第7話 試着室のカーテンを開けた瞬間、夫の心拍数が「BPM182」を叩き出した
領都のメインストリートは、活気に満ち溢れていた。
石畳を馬車が行き交う音、市場から漂う香ばしい串焼きの匂い、そして行き交う人々の喧騒。
それらすべてが、一台の漆黒の馬車が通り過ぎる瞬間だけ、波が引くように静まり返る。
「……人が多いな」
隣を歩くギルバート様が、低く唸った。
その眉間には深い渓谷のような皺が刻まれ、鋭い眼光は周囲を油断なくスキャンしている。
漆黒のロングコートを翻して歩く姿は、獲物を探す死神そのものだ。
人々は悲鳴を噛み殺し、蜘蛛の子を散らすように道を空ける。
「ヒッ……氷の閣下だ……」「目を合わせるな、凍らされるぞ……」という囁きが、風に乗って耳に届く。
普通なら、この針の筵のような状況に胃が痛くなるところだ。
けれど、私の腕を引く彼の手は、革手袋越しでも分かるほど熱く、そして小刻みに震えていた。
彼の頭上には、周囲の恐怖とは真逆の、可愛らしい悩みログが流れている。
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃【リアルタイム・検索履歴】
┃
┃`[検索:デート エスコート 正解]`
┃`[検索:手をつなぐ タイミング 今?]`
┃`[検索:歩く速度 女性 合わせる]`
┃`[検索:周囲の視線 妻を守る 威嚇]`
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
(威嚇しないでください)
彼は周囲を警戒しているのではない。
私と並んで歩くことに緊張しすぎて、顔が強張っているだけなのだ。
私は苦笑しながら、彼のエスコートに身を預けた。
◇
到着したのは、領都で一番の高級ブティック『シルヴァ・モード』だ。
重厚なマホガニーの扉を開けると、ふわりと高貴なポプリの香りが鼻腔をくすぐった。
店内には色とりどりのシルクやベルベットのドレスが並び、磨き上げられた鏡がシャンデリアの光を反射している。
「い、いらっしゃいませ! ヴォルフィード公爵閣下!」
店主の初老の男性が、青ざめた顔で飛び出してきた。
額には玉のような脂汗が浮かび、揉み手をする指関節は白く変色している。
彼の頭上には`[状態:恐怖]` `[思考:処刑される? 粗相は許されない]`という悲痛なタグが浮かんでいる。
「……妻の服を見繕いたい」
ギルバート様が短く告げると、店内の空気が5度は下がった。
彼は店内をぐるりと見渡すと、無造作に指を振った。
「ここから、ここまで。……いや、店ごと買い取ろう」
「は、はいぃぃ!?」
店主が裏返った声を上げ、私は思わず彼の袖を引いた。
「待ってください、ギルバート様。お店ごと買ってどうするのですか」
「君に何が似合うか分からない。ならば、全ての可能性を手元に置くのが最も合理的だ」
真顔だ。
詳細スペックにあった`[財力:SS]`が火を吹いている。
カイル殿下の「金がない」という悩みとは対極にある悩みだが、これはこれで困る。
「お気持ちは嬉しいですが……私は、貴方と一緒に『これだ』と思う一着を選びたいのです。思い出ごと、購入したいので」
私が上目遣いで訴えると、ギルバート様の動きが止まった。
彼の赤い瞳が激しく揺れる。
そして頭上のウィンドウに、特大のシステムログが表示された。
`[心象メモ:思い出……!]`
`[思考:その発想はなかった]`
`[思考:妻が尊い]`
`[判定:採用。店ごとの買い取りは中止]`
彼は咳払いを一つして、店主に告げた。
「……訂正する。妻の好きなようにさせろ」
「は、ははーっ!」
店主が安堵で崩れ落ちそうになるのを横目に、私はドレス選びを始めた。
手触りの良い生地、繊細なレース。
どれも素敵だが、私の目は一着のドレスに釘付けになった。
それは、深いワインレッドのドレスだった。
落ち着いた色味だが、光の加減で鮮血のようにも、熟れた果実のようにも見える艶やかな赤。
それは、ギルバート様の瞳の色と同じだった。
「これを試着させていただけますか?」
◇
試着室の中は、静まり返っていた。
店員の女性に手伝ってもらい、コルセットを締める。
肺が圧迫される感覚と共に、背筋がピンと伸びる。
鏡に映る自分は、いつもの地味な私とは少し違って見えた。
深い赤色が肌の白さを引き立て、デコルテのラインが露わになっている。
少し、大胆すぎるだろうか。
「……お待たせいたしました」
私は深呼吸をして、重いベルベットのカーテンを開けた。
シャラ……とカーテンのリングが鳴る音が、静寂に響く。
ソファーに座って待っていたギルバート様が、顔を上げた。
私と目が合う。
その瞬間。
「…………」
彼は凍りついたように動かなくなった。
瞬き一つせず、呼吸すら止まっているように見える。
そして次の瞬間、彼はバッと顔を背け、片手で口元を覆った。
「……!!」
沈黙。
痛いほどの沈黙が落ちる。
店主と店員が、ヒッと息を呑んだ。
彼らの目には、ギルバート様の行動が「不快感の露骨な表明」に見えたのだ。
「あ、あの……閣下? お気に召しませんでしたでしょうか……?」
店主が震える声で尋ねる。
ギルバート様は答えない。
背けた顔を戻そうともせず、さらに深く俯いてしまった。
その全身からは、ピキピキと音がしそうなほどの冷気――魔力が漏れ出し、近くにあった観葉植物の葉が白く凍りつき始めた。
(まずい、怒らせた!)
(あんな派手な色はふさわしくないと!?)
店員たちの頭上に`[絶望]`の二文字が浮かぶ。
空気は最悪だ。
今にも「店を潰せ」という命令が下りそうな重圧感。
しかし。
私の『真実の眼』だけは、全く別の光景を捉えていた。
ギルバート様の頭上に展開されたウィンドウは、かつてないほどの異常事態を告げていたのだ。
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃【システム警告:バイタル・クリティカル】
┃
┃心拍数:182 BPM(限界突破)↑RISING
┃体温 :40.2℃(知恵熱)
┃顔面 :耳まで真っ赤(※手で隠蔽中)
┃
┃【サジェスト(暴走ログ)】
┃`[検索:赤いドレス 俺の瞳の色?]`
┃`[検索:鎖骨 直視 不可]`
┃`[検索:似合いすぎて 言葉が出ない]`
┃`[検索:今すぐ 抱きしめて 隠したい]`
┃`[検索:心臓発作 前兆]`
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
(……死にかけてる)
彼は不機嫌なのではない。
あまりの刺激に、容量オーバーでショートしているのだ。
漏れ出している冷気は、沸騰しそうな自分自身の体を冷やそうとする、無意識の防衛本能だった。
「……着替えさせる」
ようやく彼が絞り出した声は、掠れていた。
「派手すぎる。……こんな格好で、外を歩かせるわけにはいかん」
店主が「ひぃッ! 申し訳ございません!」と土下座せんばかりに謝る。
言葉だけ聞けば、完全なダメ出しだ。
独占欲と嫉妬がこんがらがって、言葉選びを完全に間違えている。
私はため息をつく代わりに、彼の元へと歩み寄った。
凍りついた観葉植物の横を通り抜け、彼の前に立つ。
彼は頑なに私を見ようとしない。
私はそっと、口元を覆っている彼の手首に触れた。
熱い。
火傷しそうなほどの熱量だ。
「ギルバート様」
「……見るな。今は、顔を見せるな」
「どうしてですか? ……似合っていませんか?」
「…………似合い、すぎている」
彼は苦しげに呻いた。
その声には、隠しきれない情熱と、どうしようもない愛着が滲んでいた。
「そんな姿を、他の男の目に晒したくない。……俺だけのものにしておきたい」
ボソリと漏れた本音。
それと同時に、彼の頭上のウィンドウには`[本音:独占欲 100%]`の文字が表示された。
店主たちが、ポカンと口を開けている。
「氷の処刑人」が、ただの嫉妬深い愛妻家だと気づいた瞬間だった。
私は嬉しくて、自然と頬が緩んだ。
「まあ。……それなら、このドレスは『屋敷の中専用』にするしかありませんね?」
「……屋敷の中専用?」
「ええ。貴方だけに見せるための、特別なドレスです。……買って、いただけますか?」
私が小首をかしげてねだると、彼は恐る恐るこちらを向いた。
その顔は、やはり耳まで真っ赤で、赤い瞳は潤んでいるようにさえ見えた。
彼は私の姿をもう一度頭のてっぺんから爪先まで見て、大きく喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
`[購入決定]` `[購入決定]` `[購入決定]`
頭上のボタンが連打されている。
「……ああ。買う。今すぐ買う。そして、すぐに帰るぞ」
「ふふ、まだデートの途中ですよ?」
「無理だ。……今の君を連れて歩くなど、俺の心臓が持たん」
彼は脱ぎ捨ててあった自分のマントを掴むと、バサリと私に被せた。
頭からすっぽりと黒い布に包まれる。
視界が遮られると同時に、彼に強く抱き寄せられた。
「会計だ! 釣りはいらん!」
彼はカウンターに金貨の入った袋(重さからして店ごと買える額)を叩きつけると、私を抱えたまま店を飛び出した。
「あ、ありがとうございましたー……?」
呆気にとられる店主の声を背に、私たちは馬車へと急ぐ。
私の視界の端には、抱きかかえてくれる彼の頭上のウィンドウが揺れていた。
`[状態:緊急帰宅]`
`[目的:二人きりになる]`
`[幸福度:計測不能(ERROR)]`
マントの中で、私は彼の胸板に顔を埋めた。
聞こえてくる心臓の音は、さっきの表示通り、早鐘のように激しく鳴り響いていた。




