異様な空気
スパーリング大会当日、ボクシング部の上級生達は、一度ジムの外に集められた。
「参ったな。予想以上に見学者が多い」
顧問が口を開いた。
やはり元世界チャンピオンの息子の、下川の注目度は抜群だ。
「一年を潰すなよ。恥をかかさず、少し花を持たせてやれ。決して倒すなよ」
顧問の注意は続く。観客が多ければ当然経験のない一年は萎縮する。逆に上級生は良い所を見せようと、張り切り過ぎてしまうことを懸念してのことだ。
「しかし、それじゃ、勘違いして天狗になりませんか?」
血の気の多い2年の一人が言った。
「伸びた鼻は後でいくらでも折れる。それに別に負けろと言ってるんじゃない。倒すなってだけさ。ですよね?」
答えたのは部長だった。顧問は黙って頷く。
「忘れるな。これは練習試合だぞ。試合じゃない。いつも練習で格下は倒さないだろ?それと同じだ」
顧問に代わって部長が指示を続けた。
そんな指示をしなければいけないほど、異様な空気になっている。
まるで公式戦みたいだ。
「ただ、お前だけはガチでやっていいからな」
部長が田中孝則の肩をポンと叩く。
「むしろ倒されるなよ」
誰かがそう言うと、軽く笑いが起きる。すこし場が和んだ所で事前打ち合わせは解散になった。
みながジムに戻る中、孝則だけは少し残るようにと部長に指示された。
「すまん。最後、お前をダシに場を和ませたみたいになってしまった」
と部長。
「いえ、特に気にしてませんから」
と孝則。
「集中できてるな。ホントにお前だけは倒しても構わんぞ。下川のお父さんからも許可出ている」
「えっ?」
孝則は言葉が出ない。どういうつもりで部長は言っているのだろう?励ましか?それにしては歯が浮くような話だ。下川のお父さんが言うのは分かる。余裕だろう。それぐらい本気で来なければ練習にもならないと。
「この前練習見に来ていただいただろ?その時に言ってたんだ。彼なら息子にも良い経験になるだろうって」
「そうですか・・・ありがとございます。。。」
孝則はそれだけを答えるのがやっとだった。
(ダメだ、余計なことは考えるな。集中を!)
孝則は気持ちを切り替えながらジムに戻った。
既にジム内は多くの見学者がいた。体育倉庫から持ち出したパイプ椅子を入るだけの並べてはいるが、立ち見もけっこうな数がいる。
1年生はかなり緊張しているのが見て取れる。下川も例外ではなかった。
予定の時間になり、顧問と部長がが軽く挨拶をすると、さっそく1組目からスパーリングが開始される。
まずは1年生対2年生で、2分1ラウンド。その後で上級生同士の2分2ラウンドのスパーリングになる。
孝則と翔太郎は1年生の最後に組まれていた。最初に下川を見させられたら、後の一年生はやりにくいだろうという配慮、そして下川の出番が終わったら見学者がかなり減ることが予想され、それも1年生のモチベーションを落とすのではないかという懸念事項がある為だ。
事前の打ち合わせもあってか、1年生がボコボコに倒されるというような展開にはならなかった。
上級生は、あえてガードを固めて1年生に攻撃させるような場面もしっかり作っている。
それでも、上級生の左ジャブで一年生の首が大きく後ろに弾かれるような場面で、どよめきが起きる。
TVでは牽制程度にしか見えない左ジャブでも、それは打たれる方のレベルが高いからそう見えるだけだ。実際に人の顔を殴っていることには変わりなく、初めて生で観る者には、かなり衝撃がある光景だ。
そして、2分1ラウンドでも1年生は1分過ぎたあたりから、明らかに動きが悪くなる。足が動かなくなり、息遣いが激しくなり、ガードが上げられなくなるのだ。これもTV観戦ではなかなか伝わらないボクシングというスポーツの激しさである。
ラウンド終了のゴングが鳴らされると、消耗しきった1年生は安堵の表情を浮かべる。
そして、判定。といってもスパーリング大会なので形だけだ。
「ドロー」
と言ってレフェリー役の顧問が両者の腕を上げる。温かい拍手が送られる。
その流れで数試合を終え、顧問が次の選手を紹介をした。
「次は、1年生最後の試合です」
それだけで、一際大きな拍手が沸き起こる。
孝則と翔太郎がリングに上がって選手紹介を受けた。対角線のコーナーに散った所で顧問が言う。
「なお、この試合に限り、下川君が経験者と言うことで、2分2ラウンドで行います」
ジム内は、更なる拍手で包まれた。