい形に収まったときの、静かな納得だけ。

 

「殿下」

 

もう一度、私は口を開いた。

 

「今夜のことは持ち帰ります。婚約破棄そのものに異議はありませんが、名誉毀損については父と相談の上、改めてご連絡を差し上げます」

 

「……イザベラ」

 

「良い夜を」

 

それだけ言って、私は背を向けた。

誰も、止めなかった。

ただ——今度の沈黙は、もう私を責めるものではなかった。


翌朝から、世界は変わり続けた。

変わった、というより——本来の姿に戻っていった、という表現の方が正確かもしれない。

まず変わったのは、使用人たちの顔だった。

朝食の席で、長く仕えてくれているメイドのエルザが、少し困った顔で言った。

 

「お嬢様、昨夜のことですが……殿下のご発言に、私どもも驚いております」

 

「何が驚きなの」

 

「証拠がないのに、あのような場で——」

 

エルザは言葉を途切らせ、それから思い切ったように続けた。

 

「私、ずっとおかしいと思っていたんです。お嬢様がルミナ様をいじめているなんて、一度も見たことがなかったから。なのになぜか……言い出せなくて」

 

その言葉が、胸に染みた。

 

「言い出せなかった理由は何だった?」

 

「それが……よくわからないんです。言おうとすると、なんだか違うことを考えてしまって。ぼんやりとした感じで、結局黙っていて」

 

補正、と私は心の中で呟く。

人の判断に直接介入する。言葉を飲み込ませ、行動を鈍らせ、真実の証言を霧の中に沈める。

エルザだけではなかったのだろう。私の味方になり得た人たちが、そうやって一人ずつ、静かに黙らされていた。

 

「エルザ」

 

「はい」

 

「ありがとう、覚えていてくれて」

 

エルザは目を潤ませて、深くお辞儀をした。

その後、屋敷を訪ねてきた者がいた。セドリック殿下の側近——アルノルト伯爵子息だった。

客間で向かい合うと、彼は開口一番に言った。

 

「昨夜の件について、殿下が——」

 

「謝罪ならお断りします」

 

遮ると、アルノルトは少し目を瞬かせた。

 

「……なぜ、先がわかったんですか」

 

「雰囲気でわかります。で、殿下は何と?」

 

「昨夜からずっと、考え込んでおられます。証拠もなく、あの場であのような発言をしたことを——ご自身でも不思議がっておられるようで」

 

「不思議、ですか」

 

「はい。なぜ自分があれほど確信していたのか、理解できないと」

 

私はカップを持ち上げ、紅茶を一口飲んだ。温度が、ちょうどいい。

 

「アルノルト様は——殿下がルミナ嬢に惹かれた経緯を、どう見ていましたか」

 

少し間があった。

 

「……正直に申し上げていいですか」

 

「どうぞ」

 

「最初から、少し変だと思っていました」

 

アルノルトは視線を落として、慎重に言葉を選びながら続ける。

 

「殿下はああ見えて、判断の早い方ではないんです。物事を多角的に見る習慣がある。なのにルミナ嬢に関してだけは——まるで最初から答えが決まっているような動き方をされていて」

 

「具体的には」

 

「彼女の言葉を、一度も疑わなかった。普段の殿下ならあり得ないことです。証拠を求める、複数の証言を集める——そういった手順を完全に飛ばして、ただ彼女の言葉だけを信じていた」

 

アルノルトは顔を上げ、まっすぐに私を見た。

 

「私は昨夜、婚約破棄の直後から急に頭が冷えました。なぜ今まで疑問に思わなかったのかと、それが怖くて」

 

「怖い、とは」

 

「自分の思考が、自分のものではなかったような気がして」

 

私は静かに頷いた。あなたは正しい、と言いたかった。でもまだ、全てを説明するには早い。

 

「殿下に伝えてください。謝罪は不要です。ただし——今後のことについては、私が主導権を持って動きます。邪魔をしないでいただければ」

 

アルノルトは一瞬だけ何か言いたそうな顔をして、それからこくりと頷いた。

その日の午後、ルミナの話が入ってきた。

王太子主催の昼茶会で、彼女が失態を犯したというのだ。

話を持ってきたのは、幼馴染の令嬢、ソフィアだった。

 

「ねえイザベラ、聞いた?」

 

椅子に腰かけるなり、ソフィアは身を乗り出してくる。

 

「ルミナ嬢が、お茶をこぼして上位貴族夫人のドレスを汚したんですって。しかも謝り方が——なんというか、ちぐはぐだったらしくて」

 

「ちぐはぐ、というのは?」

 

「まず泣いたんだって。でも涙が出なくて。それで周りが戸惑っていたら、今度は急に明るく笑って『大丈夫ですよね?』って言ったらしいの。……なんか、読めない人だって印象になったみたい」

 

私には、何が起きたかわかった。

補正があった頃のルミナは、どんな失敗もうまく帳消しになっていた。泣けば場の空気が柔らかくなった。笑えば周囲もつられて笑った。不思議と許されて、不思議と愛されて——それが当たり前だと、彼女自身も思っていたはずだ。

でも今はもう、補正がない。涙を流せば同情が生まれるわけではない。笑顔を見せれば空気が変わるわけでもない。

ルミナは今、生まれて初めて——補正のない世界に立っている。

 

「可哀想だとは思わないの?」

 

ソフィアが少し意外そうに聞いてくる。

 

「思わないわけでもないけれど」

 

私は窓の外を見ながら答えた。

 

「あの人は今まで、世界が自分に合わせてくれるのを当然だと思っていた。それが突然なくなれば、誰だって戸惑う」

 

「……それって、同情?」

 

「ただの観察です」

 

ソフィアはしばらく黙って、それから「そっか」とだけ言った。

数日が経つにつれ、ルミナの"変化"は宮廷中で噂になり始めた。

茶会での失態だけではなかった。慈善活動の席で段取りを間違え、主催の侯爵夫人を困らせた。音楽会で演奏中に楽譜を落とし、場を凍りつかせた。殿下との散歩中に転んで、護衛の騎士に助けられたにもかかわらず、なぜか騎士の方が謝罪する羽目になったという——意味不明な話も聞こえてきた。

一つ一つは些細なことだ。誰にでも失敗はある。

でも、ルミナの場合は少し違った。失敗そのものより、その後の振る舞いが人々の目に奇妙に映った。

補正があった頃の彼女は、失敗を"愛嬌"に変える不思議な力があった。ドジっぽい笑顔が場を和ませ、周囲が自然とフォローしたくなる——そういう空気を生み出していた。

でも今の彼女には、その力がない。転んで笑っても、誰も笑わない。困った顔をしても、誰も駆け寄らない。

笑顔と涙と困惑を、少し間の悪いタイミングで使う、普通の——ただの、普通の、少女。

「普通」であることの、残酷さ。私はそれを、少し遠いところから眺めていた。

ソフィアから二度目の報告が来たのは、それから三日後のことだった。

 

「ねえイザベラ。殿下がおかしいって知ってる?」

 

「どんなふうに」

 

「最近、ルミナ嬢と二人でいるときでも、全然楽しそうじゃないって。なんか……ぼーっとしてるらしいの。視線が定まらないっていうか」

 

「そう」

 

「それだけ? そう、だけ?」

 

ソフィアが若干不満そうに眉を寄せる。

 

「あなたって本当に動じないわよね」

 

「動じてないわけじゃないけれど」

 

私は少し考えてから、付け加えた。

 

「殿下は今、自分の頭で考え始めているんだと思う」

 

「……それって、良いことなの?」

 

「本人にとっては、たぶん苦しいことよ」

 

ソフィアはきょとんとした顔で首を傾げた。それ以上の説明はしなかった。

その翌日、殿下から直接の使いが来た。「話をしたい」という、短い一文だけの書状。

私は少し迷ってから、承諾の返事を送った。

場所は王宮の小庭園。約束の刻限より少し早く着くと、殿下はすでにそこにいた。

噂通り——顔色が優れなかった。目の下にうっすらと影があって、いつもの落ち着いた佇まいが、微妙に揺らいでいる。

 

「来てくれた」

 

「書状をいただいたので」

 

「……そうだな」

 

殿下は噴水の縁に視線を落としたまま、しばらく黙っていた。私も黙って待った。

 

「イザベラ」

 

「はい」

 

「俺は——本当に、自分で選んでいたのか?」

 

静かな問いだった。責める言葉でも、言い訳でもなく——ただ純粋に、自分自身への疑問。

 

「どういう意味ですか」

 

「ルミナへの感情も。君への不信も。あの夜の判断も。——全部、俺が自分で考えて、自分で決めたと思っていた。でも最近になって……おかしいと思い始めた。なぜ証拠を求めなかったのか。なぜ君の言葉を一度も信じようとしなかったのか。なぜあの場で、あんな形で宣言することを当然だと思っていたのか」

 

「……」

 

「答えが、出ない。出ないのに、今まで疑問にすら思っていなかった。それが——怖い」

 

噴水の水音だけが、庭に響いていた。私は少し空を見上げてから、静かに口を開いた。

 

「殿下は、この三年間で一度でも——私が本当に悪いことをしている場面を、ご自身の目で見ましたか?」

 

沈黙。

 

「……見ていない」

 

「ルミナ嬢から話を聞くたびに、なぜか納得していた」

 

「……そうだ」

 

「おかしい、と感じたことは?」

 

「……なかった。あの夜まで、一度も」

 

「そして婚約破棄が成立した夜から、急に頭が冷えた」

 

殿下が顔を上げ、鋭い目で私を見た。

 

「なぜそれを知っている」

 

「アルノルト様から聞きました。それから、私自身も同じ夜に気づいたので」

 

「気づいた——何に」

 

私はゆっくりと、殿下の目を見返した。

 

「この世界には、ある種の"力"が働いていました。誰かを中心に、物事が都合よく運ぶ力です。証拠が消え、記憶が歪み、人の判断がそれに沿うように流されていく。誰もそれに気づかない——いえ、気づこうとする思考そのものが、鈍らされていた」

 

「……何を言っている」

 

「信じなくても構いません」

 

「いや——続けてくれ」

 

「その力の中心は、ルミナ嬢でした。意図的にかどうかはわかりません。ただ彼女の周囲では、彼女に有利な偶然が積み重なり続けた。そして彼女の障害になり得る人間——たとえば私は、何もしていなくても悪者に仕立て上げられていった」

 

「…………」

 

「殿下がルミナ嬢に惹かれたのも、私を信じられなかったのも、あの夜の判断も——全て、その力の影響下にあったと私は考えています」

 

噴水の水が、細い弧を描いて落ちる。殿下はしばらく、何も言わなかった。

怒鳴るかと思った。馬鹿にするなと言うかと思った。

でも彼は——目を閉じて、静かに息を吐いた。

 

「俺の意志は、俺のものではなかったと」

 

「完全にそうとは言いません。でも——少なくとも、公正な判断ではなかった」

 

「……それは」

 

殿下の声が、低くなる。

 

「君に対して、酷いことをしたということだ」

 

「事実として、そうです」

 

私は淡々と答えた。感情を乗せるつもりはなかった。ただ、正確に。

 

「この三年間、私はずっと"悪役"でした。何もしていないのに、何かをしたことになっていた。弁明するたびに状況が悪化し、沈黙すれば認めたことになった。——それが補正の力だったとしても、私が受けた扱いは現実です」

 

「イザベラ……」

 

「殿下が今、苦しんでいることは理解します。自分の判断が自分のものではなかったかもしれない——その恐怖は、本物でしょう。でも同時に、その判断によって傷ついた人間がいることも、忘れないでいただきたい」

 

殿下の喉が、小さく動いた。庭に、しばらく沈黙が満ちた。

風が吹いて、薔薇の香りが流れてきた。私はそれを胸に吸い込んで——ようやく、少しだけ肩の力が抜けた。

三年間分の、違和感。三年間分の、理不尽。三年間分の、言えなかった言葉。

それらが今、ようやく正確な形を持ち始めている。

 

「やり直したい」

 

殿下の声は、静かだった。噴水の音に溶けそうなほど、小さく。でも確かに、聞こえた。

 

「イザベラ。俺は——君ともう一度、向き合いたい」

 

私は答えなかった。すぐには、答えられなかった。

風が薔薇の枝を揺らす。遠くで小鳥が鳴く。世界は相変わらず、静かに回っている。

 

「補正が消えた今の俺は、本来の俺だと思う。だからこそ、ちゃんと見えるものがある。君がどれだけ理不尽な状況に置かれていたか。どれだけ不当な扱いを受けてきたか。——そして、どれだけ俺が間違っていたか」

 

「……」

 

「謝っても済まないことはわかっている。でも、このままにはできない」

 

私はゆっくりと、殿下の方を向いた。金の髪、青い瞳。疲労と後悔の滲んだ、その顔。

嘘ではないのだろう、と思った。今の殿下の言葉は、補正に流された言葉ではない。自分の頭で考え、自分の心で感じた——おそらく、初めて本当の意味での、彼自身の言葉。

だからこそ。

 

「殿下」

 

私は静かに言った。

 

「あなたは今、"物語に選ばれた私"を見ています」

 

「……何?」

 

「補正があった頃、私は悪役でした。補正が消えた今、私は被害者になった。——殿下が向き合おうとしているのは、そのどちらかのイザベラです。どちらでもない、本当の私を——あなたは一度でも、見たことがありますか」

 

沈黙。

 

「好きな本の話を。苦手な食べ物を。朝が弱くて、雨の日が好きで、考えすぎて眠れない夜があることを。——そういうことを、あなたは何一つ知らない」

 

「それは……」

 

「三年間、婚約者でしたね」

 

私の声は穏やかだった。責めているのではない。ただ、事実を並べているだけ。

 

「三年間、あなたは私の隣にいた。でも補正がある間、あなたの目は常にルミナ嬢に向いていた。私を見るときは、疑惑か失望か、その二択でした。今さら向き合いたいと言われても——向き合う"私"が、あなたの中にはいないんです」

 

「だから、これから——」

 

「殿下」

 

私は首を振った。

 

「私はもう、誰かの都合のいい役は演じません。悪役でも、被害者でも、やり直しのための舞台装置でも。——どれも、私ではない」

 

「イザベラ……」

 

「あなたが本当に変わりたいなら、まず自分自身と向き合うことです。私ではなく」

 

それだけ言って、私は深く礼をとった。公爵令嬢として、恥ずかしくない所作で。

背を向けて歩き始めると、殿下は追ってこなかった。ただ一言、小さく——

 

「……そうだな」

 

という声だけが、背中に届いた。

それからの宮廷は、水面に石を投げ込んだあとのように、波紋が広がり続けた。

アルノルトが独自に動いたのか、あるいは殿下自身が動いたのか——婚約破棄の経緯について、正式な調査が入ることになった。

イザベラへのいじめの証拠を改めて精査したところ、何一つ実証できなかった。目撃証言を求めると、誰も具体的な場面を語れなかった。「そういう話を聞いた」という証言はあっても、「実際に見た」という者が一人もいない。

文書で提出されていた"被害報告"は、全てルミナの自筆か、彼女の近侍からのものだった。第三者の確認が、どこにもなかった。

侯爵夫人が嫌味な笑顔でこう言ったと噂に聞いた。

 

「三年間も婚約者を悪者にしておいて、証拠一枚もないとは——ずいぶんと杜撰な話ですこと」

 

宮廷の空気は、ゆっくりと傾いた。ルミナへの視線が、変わっていった。

憐れみから、困惑へ。困惑から、疑念へ。

補正のない目で見れば——彼女はただの、証拠のない告発を続けた少女だった。純粋で明るく、愛らしい。でもその言葉の数々が、一人の令嬢の三年間を歪め続けていた。

意図があったかどうかは、わからない。わからないが——結果として、そうだった。

ルミナは昼茶会への招待が減り始めた。殿下の行事への同行も、以前のように当然ではなくなった。

殿下の評判も、無事では済まなかった。証拠もなく公の場で婚約者を断罪した王太子。感情に流され、調査も経ずに断を下した次期国王。そういう評価が、じわじわと広まった。

厳しい貴族たちからは「判断力に疑問がある」という声も上がり始め、殿下はしばらく公務の一部を制限される形になったと聞いた。

自業自得、とは思わなかった。ただ——必要な痛みだとは思った。

人は痛みがなければ、本当には変われない。殿下も、ルミナも——今まで痛みを知らなすぎた。

三週間後、私は父と共に王宮を訪れた。名誉毀損についての正式な謝罪と、補償の取り決め。

父は珍しく感情的になっていたが、私は終始落ち着いていた。

手続きが全て終わったあと、廊下でばったりアルノルトと鉢合わせた。

 

「イザベラ嬢」

 

「アルノルト様」

 

「……殿下は今日も、落ち込んでいます」

 

「そうですか」

 

「あなたに謝りたいと、毎日言っています」

 

「謝罪は書状で受け取りました。それで十分です」

 

アルノルトは少し笑った。苦いような、でもどこか清々しいような、複雑な笑い方だった。

 

「強いですね、あなたは」

 

「強くはありません」

 

私は少し考えてから、言い直した。

 

「ただ——やっと、自分の足で立てるようになった気がしているだけです」

 

アルノルトはその言葉に何も返さず、ただ深く頭を下げた。私もお辞儀を返して、廊下を歩き出した。

王宮の外に出ると、五月の空が広がっていた。雲一つない、澄んだ青。

私はしばらく足を止めて、その空を見上げた。

補正がない世界は——思っていたより、静かだった。

誰かが私を悪者にしようとする気配がない。都合よく証拠が消えることもない。周囲の目が、根拠なく冷たくなることもない。

ただそこにあるのは、何の飾りもない現実だけ。

評価は、行動によって積み上がる。信頼は、時間をかけて育てる。人間関係は、一つひとつの言葉と誠実さで作られる。

当たり前のことが、当たり前に通じる世界。それがこんなにも——穏やかだとは、思っていなかった。

 

「お嬢様、お迎えの馬車が参りました」

 

エルザの声に振り返ると、黒塗りの馬車が門の前に止まっていた。

私は歩き出しながら、心の中でもう一度、空を見上げた。

物語は終わった。誰かのために用意された役も、誰かの都合で書き換えられた台本も、もうない。

——ここからが、本当の現実。

主役も悪役もない、ただの一人の人間として。

イザベラ・ヴォルテールは、今日から、自分だけの物語を歩き始める。

終幕


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