第2話 漆黒の馬車は「検索履歴」の流出と共に走り出す
王城の巨大な扉を抜けると、そこには肌を刺すような夜気が待ち構えていた。
熱気と脂粉の匂いが充満していた舞踏会場とは対照的に、外の空気は澄み渡り、肺の奥まで冷たく浄化していくようだ。
「……乗れ」
短く低い声と共に、目の前に漆黒の馬車が停められた。
装飾は極限まで削ぎ落とされ、艶消しの黒塗りで統一された車体。
扉には、ヴォルフィード家の紋章である「鎖に繋がれた銀の狼」が刻まれている。
貴族の優雅な馬車というよりは、高位の囚人を護送する監獄馬車か、あるいは霊柩車のような威圧感があった。
「ありがとうございます、閣下」
私はドレスの裾を持ち上げ、差し出された彼の手を取った。
分厚い革手袋越しでも、その掌が微かに湿っているのが分かった。
そして、力が強い。
骨が軋むほどではないが、一度掴んだら二度と離さないという意志を感じる硬直した握り方だ。
(……緊張してる)
私は口元が緩むのを必死に噛み殺し、ステップを上がった。
彼が続いて乗り込み、重厚な扉が「ダンッ」と低い音を立てて閉ざされる。
外界と遮断された、完全なる密室。
「出せ」
ギルバート公爵が壁を叩くと、御者が鞭を振るう音が響いた。
蹄の音が石畳を叩き、車輪が重々しく回転を始める。
車内は、息が詰まるほど静かだった。
向かい合わせに座るのが定石だが、彼はなぜか私の隣――それも、ドレスが触れ合うほどの至近距離に腰を下ろした。
狭いわけではない。この馬車は四人は余裕で座れる広さがある。
それなのに、彼は私の左側に巨大な壁のように鎮座し、前方を睨みつけたまま彫像のように動かない。
腕を組み、眉間に深い皺を寄せ、口元は真一文字に引き結ばれている。
その赤い瞳は、獲物を狙う猛禽類のように鋭く、殺気すら帯びているように見えた。
もし、私に「あの力」がなければ、恐怖で震え上がり、今すぐ扉を開けて飛び降りていただろう。
だが、今の私に見えているのは、彼の「殺気」ではなく、頭上に滝のように流れる「ログ」だった。
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃【リアルタイム・検索履歴】ギルバート・ヴォルフィード
┃
┃`[検索:馬車 座る位置 正解]`
┃`[検索:隣 近い 嫌がられる?]`
┃`[検索:ドレス 踏まない方法]`
┃`[検索:無言 何分まで許される]`
┃`[検索:手汗 止めるツボ]`
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
(……忙しい人)
彼の脳内は、戦場のような騒ぎだった。
隣に座ったのは威圧するためではなく、単に距離感の測り方を間違えただけらしい。
そして、あの鋭い眼光は、私のドレスの裾を踏まないように床を凝視しているだけなのだ。
ガタン、と車輪が石畳の溝に落ち、車体が大きく揺れた。
「……っ」
私の体が、慣性で彼の方へ傾く。
瞬間、鋼鉄のような腕が伸びてきて、私の肩をガシッと支えた。
「……すまない。御者の腕が未熟だ。後で厳罰に処す」
低い声。地を這うようなドスの効いたトーン。
御者が聞けば泣いて命乞いをするレベルの脅し文句だ。
しかし、ウィンドウの表示は正直だった。
`[検索:御者 褒める ナイスアシスト]`
`[検索:肩 触れた 柔らかい]`
`[検索:心臓 爆発 対処法]`
言っていることと、検索していることが真逆だ。
厳罰どころか、ボーナスを弾む気満々ではないか。
彼の心臓の鼓動が、私の肩に触れている腕を通して、ドクン、ドクンと伝わってくる。
そのリズムは、早鐘のように速い。
私は体勢を戻しつつ、彼を見上げた。
至近距離で見る彼の横顔は、やはり整いすぎていて、冷徹な美しさを放っている。
だが、その耳の端が、熟れたトマトのように赤くなっているのを私は見逃さなかった。
「閣下。……あの、御者の方を叱らないであげてください」
「……なぜだ。君を揺らした罪は重い」
「おかげで、閣下に支えていただけましたから」
私は、あざとさを承知で首を傾げてみせた。
カイル殿下相手に7年間磨き続けた「猫被りスキル」の全力投入だ。
「閣下の腕、とても頼りがいがあって……安心しました」
その瞬間。
ギルバート公爵の動きが完全に停止した。
瞬きすらしない。呼吸も止まったように見える。
ただ、彼の頭上のウィンドウだけが、異常な挙動を始めた。
ピ、ピピ、ピピピピピッ!!
警告音のような幻聴が聞こえるほどの勢いで、文字がスクロールしていく。
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃【システム警告:バイタル異常検知】
┃
┃心拍数:182 BPM(危険域)
┃体温 :38.5℃(急上昇)
┃思考処理速度:オーバーヒート
┃
┃【サジェスト(検索候補)】
┃`[検索:天使 実在 証明]`
┃`[検索:可愛い 死ぬ]`
┃`[検索:頼りがい 言われた 嬉しい]`
┃`[検索:今すぐ 抱きしめる 法律]`
┃`[検索:理性の限界 あと何秒]`
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
ウィンドウの枠が赤く明滅し、`[可愛い]`という単語が画面を埋め尽くして、物理的に枠からはみ出しそうになっている。
もはや検索履歴ではない。
ただの感情の垂れ流しだ。
「……そうか」
長い沈黙の末、彼が絞り出したのは、たった三文字だった。
彼は顔を背け、手袋をした手で口元を覆った。
その仕草は、冷淡に会話を打ち切ったように見える。
だが、私には見えていた。
彼の手の隙間から覗く頬が、耳まで真っ赤に染まっているのを。
「俺も……君を守れるなら、悪くない」
ボソリと呟かれたその言葉は、震えていた。
聞き逃してしまいそうなほど小さな声。
けれど、それはどんな甘い愛の言葉よりも、私の胸にストンと落ちた。
(……ああ、本当に)
私は窓の外に流れる夜景に目をやった。
ガラスに映る私の顔は、自分でも驚くほど自然に笑っていた。
カイル殿下の前で見せていた、計算された笑顔ではない。
滑稽で、不器用で、愛おしいこの旦那様に対する、心からの苦笑と安堵。
この買い物は、やはり正解だった。
「★1.2」の評価なんて、飾りにもならない。
私の隣にいるのは、世界で一番、愛が重くて純粋な男だ。
ふと、彼のウィンドウに新たなログが表示された。
`[予定:屋敷到着後 初夜]`
`[検索:初夜 手を出さない 我慢]`
`[検索:同じベッド 寝るだけ 拷問]`
`[検索:男のプライド 捨て方]`
(……ん?)
私は目を凝らした。
「手を出さない」?
「我慢」?
待ってほしい。
詳細スペックには`[夜の傾向:絶倫(加減不可)]`と書いてあったはずだ。
あれは嘘だったのか?
それとも、彼なりの紳士協定(やせ我慢)なのか?
馬車は、石畳を滑るように進んでいく。
公爵邸までは、あと数十分。
そこで待っているのは、彼が必死に理性と戦う夜か、それとも検索履歴がバグるほどの熱い夜か。
私はそっと、自分の胸に手を当てた。
鼓動が、少しだけ速くなっている。
それは恐怖ではない。
この不器用な魔王様が、私の前でどうやって理性のタガを外すのか……それを確かめるのが楽しみで仕方がないという、とんでもない期待感だった。
「……楽しみですね、閣下」
「……何がだ?」
「これからの生活、すべてが」
私が意味深に微笑むと、彼のウィンドウには再び`[検索:天使][検索:神よ感謝します]`の文字が踊り狂った。




